クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

暇つぶし・十王様巡り H-25- 2- 9

2013-02-10 14:48:49 | 双神道祖神・磨崖仏・道しるべ
巷間伝わる冥土へのプロセスと称するものは中々厄介な手順が組まれているらしいが
否応も無く万人が辿る道だ。
先ず、死後七日の「初七日」には不動明王による下調べ。終わって三途の
川に来ると奪衣婆と懸衣翁によって生前の罪の軽重が計られ、十四日目
に釈迦如来の裁判を経ると川の渡り方が決まる。
川上の水の少ない「山水瀬」を渡るのは罪の軽い亡者、悪人と判定された
亡者は川下の「強深瀬」を渡らされるが流れ早く、波高く川底には大蛇か
待ち構え、浮き上がれば鬼王夜叉に射られると言う苦難の通路。善人が渡る
のは中流にある金銀七宝の橋とか。爺イは当然の事にこの橋だろう。
四九日までの間に七回の裁判があるが35日に閻魔大王による「六道」分類の
裁判を経て49日に判決が確定し亡者は六つの世界の何れかを進むことに
なる。「六道」とは地獄・餓鬼(餓えと渇きの苦の世界)・畜生(弱肉強食
の苦の世界)・阿修羅(闘争の世界)・人道(現世)・天道(天人の住む
天上世界)のこと。此れだけではなく百日・一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌・
三十三回忌と再審査制度が完備ーーと。

元来、我が家は曹洞宗ということになっていてそれなりに仏事は小まめに
こなしてはいるが、本人には実際の所、信仰心などはその欠片もないのと同等程度。
しかし、最近になってその適齢期が近い事が実感されると冗談抜きで色々と
「伝えられている事」を事前に知りたくなって来ている。
或る時、こんな説明に接した。「十王様は、人が亡くなった後、
生きている間の行いの善し悪しによって地獄行きか天国行きを決める裁判官の
役目をしています」というもの。
あれっ、すると冥土へのプロセスと云うのは十王様の手に委ねられるのか?
だけど、十王様って何だ! と、いう事で調べたら遠く仏教伝来から始まり
神仏習合を経て明治初期の廃仏毀釈から現代まで膨大な流れを理解しなくてはならなく
とても昨今は縮小甚だしく劣化が進行中の爺ィの脳味噌では消化できない。
つまり、情けなくも何となく理解した積もりでも自分の言葉で説明不能なのだ。
それでも中国十王と本地仏の関係が判って来た。それが下記のもの。

十王   本地仏  忌日        十王   本地仏   忌日
秦広王  不動明王 一七日       初江王  釈迦如来  二七日(14日目)
宋帝王  文殊菩薩 三七日(21日目) 伍官王  普賢菩薩  四七日(28日目)
閻魔王  地蔵菩薩 五七日(35日目) 変成王  弥勒菩薩  六七日(42日目)
泰山府君 薬師如来 七七日(49日目) 平等王  観音菩薩  百ヵ日(100日目)
都市王  勢至菩薩 一周忌(一年目)  五道転輪 阿弥陀如来 三回忌(三年目)

本地仏とは、本来の姿である仏様、という意味らしい。例えば初江王とは釈迦如来の
事なんだと無理やりにすり込みをしてしまうことにした。

幸いにして高崎地区でこの十王様の像が設置されている寺が四つある事が判ったので
早速探訪に掛かったがネットで十王の画像を探し出し、それと照合しようと試みた。
が、実際には文化財にも指定されていないので保存状態が悪くて照合によって
特定することは出来なかった。

秦広王  (不動明王・殺生について取り調べる)
     


初江王  (釈迦如来・偸盗(盗み)について取り調べる)
     


宋帝王  (文殊菩薩 ・邪淫の業について取り調べる)



伍官(ゴミヤ)王  (普賢菩薩・妄語(うそ)について取り調べる)
     


閻魔王  (地蔵菩薩・六道の行き先を決定する)
     


変成王  (弥勒菩薩・生まれ変わる場所の条件を決定する)
     


泰山王 (薬師如来・生まれ変わる条件を決定する)



平等王  (観音菩薩・人間の善悪を公正に裁く)



都市王  (勢至菩薩・一年目に死者の魂を裁く) 



五道転輪王(阿弥陀如来)・三年目に死者の魂を裁く)



河婆  (脱衣婆・地獄の三途川(葬頭河)に居て亡者の衣服を剥ぎ取る老婆)



この他に13王様とも言われるのは、七回忌 蓮華王(阿閦アシュク如来)
十三回忌 祇園王(大日如来) 三十三回忌 法界王(虚空菩薩)を加えたものだそうだ。

(1)先ずは飯塚町の飯玉神社北側の「常福寺」



ひっそりと静まり返った寺院の入り口。



山門手前の左塀際に一群の石造物、三列あるが手前二列にそれらしきもの。



これが向かっての右半分、右端は地蔵坐像で十王ではない。左手に宝珠、右に
短い錫杖を持っていて多分十王とセットで作られたもの?



向かって左半分、右端は奪衣婆。





この二体の左側は閻魔らしい雰囲気。



それぞれの個体。











(2) 下小鳥の蓮花(レンゲ)院



R-17を突っ切って下小鳥の幸宮神社前を通過すると



左手に巨大墓地を持つ蓮花院。



参道を右に周ると墓地入り口に番人の様に巨大な奪衣婆。



その並びに五体。











同じ集団の中にあるこの首無しは閻魔らしいし



こつちの首無しは奪衣婆と思われる。



この寺院には色々と面白い石造物があるので序のことに一回り。
先ず、この雷神塔、県内に三体しかないとの事。宝永元年(1704)綱吉時代。
これは墓地ではなく住居の中庭にあるので一旦表に出て裏口から入って
案内してもらわなくてはならない。



再び表門に戻ると左手に宝筐印塔、明和4年(1767)山縣大弐の明和事件発覚の年。
高遠石工の作で署名の「ハ十八」は珍しく高崎では赤坂町の11面観音にあるだけ。
何れも出身地が無いが作風から高遠石工と認定されている。



台石裏面のこの「ハ十八」が辛うじて読み取れる。



山門手前の右側に変わった彫りのある庚申塔がある。貞亨3年(1686)綱吉の
生類哀れみの令の一年前。
青面金剛なのだが像を彫る代わりに青面金剛妙体と彫って尊体を表している。



その上に下部には極めて簡略した三猿が並列ではなく置かれている。



参道の左には大きな常夜灯(天保9年1838)があるが大幅な修復が加えられているので
原型がどの部分かは判然としない。



十王のある墓地周辺に再び向かうと愛染明王 宝永3年(1706)、柳沢吉保が大老。



三面六臂の馬頭観音。安永4年(1775)。台石に念仏供養と彫られている。



どの寺にもあるが自然石の「三界万霊塔」、光線の加減で文字が写らない。



修復の痕が多い地蔵像 享保9年(1724)



(3) 島野町・相円寺



高崎インターへの道を東進して京目でR-13へ右折。直ぐに左手の細道を通って
十王像が五体在るという相円寺。



参道右側に膨大な数の無縁仏風の石塔の山。手前の一群から五体を捜す。





多分これらと思われるもの。







別途に定番の奪衣婆。



(4) 高井喜三郎墓地



島野町から南進してR-354を柴崎町で突っ切り次の「下大類西」を右折して
進雄神社の駐車場に駐車。この神社は「スサノウ」と読む。



現地はここから300M程西の住宅地に囲まれた個人墓地の中。
N-36-19-05 E-139-02-42-1
これが五万石事件の高井喜三郎の墓。
大類・柴崎村の出身、明治2年の減免運動に奮い立ち、大総代として
自らを捨てて活動。城主の怒りに触れて追われる身になってから、居住を
転々として難局を凌いだが明治2年11月に逮捕され翌年の2月に
佐藤三喜蔵と共に無縁堂で斬首。享年42歳。
辞世 「吾人のためなれと身をすてて いま生贄となりしうれしさ」



墓地の南側に十王像の一群。十二体あるが奪衣婆などが入っていると
思われるが何れも損傷が激しく判別が難しい。



以上で一回りしたが保存状態が悪いので原型の細かい所作が判らず
どの王と特定できなかった。
終わって見てこの調査は何だったのかと考えると結局は結論無しの
唯の「暇つぶし」に過ぎなかったようだ。

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