前回記事「言葉によって世界を認識するのか?」に対して、ある人から次のような意見を頂いた。
【 問題は、「非言語的な世界の受容」という言葉が指示している事態を、言語なしでは、判断という形式に構成することができない、ということではないでしょうか? そして、認識するということが一つの判断だとすれば、「言語なしでは世界を認識できない」という言い方も決して言い過ぎではないと思います。もちろん、判断を伴わない認識があり得るとすれば話は別ですが。 】
何年か前に夜の京都の木屋町を散歩していた、その時どこからともなくホルモン焼の匂いが流れてきた。瞬間的に私は半世紀前の学生時代にタイムトリップしたような気分に陥った。私はそこで「懐かしさ」を感じたのだが、その時すぐに「懐かしい」と言語化したわけではない。しかし、何か(つまり「懐かしさ」)をそこで認識したに違いない。このように明瞭に意識化することはあまりないが、私達は日常的に言語化しないままいろんなことを認識していると私は考えている。懐かしさは「懐かしい」という言葉が無ければ表現できないが、言葉以前に懐かしさというものを認識していなければ「懐かしい」という言葉も生まれてこないではないのか。
「言語なしでは、判断という形式に構成することができない」というのは、私がその時感じた感覚を「懐かしさ」という言語によって懐かしさとして同定できて初めて、私がその時感じた感覚を「懐かしさ」として認識できたと言うべきだというのだが、どうだろうか。だとすると、ボクサーは試合中はほとんど何も「認識」していないことになる。それは奇妙なことではないか。相手の動きを認識するからこそ対応できるのである。その過程が非言語的だからと言って、そこに「認識」がないなどとは言えないのではなかろうか。
言語化は必然的に抽象化を伴う。私が木屋町で感じた感覚は決して「懐かしさ」という言葉では表現できないものだが、「懐かしさ」という一語によって、故郷の記憶や幼馴染との思い出などと同じ一つのカテゴリーに押し込められてしまう。言語は平板で粗いと言いたいのである。ボクサーが試合中に経験しているものはとても微妙で変化が激しいものだから、平板な言語に抽象化することはできない。言語による状況の再認識などしていたら、確実にそのボクサーは負けてしまうだろう。ボクサーは言語を介さなくとも状況を正確に認識し判断している、でなければ精密な反応などできるものではない。
龍樹が言語による世界解釈を拒否するのも当然だと思う。
八十八大師 ( 山梨県 三つ峠 )