クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

高遠石工の足跡を尋ねて(3) H-23-12-22

2011-12-23 15:03:06 | 双神道祖神・磨崖仏・道しるべ
年末の雑事の合間に小八木町の妙典寺に向かう。ここに高遠石工の作品が
三基あるから。
R-17で前橋方面に向かい、「小八木町北」信号を左折し「鏡宮神社」前を
通過して中川小学校の斜向かいの妙典寺。



(1) 円板光如意輪観音 二十二夜月待塔



参道左手に大きく立っている。石工は「信州石工 藤沢直義」、この石工は同じ
小八木の諏訪神社の常夜燈にもその名が見られる。文政四年(1821)のものだから
伊能忠敬が「大日本沿海興地全図」を完成させた年。
普通の人の身長ぐらいの自然石を竿石の替わりにしてその上に台石と蓮華座を
置いて主尊があるので脚立でも無ければ到底接近しての写真は無理。
台石の向かって左には「女人中」の文字が彫られている。

(2) 融通大念仏塔



如意輪観音と向かい合って立つ。石工は保科徳次郎由清。
文化元年(1804)の作、ロシア使節レザノフが通商要求を持って第一回目の来日の年。

(3) 青面金剛立像



墓地入り口の石碑類が集結されているスペースの中央。石工は同じく保科徳次郎由清。
文化12年(1815)の作、杉田玄白が「蘭学事始(ことはじめ)」が完成した年。
写真では判然としないが、足下には「邪鬼」が左を頭にして踏みつけられて横たわり
その下に「三猿」が居る。
上部の二つの丸いものは「月・日」と瑞雲。
左手の上は「宝輪」、中は「弓」、下は「ショケラ」
右手の上は「鉾」、中は「矢」、下は「剣」。
「ショケラ」とは庚申の夜にタブーを破った女性が「青面金剛」に髪の毛を
鷲掴みにされ、「懲らしめるぞ!」と脅されている姿なんだそうだ。
この写真ならはっきりわかるだろう。



以上でこの寺の高遠石工作品は終わりだが他にも石造物多数。

(4) 六臂青面金剛



享保10年(1725)の銘、吉宗の時代、前年に近松門左衛門が死去している。
上部は宝輪、月・日と瑞雲。
左手上は「十字鉾」、下は「弓」。右手上は「剣」、下は「矢」、そして合掌。
足の下には邪鬼があるような気がする。

(5) 三面六臂馬頭観音



一見すると 三面六臂青面金剛と間違え易いがこれは馬頭観音。
天明2年(1782)の作だが天明の大飢饉が始まろうとしていたし、大黒屋幸太夫が
漂流中で翌年にアリューシャンに漂着する。
左手上に宝輪、下は数珠のようなもの。右手上は剣ではなく「宝棒」、
手のひらが開かれている。そして合掌。

(6) 馬頭観音群



その後ろに馬頭尊の石碑がずらっと並んでいる。

(7) 大型庚申石宮



石宮は固まって大小合わせて11基。扉口の上部と左右に「三猿」。
前柱の間にある丸彫りの庚申猿。



笠の棟の両側には鬼面が彫られている。



(8) 大型庚申石宮ソノ(ニ)



(7)と大きさはほぼ同じくらいだが石宮部分は相当に破損していて修復の跡が多い。
棟の両側の鬼面は此方のほうがはっきりと残っている。



(9)小型石宮群



周辺には小型石宮がずらりと並ぶ。殆どが慶安3年(1650)、由井正雪の
慶安の変が間近。
扉口上部分の彫りは微妙に違うように見える。







(10) 庚申塔



正徳元年(1711)の銘だから世の中は「正徳の治」の真っ最中、庶民を苦しめた
悪評の「生類憐れみの令」が廃止され、柳沢吉保が引退、新井白石が伸し上る。
下部に「三猿」。



(11)奪衣婆



大分、傷みが激しいが胸のはだけ具合から奪衣婆と決め込む。

(12)閻魔



奪衣婆が居るなら相棒の閻魔も居るはずと探すも見当たらず。
唯一、半ば崩壊したようなこの像の右手に剣の様なものが見えるので
強引ながらこれが閻魔と認定。

(13) 庚申供養塔



宝暦2年(1752)の銘、前年に徳川吉宗・大岡忠相が死去している。

(14)地蔵立像二体



情けない事に詳細不明。若しかすると右側のは聖観音?

(15) 遥拝塔。西国・秩父・坂東と彫られている。享保元年(1716)。



これで入り口の石造物は終了。この寺院の売りは参道にあるこの看板。



ここには「康元の板碑」が同時代のものと思われる五輪の搭とともにある。
市指定史跡。板碑とは追善供養の為の石製卒塔婆。
康元とは地名・人名ではなく年号。康元2年(正嘉元年)というから
1257年のもの。丁度北条時頼が最明寺に出家し長時が執権に就任二年目。
この板碑は高崎地区では最大・最古との事。日本最古のものは埼玉で発見
された1227年のもの。古いにも拘わらず彫りは鮮明で阿弥陀三尊を表す
三個の梵字が見える。



丁度、外出のために出てきた住職に挨拶して寺を辞し、少し東の「鏡宮神社」へ。
この神社、神亀2年の創建と言い伝えられているが、西暦725年、
聖武天皇の時代、藤原宇合や長屋王が生きていた遠い昔の事。言い伝えは
金星が昼間輝きその光の指す所を掘ったら古鏡が出てきたので社殿を建てて
祭ったと言うもの。祭神が凄い。
神話の中で「鏡作部カガミツクリべ」の遠祖、ヤタノカガミを作った女神で
天孫降臨の時に随行した五部神の一人「石凝姥命イシコメドリノミコト」。



祭祀巨石
正観寺遺跡群から出てきたという祭祀巨石の説明看板。



そしてその巨石、見たところは山の中では何処にもありそうな石。



西から神社に向かうと「御嶽山大神」。明治19年(1886)、学校令が発布され
義務教育は4年に設定され、帝国大学が設置された年。



「秋葉大権現」、文化12年(1815)。



その反対側に「黒髪大神」。明治16年(1883)、鹿鳴館が落成して文明開化の兆し。



社殿の正面に灯篭が二基、元禄8年(1695)だから前年に芭蕉が死去。



神社の沿革説明板。



その脇に鏡明碑。明治28年(1845)だから日清戦争が集結し下関条約が調印される時。
この時から三国干渉が始まり、世界列強の帝国主義に揉まれる事になる。



この碑文が難解で読み取れなかったが漸く田島武夫氏の著書で解説を見つけた。

南 西 東 北 中 行 風 乗 雨 照 生 人 三 九 通 八 卦
な が き よ や ゆ め の う て な に さ く つ ば き             

実 於 葉 能 孝 子 伝 慕 名 廼 千 里 顕 流
み お ば の こ し て は な の ち り け る 

中盤以降は何とか理解できるが前半はどうも良く分からない。
末尾に「小園江田宮書」とあり、この御仁、五万石事件の指導者の一人という。

入り口左手に「手洗い石」。明治32年(1899)、20世紀前夜で普通選挙運動開始、
間もなく爺イの父親が生まれる。



社殿裏手に廻ると石宮。文化15年(文政元年1818)、伊能忠敬死去。



その左に天神様。



帰り際に四つ角に道祖神。「酒器持ち系」のもので右の男神は杯を持ち、左の
女神は垂髪を大きく左に流しながら徳利を持っている。安永9年(1780)。



隣に小さい馬頭観音。寛政12年(1800)。ドラマで御馴染み昌平坂学問所落成。



R-17に出て小八木信号を左折して井野駅方面に寄り道。途中にある大きなY 家墓地に
一基あるから。

墓地入り口に道祖神。小八木村と刻まれている天明4年(1784)のもの。東北地方大飢饉。



区劃されて目立つところに如意輪観音塔。寛政6年(1794)松平定信が老中を辞し寛政の
改革が終焉する。石工は高遠・保科徳次郎由清と同要助。



蓮華座の上に如意輪観音像。



竿石の右側、寛政6年。(竿石は最近の作り直し)



竿石の正面「百番供養」
百番供養とは西国33ヶ所、坂東33ヶ所、秩父34ヶ所の事。



竿石の左側は「心願成就歌」



読みは「花もちり みもくちはつる 世のならい
         くわん成就して 名のみ残しぬ」

「くわん」とは多分旧仮名遣いの「観」で「くわん成就」は100観音廻りが
成就した事。そしてその事を記念して塔を建て名を残す事が出来たとの意味。

竿石の下の台石の正面。「惣譽安心法印」



台石の背面 写真ではハッキリしないが刻字は
「信州高遠御堂垣外 保科徳次郎由清 同要助



少し墓地の左側に廻ると狭い道路沿いに青面金剛。但し、傷みが激しく
修復されたらしく良く気をつけていないと見逃す。弓矢・剣・ショケラなどが
あるはずだが全く判別不能。角柱、塔身70cm。



唯一の証拠はこの下部に微かに残る三猿らしきもの。



墓地の中に如意輪観音らしきものがあるが、これも修復の跡のみで詳細不明。



以上で本日の高遠石工の足跡を終了。次回は菊池方面の予定。

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