何年か前から哲学界では新実在論というものが流行っているらしい。それで私も今、マルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」という奇妙なタイトルの本を読んでいる。
デカルトはすべてを疑うということを徹底した結果、とうとう「今自分は夢見ているのではないか」という疑いを払拭することはできないという結論に到達した。「考える私」以外は何一つ確実ではないということである。確実な基盤がない以上、実在を語るわけにはいかない。西洋哲学は、「考える私」を唯一の足場として観念論を展開するしかなかった。 「世界が存在しない」というのは、すべてのものが存在する絶対的な基盤というようなものは無い、ということをセンセーショナルな言葉で表現しただけに過ぎない。
しかし、いろんな事物を実在として語りたいというのは哲学者の本能である。ガブリエルは、「存在すること=なんらかの意味の場に現象すること」と定義し、事実の地盤を様々な存在領域に分割すれば、「事物たる対象はその意味の場に確実に存在する」と言えるのではないかと提言する。どのような視野も特定の視点からのパースペクティブを帯びていることを考えれば、彼の言っていることは理に適っているように思える。
ある対象は一つの意味の場だけでなくさまざまな意味の場に存在し、またそれらの意味の場もまた対象であるという。つまり、どの意味の場もまた別の意味の場の対象であるというのである。結局、意味の場のネットワークは無限の構造をもつことになる。意味の場はどこまで掘り下げて行っても限りなく続いている。即ち、最終的な基盤としての「意味の場」=「世界」は存在しないということになるというのである。
いちおう、シンプルな理論で理解しやすく説明されているが、ガブリエルの言っていることは、「夢なら夢でもいいではないか、それは夢の中に確実に『存在』する。」と言っているようにも聞こえる。私にはそれほど革命的な理論とは思えないのだが、それは私の理解が足りないせいでセあるかもしれない。
(登山中に霧が濃くなってくると世界のリアリティが疑わしくなってくることがある。)