日曜日の午後、甘楽町の磨崖仏見物に出かけた。有名所は長厳寺・連石山の
半磨崖と大磨崖仏だがそれらは既に見学してブログの記事にしているので
今日は残りの4箇所の予定。
(1)熊ノ堂の磨崖仏
71号線で吉井、254号線を西進して上州新屋で左折して204号線、高速道を
潜った先で驚いた事に県道が崩落で通行止め。山手をぐるぐる迂回させられて
漸く左手に向陽寺が見えると鳥屋林道の入り口。行き止まりは天引森林公園の
園地で亀穴峠への起点。この向陽寺、16世紀半ばの創建と伝わるが開基が
武田信玄の叔父と云うのは本当?
林道を僅かで右への舗装小道、「堂の入林道」の道標。
集落の中の細道を登って約0.8k、右手に教育委員会の白柱を発見。
先ず、目に付くのは右手前にある双神道祖神、銘年は見えないし傷んではいるが
「肩組み手にぎり型」。
左には二つの庚申搭が出迎えるが一つは延享2年(1745)だから吉宗引退の年。
もう一つは寛政10年(1798)で近藤重蔵がエトロフ島に達した時。
周辺には石像物が数体。
これが目的の薬師磨崖仏、約60㌢で姿形は崩れていない。
当然な事に庚申搭より以前からあったとすれば1700年代の始めの物か?
甘楽に磨崖仏が多いのは逆に考えれば丸彫りに適した石に恵まれなかった
からとも云える。牛伏山から甘楽・富岡にかけては天引石がベルト状に
分布しているというのがこの事か?
岸壁の上部に三角形の切りこみ、ここにあったという堂宇の接していた跡。
(2)黒渕古墳群
帰路について鳥屋林道に出る手前に「天引黒渕古墳群」の道標を見て寄り道。
其の名の通り古墳群だったが今見られるのはk氏宅の敷地にある一つだけ。
南に向いて石室が開口していて入り口は高さ1mだが、中に入ると1.8mとなつて
普通に立っていられる。四・五世紀頃の此の辺の小豪族の棺を納めてあったと
推定されるが、群を成していた事からすると中央集権成立初期の官人の墓場
という説もある。
古墳の上に猿田彦の石碑があるがこれは古墳に関係がなくk氏宅のもの。
(3)引田の地蔵菩薩の磨崖仏
204号線に戻って甘楽カントリーを左右に見て西進、坂を下って白倉川との
交点が変則四つ角。川の手前を小幡方面に右折。目標はゴルフ場の土手に
あるので数百㍍で路傍駐車。田圃の畦道から土手周辺を探ると墓地の
反対側に白杭発見。
左手前の板碑状の庚申搭が二つあるが全く読めない。
奥に地蔵菩薩の磨崖仏があるがいかにも小さい。
この作業道風の草生した道は昔は新屋天引と白倉の上引田・平石を結ぶ
重要な役割を持っていたらしい。
(4)平石の阿弥陀磨崖仏
再び204号線に戻って今度は変則的に横断して直進する。この道は「白倉林道」で
旧白倉神社の参道である。
約1㌔でこんな道標、路傍駐車して脇道に入る。竹薮の薄暗い急登を登るが
何もない。何の事はない、0.5k位でゴルフ場に出てしまった。周辺を見直すが
磨崖仏のありそうな露出岩なと全く見当らない。
入り口に戻って丁度来合わせた地元の人に聞いたら道標をみて大笑い。
何と立て掛けだけの道標は逆向きだと正しい向きに置き直してくれた。
未だ、ずっと先に行って舗装の終るところと教えられ0.5k程移動。
薄暗い樹間に看板発見。
そこから0.4kほど山に入るが幸いにも平坦道、場違いな屋根が見えて到着。
巨岩に阿弥陀磨崖が離れてニ体彫り込まれているが傷みも酷い。
この巨岩は地元の通称は「屏風岩」とか。
向かって左側のものが傷みが激しいが享保九年(1724)の銘。
右の磨崖は宝永2年(1705)だが位置の関係なのか、こっちの方が傷みは
少ない。造立者はこの地の郷士と言う以外には不明らしい。
ノロノロ運転で細道を県道に戻り最後の目的・秋畑の内久保に向かおうと
したら急に黒雲が覆ってきて不穏な天候。夕立の来ないうちに退散。
感は当って自宅到着と同じに激しい夕立。
その代りに前回訪問した長厳寺の磨崖写真を再録。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
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半磨崖と大磨崖仏だがそれらは既に見学してブログの記事にしているので
今日は残りの4箇所の予定。
(1)熊ノ堂の磨崖仏
71号線で吉井、254号線を西進して上州新屋で左折して204号線、高速道を
潜った先で驚いた事に県道が崩落で通行止め。山手をぐるぐる迂回させられて
漸く左手に向陽寺が見えると鳥屋林道の入り口。行き止まりは天引森林公園の
園地で亀穴峠への起点。この向陽寺、16世紀半ばの創建と伝わるが開基が
武田信玄の叔父と云うのは本当?
林道を僅かで右への舗装小道、「堂の入林道」の道標。
集落の中の細道を登って約0.8k、右手に教育委員会の白柱を発見。
先ず、目に付くのは右手前にある双神道祖神、銘年は見えないし傷んではいるが
「肩組み手にぎり型」。
左には二つの庚申搭が出迎えるが一つは延享2年(1745)だから吉宗引退の年。
もう一つは寛政10年(1798)で近藤重蔵がエトロフ島に達した時。
周辺には石像物が数体。
これが目的の薬師磨崖仏、約60㌢で姿形は崩れていない。
当然な事に庚申搭より以前からあったとすれば1700年代の始めの物か?
甘楽に磨崖仏が多いのは逆に考えれば丸彫りに適した石に恵まれなかった
からとも云える。牛伏山から甘楽・富岡にかけては天引石がベルト状に
分布しているというのがこの事か?
岸壁の上部に三角形の切りこみ、ここにあったという堂宇の接していた跡。
(2)黒渕古墳群
帰路について鳥屋林道に出る手前に「天引黒渕古墳群」の道標を見て寄り道。
其の名の通り古墳群だったが今見られるのはk氏宅の敷地にある一つだけ。
南に向いて石室が開口していて入り口は高さ1mだが、中に入ると1.8mとなつて
普通に立っていられる。四・五世紀頃の此の辺の小豪族の棺を納めてあったと
推定されるが、群を成していた事からすると中央集権成立初期の官人の墓場
という説もある。
古墳の上に猿田彦の石碑があるがこれは古墳に関係がなくk氏宅のもの。
(3)引田の地蔵菩薩の磨崖仏
204号線に戻って甘楽カントリーを左右に見て西進、坂を下って白倉川との
交点が変則四つ角。川の手前を小幡方面に右折。目標はゴルフ場の土手に
あるので数百㍍で路傍駐車。田圃の畦道から土手周辺を探ると墓地の
反対側に白杭発見。
左手前の板碑状の庚申搭が二つあるが全く読めない。
奥に地蔵菩薩の磨崖仏があるがいかにも小さい。
この作業道風の草生した道は昔は新屋天引と白倉の上引田・平石を結ぶ
重要な役割を持っていたらしい。
(4)平石の阿弥陀磨崖仏
再び204号線に戻って今度は変則的に横断して直進する。この道は「白倉林道」で
旧白倉神社の参道である。
約1㌔でこんな道標、路傍駐車して脇道に入る。竹薮の薄暗い急登を登るが
何もない。何の事はない、0.5k位でゴルフ場に出てしまった。周辺を見直すが
磨崖仏のありそうな露出岩なと全く見当らない。
入り口に戻って丁度来合わせた地元の人に聞いたら道標をみて大笑い。
何と立て掛けだけの道標は逆向きだと正しい向きに置き直してくれた。
未だ、ずっと先に行って舗装の終るところと教えられ0.5k程移動。
薄暗い樹間に看板発見。
そこから0.4kほど山に入るが幸いにも平坦道、場違いな屋根が見えて到着。
巨岩に阿弥陀磨崖が離れてニ体彫り込まれているが傷みも酷い。
この巨岩は地元の通称は「屏風岩」とか。
向かって左側のものが傷みが激しいが享保九年(1724)の銘。
右の磨崖は宝永2年(1705)だが位置の関係なのか、こっちの方が傷みは
少ない。造立者はこの地の郷士と言う以外には不明らしい。
ノロノロ運転で細道を県道に戻り最後の目的・秋畑の内久保に向かおうと
したら急に黒雲が覆ってきて不穏な天候。夕立の来ないうちに退散。
感は当って自宅到着と同じに激しい夕立。
その代りに前回訪問した長厳寺の磨崖写真を再録。
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