
正月の2-3日は恒例の箱根駅伝をテレビ観戦した。尤も三日のお昼には
近くの親戚を招いて昼食会をしていたので克明に見たわけではないが
母校も辛うじて七位に入ってシード権を獲得したのでほぼ満足。
今回の大会では気付いた事が幾つかあるのでそれらを爺イの
独り言として記録しておく。
(1)関東学生連合チームが居なかった。
毎年、予選会を突破できなかった大学から予選会上位に入った
選手で構成されるチームで順位には記録されないが健闘するので
人気がある。その理由は今年が100回記念大会と云う事で
従来の関東学生陸上競技連盟登録大学の枠を広げて
日本学生陸上競技連合男子登録大学を出場資格とし予選会から
の本選出場を従来の10校から13校に増やし計23校にしたから
席が無くなったのだ。
同様の特例は過去にもある。東京オリンピックが開催された
1964年の第40回では京都の立命館大学、福岡の福岡大学が
招待参加しているし2014年の第90 回では史上最多の23校が
出場している。
記念大会以外でも1928年-1930年には関西大学が特別招待出場。
今回の特例で予選会参加校は57校に達しその中には関西4校・
東海3校中国四国、北信越、九州、北海道から各1校が参加したが
京都産業大学の27位が最高で本選出場は叶わなかったが全国に
扉を開いた意味は将来の姿を暗示させる。
(2)初回が1920年で今年は2024年なのに何故今年が100回目?
スポーツ好きの人なら2019年のNHK大河ドラマの
「いだてん」で主人公のひとり金栗四三(1891~1983年)と
水泳指導者の田畑政治を記憶されていると思うが駅伝構想の
提唱者は金栗四三である。
経過を再現すれば1917年「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝
徒歩競走」が開催され東軍と西軍2チームで三条大橋~上野
不忍池約516k)を走ったが。金栗は東軍アンカーとして
勝利に貢献。そして武田千代三郎が初めて「駅伝」と
命名した。
1919年金栗がアメリカ大陸横断駅伝を考えたが資金面で
断念、改めて箱根駅伝構想をまとめていき報知新聞社が
後援となる。そして1920年に第1回 東京箱根間大学駅伝競走
(箱根駅伝)を開催したが早稲田、慶応義塾、明治、東京高等
師範の「四大学対抗駅伝」だった。
1922年には参加校が10校になり「十大校駅伝競走」と
称したが。次第に参加も増えていく。
1941年は第二次世界大戦勃発。戦争激化のため箱根駅伝は
初の中止に。
明治神宮―青梅熊野神社往復駅伝(8区間)が実施されるも、
回数には数えられなかった。戦時中は、1942、44、45年、
戦後も1946年は開催されなかったが1943年にはスタート・
ゴールは靖国神社、折り返し地点は箱根神社に設け
「靖国神社-箱根神社間往復関東学生鍛練継走大会」が
開催され第22回箱根駅伝
として数えられる。これは靖国神社を絡めて戦意高揚だった
のか? 因みに1946年は復活に備えて初の予選会開催。
つまり、104年間で4回欠落だから今年が100回目と云う次第。
一方で理念の違いからか? 夏季オリンピックの歴史を見ると
西暦の4で割り切れる年から四年間のオリンピアードの
最初の年に開催と規定されており1916年第六回ベルリンは
ドイツ帝国が起こした第一次世界大戦で中止、1940年の
第十二回東京大会は日中戦争激化、欧州での第二次世界大戦
勃発により中止、1944年第十三回ロンドンは第二次大戦中で
中止になっているが回数は飛ばされていない。
片や日本では誰でも知っている夏の甲子園高校野球は
1915年から全国中等学校野球大会として発足したが
1942-1945年が大戦のため中止、中止期間の回数は
飛ばされて1941年が第27回、1946年が第28回となった。
(3)留学生が参加の大学は本戦では振るわない?
かって世界水準の走力を持つ留学生の活躍で栄冠を勝ち取ってその
校名を全国に轟かした大学が何校もあるが昨今は日本人選手の
成長に依ってチーム内一人の留学生の活躍だけでは中々成績は
上がらない。良い例が現在絶頂期の青山学院も駒沢も留学生は
メンバーにはいない。因みに今年本選出場校の内、留学生を
擁する大学は8チームであるが来年度シード権を獲得した
のは3校、更に予選から上がって来た13校の内、
シード権獲得は2校でその他の11校の内、留学生は5校で
メンバー入りしている。
結論から言えば本選9-23位の15チームの内、予選上がり
13チームの内、留学生は6チームだから留学生起用は予選突破が
目的の苦肉の策?
(4)オマケ 高校駅伝の問題点
高校駅伝で初めて外国人留学生が起用されたのは1992年の仙台
育英高校。そして翌年の1993年に同じ仙台育英高校が男女
各2人のケニア人留学生を起用して男女ともに優勝して
波乱を起こす。
衝撃を受けた連盟は駅伝で外国人留学生選手の出場は一人
のみ、といった規制を設ける。
ところが、男子の部で最も長い10km区間の1区に外国人留学生
選手を起用するチームが出てきた。この長い区間で発生した
下位チームとのタイム差がレースに大きく影響し、2区以降で
下位チームが追い上げることができず、1区のタイム差で勝負が
決まってしまう場面も多くなった。
結果として1区の区間賞を獲得するのは留学生と決まった
ようになり連盟は2008年5月、外国人留学生選手の起用は
「1区を除く区間」ということにルール変更する。併し、
2020年に世羅高校が男女の留学生のぶっちぎりの快走でアベック
優勝したり岡山の倉敷の留学生が5km区間で日本人トップ
クラスの選手に4分の差をつけたことも有る。こうなると
大人と子供のレースみたいになり県内に留学生を擁するチームが
あれば未来永劫他のチームには県代表は望めない。現在それらの
留学生を擁するチームは男子が約8・1キロの3区に女子が
5kmの最終五区に起用されることが「必勝パターン」になっており
現実的に2023年大会では3区の倉敷の留学生が14人抜きをやったし
女子は上村学園の留学生が最終五区で1分20秒先行する
仙台育英を秒差でひっくり返して優勝している。尤も逆転され
た仙台育英も伝統的に留学生を使っているからどっちも
どっちだ。
こんな事に加え年齢詐称疑惑などがつきまとうケースもあって
来年度から
男女共に留学生起用は一人のみ最短の3k区間だけになるので
一歩公平に近づいたかな。
今年の箱根駅伝出場者の主な出身高校
13人…洛南
12人…仙台育英、埼玉栄
10人…学法石川、佐久長聖、世羅
6人…専大松戸、西脇工業
5人…東農大二、八千代松陰、國學院久我山、鎌倉学園、豊川、大牟田、
鳥栖工業、九州学院
4人…一関学院、中越、市立船橋、伊賀白鳳、四日市工業、倉敷、
自由ケ丘、宮崎日大、北山
3人…東海大山形、田村、敦賀気比、樹徳、水城、市立橘、浜松日体、
名経大高蔵、草津東、滋賀学園、須磨学園、米子松蔭、
西京、松山商業
近くの親戚を招いて昼食会をしていたので克明に見たわけではないが
母校も辛うじて七位に入ってシード権を獲得したのでほぼ満足。
今回の大会では気付いた事が幾つかあるのでそれらを爺イの
独り言として記録しておく。
(1)関東学生連合チームが居なかった。
毎年、予選会を突破できなかった大学から予選会上位に入った
選手で構成されるチームで順位には記録されないが健闘するので
人気がある。その理由は今年が100回記念大会と云う事で
従来の関東学生陸上競技連盟登録大学の枠を広げて
日本学生陸上競技連合男子登録大学を出場資格とし予選会から
の本選出場を従来の10校から13校に増やし計23校にしたから
席が無くなったのだ。
同様の特例は過去にもある。東京オリンピックが開催された
1964年の第40回では京都の立命館大学、福岡の福岡大学が
招待参加しているし2014年の第90 回では史上最多の23校が
出場している。
記念大会以外でも1928年-1930年には関西大学が特別招待出場。
今回の特例で予選会参加校は57校に達しその中には関西4校・
東海3校中国四国、北信越、九州、北海道から各1校が参加したが
京都産業大学の27位が最高で本選出場は叶わなかったが全国に
扉を開いた意味は将来の姿を暗示させる。
(2)初回が1920年で今年は2024年なのに何故今年が100回目?
スポーツ好きの人なら2019年のNHK大河ドラマの
「いだてん」で主人公のひとり金栗四三(1891~1983年)と
水泳指導者の田畑政治を記憶されていると思うが駅伝構想の
提唱者は金栗四三である。
経過を再現すれば1917年「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝
徒歩競走」が開催され東軍と西軍2チームで三条大橋~上野
不忍池約516k)を走ったが。金栗は東軍アンカーとして
勝利に貢献。そして武田千代三郎が初めて「駅伝」と
命名した。
1919年金栗がアメリカ大陸横断駅伝を考えたが資金面で
断念、改めて箱根駅伝構想をまとめていき報知新聞社が
後援となる。そして1920年に第1回 東京箱根間大学駅伝競走
(箱根駅伝)を開催したが早稲田、慶応義塾、明治、東京高等
師範の「四大学対抗駅伝」だった。
1922年には参加校が10校になり「十大校駅伝競走」と
称したが。次第に参加も増えていく。
1941年は第二次世界大戦勃発。戦争激化のため箱根駅伝は
初の中止に。
明治神宮―青梅熊野神社往復駅伝(8区間)が実施されるも、
回数には数えられなかった。戦時中は、1942、44、45年、
戦後も1946年は開催されなかったが1943年にはスタート・
ゴールは靖国神社、折り返し地点は箱根神社に設け
「靖国神社-箱根神社間往復関東学生鍛練継走大会」が
開催され第22回箱根駅伝
として数えられる。これは靖国神社を絡めて戦意高揚だった
のか? 因みに1946年は復活に備えて初の予選会開催。
つまり、104年間で4回欠落だから今年が100回目と云う次第。
一方で理念の違いからか? 夏季オリンピックの歴史を見ると
西暦の4で割り切れる年から四年間のオリンピアードの
最初の年に開催と規定されており1916年第六回ベルリンは
ドイツ帝国が起こした第一次世界大戦で中止、1940年の
第十二回東京大会は日中戦争激化、欧州での第二次世界大戦
勃発により中止、1944年第十三回ロンドンは第二次大戦中で
中止になっているが回数は飛ばされていない。
片や日本では誰でも知っている夏の甲子園高校野球は
1915年から全国中等学校野球大会として発足したが
1942-1945年が大戦のため中止、中止期間の回数は
飛ばされて1941年が第27回、1946年が第28回となった。
(3)留学生が参加の大学は本戦では振るわない?
かって世界水準の走力を持つ留学生の活躍で栄冠を勝ち取ってその
校名を全国に轟かした大学が何校もあるが昨今は日本人選手の
成長に依ってチーム内一人の留学生の活躍だけでは中々成績は
上がらない。良い例が現在絶頂期の青山学院も駒沢も留学生は
メンバーにはいない。因みに今年本選出場校の内、留学生を
擁する大学は8チームであるが来年度シード権を獲得した
のは3校、更に予選から上がって来た13校の内、
シード権獲得は2校でその他の11校の内、留学生は5校で
メンバー入りしている。
結論から言えば本選9-23位の15チームの内、予選上がり
13チームの内、留学生は6チームだから留学生起用は予選突破が
目的の苦肉の策?
(4)オマケ 高校駅伝の問題点
高校駅伝で初めて外国人留学生が起用されたのは1992年の仙台
育英高校。そして翌年の1993年に同じ仙台育英高校が男女
各2人のケニア人留学生を起用して男女ともに優勝して
波乱を起こす。
衝撃を受けた連盟は駅伝で外国人留学生選手の出場は一人
のみ、といった規制を設ける。
ところが、男子の部で最も長い10km区間の1区に外国人留学生
選手を起用するチームが出てきた。この長い区間で発生した
下位チームとのタイム差がレースに大きく影響し、2区以降で
下位チームが追い上げることができず、1区のタイム差で勝負が
決まってしまう場面も多くなった。
結果として1区の区間賞を獲得するのは留学生と決まった
ようになり連盟は2008年5月、外国人留学生選手の起用は
「1区を除く区間」ということにルール変更する。併し、
2020年に世羅高校が男女の留学生のぶっちぎりの快走でアベック
優勝したり岡山の倉敷の留学生が5km区間で日本人トップ
クラスの選手に4分の差をつけたことも有る。こうなると
大人と子供のレースみたいになり県内に留学生を擁するチームが
あれば未来永劫他のチームには県代表は望めない。現在それらの
留学生を擁するチームは男子が約8・1キロの3区に女子が
5kmの最終五区に起用されることが「必勝パターン」になっており
現実的に2023年大会では3区の倉敷の留学生が14人抜きをやったし
女子は上村学園の留学生が最終五区で1分20秒先行する
仙台育英を秒差でひっくり返して優勝している。尤も逆転され
た仙台育英も伝統的に留学生を使っているからどっちも
どっちだ。
こんな事に加え年齢詐称疑惑などがつきまとうケースもあって
来年度から
男女共に留学生起用は一人のみ最短の3k区間だけになるので
一歩公平に近づいたかな。
今年の箱根駅伝出場者の主な出身高校
13人…洛南
12人…仙台育英、埼玉栄
10人…学法石川、佐久長聖、世羅
6人…専大松戸、西脇工業
5人…東農大二、八千代松陰、國學院久我山、鎌倉学園、豊川、大牟田、
鳥栖工業、九州学院
4人…一関学院、中越、市立船橋、伊賀白鳳、四日市工業、倉敷、
自由ケ丘、宮崎日大、北山
3人…東海大山形、田村、敦賀気比、樹徳、水城、市立橘、浜松日体、
名経大高蔵、草津東、滋賀学園、須磨学園、米子松蔭、
西京、松山商業
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