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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

言葉によって世界を認識するのか?

2018-11-13 04:56:57 | 哲学

いつも感じるのだが、思い通りにブログ記事が書けたためしがない。書き終わってから、「あれっ、ぼくはこんなことを書こうとしていたんだうか?」といつも思うのだ。そういうことからも「思考は言葉に支配されている」というのはつくづく本当のことだと痛感する。考えてみればそれは当たり前のことで、思考を表現するには言葉で表現するしかないからである。しかし、思い通りに記事が書けないというのは、思考が自分の言葉以上であることの証左でもあるのではないのだろうか。常に自分の言葉を越えたいと言う欲求が私の思考を支えている。だが、その思考は言葉にならなければ思考したことにならないのである。

「肩こり」という言葉を知らない人は肩がこるということはない、「うま味」という言葉を知らないとうま味に気がつかない、ということがよく言われる。そういうことから「世界は言葉によって認識される」ということになるのだろう。本当だろうか?

私はちょっとそれは言い過ぎだと思う。言っているのはたぶん哲学者である。哲学者はいつも考えてばかりいるから、「思考 ≒ 世界」になってしまっている。思考世界は言葉によって構成されているから、哲学者がそう思うのは無理もないし、それを聞いた私達もその時は思考中であるからその言葉をやすやすと受け入れるのであるが、人間はいつも考えてばかりいるわけではない。思考世界は世界の一部分であってすべてではない。ほとんどの人は非思考的に世界を受容している部分がかなりあると考えるべきだと思う。

というのは、は既に9年以上もブログを書き続けている。(=>最初の記事2009.04.13) その頃から見ると、思考方法も表現方法もかなり変わったけれど、私の世界はほとんど変わっていないからである。言葉による思考世界は確かにある程度変わったのは間違いない。しかし、それは私の世界の一部分でしかない。私はよく散歩をするが、その間私はほとんど言葉による思考はしない。ただ、歩行とともに移り変わる景色をたのしんでいる。そんな私にとって、言語による思考が変わることは散歩の経路が変わることとほぼ同じ程度のものでしかない。

シナモン味の紅茶による接待を受けた時、「シナモン」という言葉を知らなくともその味の違いははっきり分かる。その言葉を知っていれば、「シナモンの香りが良いですね」と言うし、知らなければ「この紅茶の香りは素敵ですね」と言う。それだけのことである。

世界は言葉によって認識できるものではない。この美しさは言葉では決して表現できない。表現できるかのように錯覚するのは、言葉によって過去の記憶を再現しているからに他ならない。

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