クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

梅雨時の暇つぶし H-22-6-27

2010-06-27 20:07:59 | その他
先日、榛名山麓の「右京の無駄掘り」を久し振りに訪ねたので
右京殿の事を少し整理してみた。

むだ掘りの詳細は此方から

(1) 全ては源頼政から。

第五十六代・清和天皇の孫に当たる経基(917-961)は臣籍降下して
源氏姓を賜り後の世に「清和源氏」の祖と云われるが、その孫の時代に
源氏の系統は二分する。一つは頼信・頼義・義家・頼朝と繋がった源氏の
正統派と言われる系列と頼光から発して土岐氏も派生する一派である。
頼政(1105-1180)はこの頼光から見て四代目。
若き日の事と言われる鵺退治は伝説として知られ、武人にして卓越した文化人。
平清盛(1118-1181)、源為義(1096-1156)、源義朝(1123-1160)、
源頼朝(1147-1199)等と並べると大体の時代背景は想像できる。
さて、1180年になると以仁王の決起呼びかけに呼応した頼政は
清盛の逆襲によって宇治平等院で息子・兼綱共々自刃。
この頼政が右京殿の御先祖様。

(2)頼政子孫は大河内氏となつた

だが、兼綱妻と孫の顕綱は辛うじて逃れ、三河国大河内郡に移り
住んだ。現代で云えば愛知県岡崎市大平町大河内で東名・岡崎
インターの付近。ここに定着した顕綱が「大河内氏」を名乗った
ので初代大河内氏が誕生し、源頼政と大河内氏の繋がりが確定する。
鎌倉時代の大河内氏は余り大きくはなっていない。足利義利の家臣と
なつたり同じ足利系の吉良氏に臣従している。

(3)大河内氏が大河内松平氏になつた。

時代は下って第十二代・秀綱(1546-1618)の時、家康の指示でその
次男・正綱が長沢松平家に養子に入り相模・玉縄で大名に列せられ
松平を名乗ることを許された。ここに「大河内長沢松平家」が
誕生し頼政・大河内・大河内松平が一本の線に繋がった。
さて、この大河内長沢松平正綱家に長男・久綱家から信綱が養子と
して入ってくる。後に「知恵伊豆」と伝えられる傑物である。

(4)大河内松平輝貞(右京)が系譜に顔を出す。

そして信綱の長男が島原の乱に従軍し「島原天草日記」を残した
川越藩主の輝綱、そして五男が信興。
ここで漸く我が輝貞が出てくる。輝貞は川越藩主の六男に生まれ
1691年に信興家の養子となり家督を相続。1693年に綱吉の側用人、
そして1695年に高崎に転封となり、数々の善政の実績を残す。
榛名湖の水を榛名白川に落として輩下の11ヶ村を水不足から
救おうと日夜苦闘したのはこの時期。
結果として失敗し、その後に天神峠から榛名川に落とされている。

因みに江戸幕府の下での高崎藩主は井伊直政・酒井家次・
戸田松平康長・藤井松平信吉・安藤重信・安藤重長・安藤重博と
続いた後に輝貞が1695-1710年を担った。
だが、将軍が六代・家宣に変ると先代・綱吉の側近は徹底して
排除され輝貞も村上に追われ、高崎には間部詮房が入る。

八代・吉宗の時代になってからその手腕を再評価され1717年に
高崎に復帰、1730年には老中格にまでになり重用された。
以後、高崎は大河内長沢松平家が明治維新まで続き子爵と
なつている。輝貞の事を「右京」と言うのは官位が
「従五位下右京太夫」だったからである。

(5) 右京殿と高崎・頼政神社の関係

このように右京殿と頼政は一本の糸で繋がっているが、その縁で
輝貞は1698年に高崎・石上寺境内(現在の東京電力敷地)に
神社を勧請し先祖の頼政を祀った。村上左遷の時も村上に移設したが、
1717年に復帰したときに現在の高崎公園の位置に戻したとの事。
現代も色々なイベントで頼政太鼓の方々が活躍しているが、それらは
12世紀の頼政から18世紀の輝貞を引き継いでいることを
知っておいて貰いたいものである。

(6) 蛇足 だそく ダソク

蛇足して付け加えるとこの文中で屡「高崎藩」という言葉を使ったが
正確を期す人たちからはその言い方は間違いだと指摘されるだろう。
何故なら巷間使われる「藩」という言い方は完全に現代歴史用語であり、
江戸時代の正式な行政区分としは存在しないと言うことらしい。
だが、戦国時代のことで藩という人は居ないが私も含めて大方の人は
徳川幕府以降は藩制だったと思い込んでおり、ソレを使わないと全ての
話が進まなくなっている。
藩の領主の大名を藩主、その大名の家臣を藩士と呼ぶのは
現代歴史用語だと言われても、今年の幕末大河ドラマでも藩・藩士・
脱藩のオンパレードだがそれに違和感を感ずる人も居ないくらい
この表現の方が当たり前になっている。

だが、理屈の上からは次の事らしい。
そもそも「藩」の語は、古代中国・周の王の支配領域を指し、江戸時代の
儒学者がこれになぞらえて、大名を「諸侯」、その領国を「藩」と呼んだ
ことに由来する。江戸時代には「藩」の語は儒学文献上の別称であって、
公式の制度上は藩と称されたことは無く、「(何某)家中」のような
呼称が用いられていた。
今日の歴史用語では領主である大名のことを「藩主」、大名の家臣の
ことを「藩士」と言う。しかし、江戸時代には、たとえば「仙台藩士」
とはほとんど言わず、公的には松平陸奥守家来(伊達家は将軍家より
松平姓を賜っていた)と称された。また「藩主」より、封地名に「侯」を
つけて呼び現されることが多かった。例えば「仙台侯」、「尾張侯」、
「姫路侯」といった具合である。
1868年に明治新政府が府・県に編成した際に、大名領は天子の「藩」で
あると観念されたこともあり、「藩」は新たに大名領の公称として
採用され、藩主の居所(城持ち大名の場合は居城)の所在地の地名を
もって「何某藩」という名前が正式の行政区分名となった。1869年に
藩籍奉還が行われて藩主は「知藩事」に改められ、1871年の廃藩置県に
よりさらに藩が県に置き換えられた。つまり、江戸時代には一部の
学者などを除けば、「藩」「藩主」「藩士」などの
言葉は行政区分としては一般には使われていなく、正式の行政区分として
認知されたのは皮肉にも
廃藩置県の直前だったと言うことらしいが、ここまで厳密に追求することは
かえって不自然と感ずる昨今ではある。分かって使っているのですーーで
勘弁してもらいたいし、どこかできちんとした御高説を伺いたいものだ。

但し「正式の行政区分としては」がミソらしいとも感じており、江戸時代も
慣習的には「藩」と言っていたとのではないかな?

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