クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

高遠石工の足跡を尋ねて(4) H-23-12-23

2011-12-25 20:30:26 | 双神道祖神・磨崖仏・道しるべ
そろそろ、高遠石工も終わりにしようと思ったが、近所で未だ数件が
あると判っているので大急ぎで一回り。

同じ町内にある「飯玉神社」に駐車して北側の「常福寺」へ。



山門前で何とも優しそうな顔をした奪衣婆を始め十王様の石像群が出迎える。



その中に一寸珍しいもの。ギョッとする様な台の上の首二つだ。



これは「人頭幢(ドウ)」という閻魔様の備品の一つで又の名を
視目嗅鼻と言うそうである。右の幢は「黒闇天女」といって閻魔の后で禍を撒き
散らす厄介な御仁、左の幢は「太山夫君」で閻魔の太子、厳正の神。
閻魔は、元を正せばインドの福徳の「焔摩天」、「魔」ではなく「摩」が本来だった。
中国に伝わってから何故か地獄の番卒に変貌し、そのまま日本に持ち込まれ
亡者には都合の悪い存在になってしまった。多くの地獄絵の中で視目嗅鼻は
浄玻璃の鏡や罪状を測る天秤と共に閻魔の備品とされてしまったのだ。

山門を潜ると境内の左手に目標の巨大な宝筐印塔。元文3年(1738)だから享保の
大飢饉が収まった頃。



石工「信州御堂谷戸村 清水彦之丞」の名は台石に刻まれている。



今度は飯玉神社の東にある通称「飯塚西の薬師」へ。ここで「二夜様」と
いわれているのは「月待二十二夜丸彫如意輪観音」。文化14年(1817)の作、
この年は第120代「仁孝天皇」が即位した年。幕末大河ドラマでよく出てくる
孝明天皇はこの次だ。
因みに現天皇は第125代である。
石工は「信州中伊那郡野笠村 保科儀八」。



菊地方面に行こうとしたが、先日廻った小八木地区に風変わりな奪衣婆・閻魔像が
あると聞いたので一寸見に行った。勿論、高遠石工は関係ないが。
小八木北信号を左折して橋を渡って直ぐの四つ角を左折。場所はT氏宅の敷地の
中なのでT氏宅を訪問して敷地内墓地に案内してもらった。
それは墓地を囲むブロック塀際にある。
先ず、奪衣婆さん。何とも顔が若々しすぎるし石も年代が新しい感じ。
若しかすると、顔の部分は後の時代の作り変えかな?



続いてお隣の閻魔様、普通のものは怖い顔をしているのに歯をむき出して笑い顔?
睨む積りの眼も大目玉にしたのは良いが何ともしまりが無い。



T氏宅の家人に丁重にお礼を述べて菊池(きくじ)に向かうが、R-10途中の
南新波(あらなみ)に寄り道。公民館脇の墓地に駐車。
ここにある一面六臂の像は左手に軍配状のものを持つ変り種。それが何であるかが
判らない。それに胴体に二本の帯も見える。どうやら縄目が付いているようなので
若しかすると「荒縄の帯」なのか? これも高遠石工は関係ないが珍しいので。



六角の台石には正面に「聞かザル」が一匹、その両脇に雉が一羽づつ。



南新波からR-10を西進して菊池信号先を左折して共同墓地。ここのいり口には
相当量の石造物がぎゅっと詰めあわされている。
先ずは庚申塔、詰合いなのでカメラを入れるのに苦労する。この一面六臂像は
坊主頭。
左手に宝輪・宝珠と弓、右手に矛と蛇までは判ったが体の前に吊下しているものが
何だか判らない。享保12年(1727)のさくだから吉宗の円熟期。



台石には邪鬼が頭を左にして足で踏みつけられて這い蹲り、その右に「見ザル」と
左に「聞かザル」と「言わザル」が配置されている。
石工は桜井兵右衛門。



直ぐ隣に大型の石宮。慶安2年(1649)の作だが由井正雪事件前夜。



その扉口の彫り物。



一際高い2.5Mの宝筐印塔。



同じ並びに庚申石幢、六角の龕部には六地蔵、その一つの肩にはサル。



竿石の輪廻車の穴には車は無かった。



この丸彫りの地蔵立像は左手に宝珠、右手に錫杖の標準形。



こんな巡拝塔が数基ある。



菊池を離れて最後のショケラ付きを探して我峰町の田圃の中を
ウロウロ。漸く探し出した。



左手に弓・ショケラ・蛇
右手に矢を二本と剣に索。矢が二本のは初めて見た。




以上、今年は終了。

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