クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

最後の御巣鷹の尾根慰霊登山(2) R-5-11- 1

2023-11-01 12:02:52 | 神流・上野村
御巣鷹の尾根への思いを色褪せさせないようにメモを
書き残しておく。

(御巣鷹の尾根全域略図)



(悲劇の123便の軌跡)
当日、この日航機は全国を飛んでいた。朝から羽田ー千歳(503便)、
千歳ー羽田(504便)、羽田ー福岡(363便)、福岡ー羽田(366便)。
この366便には平和台の中日戦を終わった阪神タイガースの選手
集団が後楽園(未だ東京ドームは存在していない)の巨人戦の為に
乗っており、事故後、プロ野球選手の移動は新幹線と飛行機に
分乗する様になった。そしてこの後が運命の123便となって羽田
から伊丹に向かったのである。
記録に拠ると123便は羽田を発って房総西岸を南下、大島北方で
西に進路を変えた所で機体の損傷発生、操縦不能の状態で下田から
駿河湾を横断して焼津、北上して富士山西側から大月、大きく
機体を右に傾けて急降下しながら上野村に向かう。丁度、「U字溝」
に来た時は既に水平飛行ではなく「垂直」。
つまり右翼を下に左翼を上にして右翼が「U字溝」の山肌を擦って
水きり石の様に大きくバウンド、完全に裏返し状態になって御巣鷹の
尾根に激突。
其の前にバウンドのショックで中央部からやや下部で機体は
二つに折れていた。前部は前のめりに山に激突して木っ端微塵、
中央下部の燃料が爆発。裏返し状態のままに後部は斜面を滑走
してスゲの沢に落ち込んだとのこと。この狭いスゲの沢からは
150名ほどのご遺体が見つかっているが生存の四名も又この地域
から見つかった。
かって墓標が林立していた沢筋は20019年台風被害で流失し未だ
殆ど復旧はしていない。
全犠牲者520(乗客505名乗員15名)名の内、外国籍の方々は名簿から
推定すると多分22名、従って日本人の方々は恐らく498名。
但しご遺族の意思で墓標の建立をしない方も居られるとも聞いている。
爺イの墓標撮影は2014年270名、2015年130名、2016年8月34名,
2016年10月5日13名、2016年10月16日2名、2017年全体動画撮影。
個別墓標449名分で終了。(今まで454名としていたが重複などもあり
449名で打ち切り)。



(残された遺書)
この事故の中で爺イのような凡人には想像を絶するようなーーと
云うより壮絶な出来事があったことを知った。それは後日発表された
遭難者が書き残した遺書が数点回収されたことだ。先ずあの地獄の
30数分間に大揺れの中で遺書を書いたことに驚愕したし激突・火災の中で
それが焼けずに回収された奇跡に驚いた。だとすると回収されなかった
メモは沢山あったのだろう。多くの人が絶望と恐怖の中で家族を
思いやった心根を忘れたくない。その一語一語が心に染みて老いの目から
涙が止まらない。

(サムネイル画像は左クリックで拡大、左上左向き矢印クリックで
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そのほかにも乗客を誘導する際のアナウンスの文言を必死にメモし
続けたアシスタントパーサーの対馬祐三子さんもいると聞く。
英文でも幾つか書かれているから外国人の乗客が何組もおり、
彼らに向けての文言だったのだろう。その中に自分の家族に宛てた
文面は無く多分確実に帰還できるものと信じ予定外の空港に緊急
着陸する時の様な文面であるが残念ながらそれをアナウンスする
機会はやってこなかった。このプロフェッショナルな彼女は
機内最後方・L(左)5ドア担当だったアシスタントパーサーだった。
その概略の内容はーー。


(犠牲になった日航搭乗員の方々)
墓銘碑群の最上部に三つ並んだ立派な碑がある。
右から航空機関士・福田博さん、真ん中が機長・高浜雅巳さん、
左が副操縦士・佐々木裕さん。
彼らも被害者なのに、それも必死に頑張った被害者なのに一時期は
加害者のように扱う風潮もあり誠にお気の毒。一般の碑と違って俗名を
側面に彫ったのもその辺の配慮か?


他に同乗していた乗務員の方々の墓標はご遺体発見場所にある。
チーフパーサー 波多野純
アシスタントパーサー 木原幸代 対馬優美子 海老名光代 吉田雅代
赤田真理子 藤田香 宮道令子
乗務スチュワーデス  大野美紀子 大野聖子 波多野京子 白拍子由美子

(サムネイル画像は左クリックで拡大、左上左向き矢印クリックで
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乗客として乗っていたアシスタントパーサーの落合由美さんは四人の
生還者の一人りで事故後に重要な証言者になっている。

(下の広場にある広場にある登山道の碑)
今では下の広場で車を降りて観音像や閉鎖されている旧登山道を
見る方々は少なくなっているかも知れないが、この広場の右側に
大きな碑文がある。長文で文字が小さくて読み難いから見過ごされる
ことも多いと思うが故黒沢村長の願いが込められている。
碑文
「この地は 上野村大字楢原字本谷と呼ばれ 険阻な山に囲まれた
交通不便の別天地なるも 四季の移ろい美しい山紫水明の秘境なり 
しかるに 昭和六十年八月十二日午後六時五十七分突如として至近の
御巣鷹之尾根標高一千五百五十米の地に日航ジャンボ機の墜落事故が
発生し五百二十四名が遭難せられ救出収容に次いで参拝に人々の往来
誠に盛んとなれり 
救出収容に際しては道無く関係者の労苦一方ならず昇天された五百二十名の
御霊を慰めんとして登山される御遺族等の難渋また著しくよって上野村は 
日本航空群馬県等多くの方々の援助を得て参拝道をしてこの道を開設する
こととし 地勢を克服難工事を続け一年を経て竣工す 
願わくば安全に往来されて霊を慰められると共にこの事故の戒めを
末代に伝えられる人の多からんことを祈る
       昭和六十二年(1987)三月吉日  願主 上野村村長黒澤丈夫」

下の駐車場のある広場は1987年3月から2006年6月まで車はここまで
しか入れず、ここから沢沿いを延々と歩いて参拝するしかなかった。
しかし、遺族の高齢化が進んでいることから、事故から21年後の
2006年7月より、墜落現場付近を通る国土交通省の砂防ダム工事用道路が、
上野村の村道兼林道として一般開放され、墜落現場まで歩く距離が
約2.2kmから約800mに短縮された。

(御巣鷹の尾根命名の経緯)
御巣鷹の尾根は群馬県多野郡上野村に所在する、高天原山の尾根に
ある日本航空123便墜落事故の現場一帯を指す通称である。

「御巣鷹の尾根」は、事故発生時の上野村村長・黒沢丈夫により
名付けられた。
事故後に群馬県警察本部長の河村一男から「公文書に必要なので現場に
名前を付けてくれ」と依頼されたことによると云う。
「御巣鷹」と付いているが、御巣鷹山の尾根ではない。

高天ヶ原山はここから南へ直線距離1.1kの県境先にある1978.57mの山で
二等三角点「蟻ヶ峠」のある山。御巣鷹山はここから直線で北北西1.8k
にある1639.38mの山で三等三角点「帝釈山」のある山。
この通称は墜落現場の詳細特定および陸路に依る到達経路設定
が難航する中、上空からの報道映像を見た黒沢村長さんが記憶に残る
尾根形状から呼称を始めたものであるとのこと。但し、現実は
事故現場の尾根は、黒沢村長のみならず村民にも御巣鷹山であると
認知されていたらしい。何しろ昔から一般立ち入り禁止の御狩場
だったのだ。
事故現場の位置が人々に正しく伝わらなかったことは、世界最大の
航空惨事のもう一つの不幸であろう。現場入りした報道関係者は1カ月間で
約300人に上ったが、虚構の「御巣鷹山」を正すことができなかった。
定着した誤報は修正し難いものらしい。

(名物の様なダム用道路の八つのトンネル)
短い直線の「三岐」、短い左カーブの「浜平」、左カーブが続く
「太神楽一号」、直線・右カーブ・左カーブでスネーク状の
「太神楽二号」、長い「虎王」、右・左・直の「長音」
軽い右左の「手水」最後は短い直の「琴音」。

(サムネイル画像は左クリックで拡大、左上左向き矢印クリックで
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(黒沢村長の事)
黒澤 丈夫(くろさわ たけお、1913年(大正2年)12月23日 - 2011年
(平成23年)12月22日)は、大日本帝国海軍士官・操縦士。政治家。
戦後群馬県多野郡上野村村長を10期連続で務めた。日本航空123便
墜落事故の際に事故処理に尽力したことで知られる。
称号は上野村名誉村民。正五位、旭日重光章
「昭和のジャンバルジャン」と云われるほど数奇な経歴のあった
「ナラカツ」こと故・仲沢勝美さんを初代の管理者に選任しているが
現在は二代目で「山守」自称する「黒沢完一」さん。
黒沢村長の詳しい略歴はこちらをご参照。

(上野村とは2016年頃の指標)
面積が広いなとの印象だか182㎢は県内14位で水上町の1/4に
過ぎない。問題は人口が1220名程度で県下自治体で最小、
人口密度 6.75人/㎢も最低、可住地面積割合の7.0%も、群馬県内で
最も低い。
こんな山間にある過疎地域であるが、2005年に上野ダム・東京電力
神流川発電所が完成し、固定資産税の税収が増加したのに伴い、
2006年度以降地方交付税の不交付自治体となっている。財政力
指数は2008年には県下一となり現在は1.2くらいで二位の大泉町
1.0を離して一位は変わらない。この指数は自治体の
財政力を示す指標であり、基準となる収入額を支出額で割り
算した数値。1.0であれば収支バランスがとれていることを
示しており、1.0を上回れば基本的に地方交付税交付金が支給され
ないのだ。周辺の下仁田31位、南牧34位、神流35位を見ると複雑な
立ち位置か? 但しこれは率の話であり絶対額は歳入が44億円程度だから

(クタビレ爺イの御巣鷹慰霊登山の経過)

2003-1 別冊文芸春秋に載ったクライマーズ・ハイを読む。
2003-8-20 第一回慰霊登山 藤岡・神流から慰霊の園経由。
2003-8-25 クライマーズ・ハイ単行本購読
2004-8-22 第二回慰霊登山 藤岡・神流から慰霊の園経由90km。
2005-9-10 第三回慰霊登山 帰路のみ湯ノ沢トンネル利用南牧経由。
2006-8-25 第四回慰霊登山 上の駐車場開設、工事車と交互通行。
2007-8-20 嬬恋夏山登山後、原因不明のウィルス症候群発症で慰霊不能。
2008-4 豪雨で中止の滝付近の村道崩落で通行止め
2009-7-26 通行止め解除
2009-8-15 第五回慰霊登山 往路藤岡経由帰路南牧経由(70km)
2010-9-10 第六回慰霊登山 往復とも南牧経由、大蛇倉山登山
2011-9-28 第七回慰霊登山 往復とも南牧経由、高天ヶ原山登山
2012-8-22 第八回慰霊登山 往復とも南牧経由、黒沢さんと初交流
2013-9-30 第九回慰霊登山 遺書を残した方々の墓標に手を合わせる
2014-8-19 第十回慰霊登山 全墓標の記録を作る決意 270名分撮影  
2015-9-16 第十一回慰霊登山 撮影続行 130名分撮影
              記録公開を8,12連絡会に提案するも
              個人情報の公開になるとして不許可。
2016-8-7 第十二回慰霊登山 撮影続行 34名分撮影
2016-10-5 第十三回慰霊登山 撮影続行 戒名だけの墓標から俗名
              割り出しで13名分撮影
2016-10-16 第十四回慰霊登山 遭難パーサー同期生たちを現地案内
              撮影続行 2名分撮影 後の手掛かりなし
              449名分で打ち止め 
              非公開を条件にDVD無料配布をブログ内で公表 
2017-10-27 第十五回慰霊登山 全体の動画撮影 条件は画像と同じ扱い
2023-10-19 第十六回慰霊登山 コロナ禍以来の登山 最後の慰霊として祈念        



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