クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

太田・金山城址で軽ハイキング(改) H-29- 6-29

2017-06-30 19:34:27 | 前橋・伊勢崎・桐生・太田方面
吉沢ユリの里を充分満足で辞しr-39を東進して「丸山」信号から「東国文化歴史街道」を
南下して途中から右折して金山城址・呑竜様方面に走る。尤も群馬県内にはこの表示の
道路は18箇所もあるらしく各地の史跡などを結ぶ役割を果たしているとの事。
金山城址への登山道は1.5kmの蛇行の登り道で90mの標高差をクリヤして駐車場。

見附塹壕 
駐車場広場から遊歩道のある尾根に登ると見附塹壕の表示。
どうやら進行方向と反対なので見渡すと一寸距離がありそうなので
後回しで城址へ向かう。
(或いはそこが既に塹壕の一部と気付かずに遠くばかり見ていた?)
 


遊歩道
尾根下の遊歩道には各所に休憩ベンチが設置してありお昼の時刻なので
観光グループが昼食の真っ最中。直ぐ右下には管理道路の舗装も見える。



城址標石
間も無くこの標石、本格的に城址に入るらしい。この金山の城址は平成4年頃から本格的な
調査が行われ、平成13年に一次復元が行われたとされている。
城址構成は4つも城域のある巨大城郭だが、現在の観光用ルートは西城域と実城域で
北城域と八王子山の砦域は整備されていないとのことだが某著名サイトでは「城跡と言うよりは
古代文明の遺跡」と賞賛している。



木枠段
駐車場から本丸までの比高は推定50m位あるので全般的にこんな登りが多い。



西矢倉台掘切
山の尾根を分断し敵兵の侵入防止また自軍の通路としても活用できる山城の基本的な防御施設の堀切。形は色々だが何処の城址でも見られるが
ここのは何となくきちっと整備されていて他所に見られる崩れなどは無い。



西矢倉下掘切
二番目の堀切。新田金山城の堀切は本丸に近づくにつれ広く、
そして深くなっているとの事。



物見台下虎口
此処からは城址の雰囲気が強くなる。箕輪城などではこの類は土橋だったが
石垣と石畳で固められているのを見ると綿密な発掘調査に基ずく再現作業の
意気込みが伝わる。



直進路は閉鎖されていて遊歩道は左への石段で尾根筋に移る。



物見台看板
尾根に達すると目の前に物見台への道標。遥か左手の彼方に物見台が見える。



物見台
この季節では樹葉が邪魔で展望は悪いが古い柱穴が見つかった場所に物見台を造ってあり
これは当時の矢倉を再現したものではないので遺構とは云わない。
金山城は上杉謙信や武田信玄・勝頼などから攻撃を受けており、物見台では北西
方向から侵攻するであろう、上杉氏や武田氏の動向を監視したもの。
上杉謙信は、金山城を攻める際に、物見台からの死角となる方面に陣を構えたと
伝えられているとか。



三角点
物見台の直ぐ脇に周辺が整備された三角点。点名が金山城所縁と期待したが
残念ながら平凡に地名の「東金井」で味気ない。222.31m。



馬場曲輪
ここには多くの建物があったとされ、しっかりとした排水溝の遺構もある。



三の丸下塹壕



月の池
大手虎口の手前に直径7.5mの池がある。これは石垣と石敷きに囲まれた池で
長い籠城に耐えられるよう生活水を確保するための「貯水池」であるとの事。



大手虎口
何とも言いようの無い風格がある。ここがこの城址の看板だろう。
再現もここまで徹底すると見事と言うより言葉が無い。
大手虎口は城を防御する最大の要、つい見慣れた西毛の諸城址と比較してしまう。



南上段曲輪
城兵の生活の場。石組み井戸址、石敷き建物址、カマド址などが見つかってるそうだ。
兵士たちは、長い籠城生活の中での飢えや乾きを癒し、戦闘に備えていたのだろう
と説明されている。



日の池
この池の大きさは、月ノ池よりも倍以上あり直径17.5m、深さは2m。
月の池と同様に篭城に備えた貯水池であるが発掘のとき
水ノ神のお使いとされる「土どば馬」と呼ぶ遺物が出たことに
より貯水池としての役割の他に日ノ池のあった所は古来から水が出る
場所であり、水にかかわる祭祀を行った「聖地」であったと
推定されているとの事。



日本百名城の記念碑。



城レプリカ



神社案内
上部に進むと右手に石の鳥居が現れ新田神社は左と指している。



本丸
大きな城址の標柱があるから神社のある広場が本丸跡だろう。「実城」の表記も
一般で云う本丸なんだろう。



新田神社
新田金山城の本丸跡にある新田義貞を祀っている神社。この位置が標高239mで最高点。



御嶽神社
新田神社の向かって左隣。



梅若稲荷神社



金山の大ケヤキ
付近には巨木が林立しているが柵があるからこれが本命。
幹周が6.8m、枝張りが40m、推定樹齢は800年。



万葉歌碑
巻14東歌 3436 作者不詳

志良登保布      乎尓比多夜麻乃        毛流夜麻乃 宇良賀礼勢奈
白(しら)遠(とほ)ふ 小新田山(をにひたやま)の   守(も)る山の 末(うら)枯(か)れせな

登許波尓毛我母
常葉(とこは)にもがも

意味・人に立ち入らせずに保護している小新田山の木々の葉のように末枯れすることなく
何時までもみずみずしく元気でいたいものだ


(東歌は東国歌謡。《万葉集》巻14に230首。すべて短歌で,作者は不明。
民衆の生活と感情が東国方言を交えて詠みあげられており,本来は古代東国に
口誦されていた在地歌謡だったと考えられている)

大方見たので駐車場に帰着。写真を撮りながらのブラブラ歩きで約1時間10分の散歩程度の軽ハイク。



金山城址の徒然

爺イは東毛の歴史には極めて疎い。戦国史が好きだといっても高崎と言う
居住地域の為か? 興味は一般受けの域を出ず全国版武将以外の地元関連では
「長野・真田・武田・上杉・後北条徳川ーーー」などか主で金山の「由良」
「横瀬」と云われても馴染みは薄い体たらく。

大体、太田・金山城址と聞いて直ぐ連想したのが「新田義重」で、どんな関係に
あったか? と思った程度の知識。調べてみればこの城址か新田義貞(1300-1338)に
拠ると言うことすら伝説扱いであるから(1114-1202)の義重が関係している筈はない。
改めて調べ直した概略のストーリーは下記。

「1469年、新田一族であった岩松家純によって築城される」が定説らしい。が、
築城当初は実城(本丸)とその周辺(二の丸・三の丸)程度の小規模なものだったらしい。
それ以前、岩松家純は関東管領上杉氏に与し、1461年に、同族で古河公方足利成氏に
与していた岩松持国を滅ぼし二派に分流していた岩松氏の系統を統一している。
築城時、将軍は足利義政、京都を廃墟とする応仁の乱は二年前から始まっており、
関東では相変わらず古河公方と堀越公方が抗争していた。

この築城については家純が重臣の横瀬国繁に命じ、世良田長楽寺の僧、松陰軒西堂の
縄張りで建設したのだがここでキーマンの横瀬氏が登場した。
暫くは岩松体制が安泰に続いたが、岩松氏は上杉氏と古河公方への帰趨を巡って
内紛が勃発し、1495年に横瀬国繁・成繁父子はそれに付け入って実権を奪ってしまう。
これが世に言う「明応の乱」。その後、1528年に横瀬氏の横暴に対抗した
岩松氏は横瀬氏打倒を計画したが事前に漏れ、横瀬泰繁・横瀬成繁によって殺害され、
金山城は名実ともに横瀬氏の支配下に入った。これを「享禄の乱」という。
 
下剋上によって金山城の城主となった横瀬氏は後に由良氏と姓を改め、
この時代に金山城は全盛期を迎えているので金山城=由良氏の図式が出来た。
但し関東管領の上杉家に従い北条家とは対立している。
思えば1491年に北条早雲が堀越公方足利政知の子茶々丸を襲撃して滅ぼし伊豆を奪った
事件は、新興勢力が勃興する下克上が当たり前の世を作ったと評されるから
金山で起きた1495年の事件も世の流れを現しているのかも知れない。その後は

1546年に 河越夜戦で上杉家が敗北すると、由良氏は北条家に降るが 1560年に
越後国の上杉謙信が関東に進出してくると、再び謙信に寝返る。
1565年には 城主横瀬成繁が、由良氏を名乗るも 翌年には 又も北条家に降り
その後、謙信に執拗に攻められるが金山を守り抜いた。

北条氏康が死没、由良成繁が隠居し、子の由良国繁が城主に、上杉謙信が急死し
御館の乱と時代は流れて1578年に武田勝頼の傘下に入ったはよいが 武田家滅亡
によって進駐軍の滝川一益の支配下に。
やれ安泰とおもつたら三ヵ月後には信長謀殺で後北条家の配下に逆戻りしたのが
1582年の事。その2年後には 後北条家との金山合戦により、由良国繁は城を追われ、
金山城を退去し桐生城に隠居し替わって北条家の家臣、清水正次が城代になり
1590年 秀吉の小田原城攻めでは、前田利家らの北陸勢に攻められ1590年5月に
落城し、その後廃城となつた。
なお由良氏は、国繁の母・妙印尼が秀吉本営に人質を差し出した上で豊臣家に
二心なきことを説得、改易を免れ、由良国繁は常陸牛久五千石余。

妙印尼とは「前田利家を驚かせ、あの太閤秀吉も認めた戦国時代最強の女丈夫が
太田金山城にいた」と喧伝される女傑。俗名は輝子(てるこ)。1584年、国繋不在の
金山城を攻める後北条氏に対抗し、家臣をまとめて71歳にして籠城戦を指揮し、
6年後の小田原征伐では、国繁が後北条方の小田原城に篭城する一方、嫡孫を後見して
豊臣方へ参陣したため、戦後その功により秀吉から常陸牛久5400石を与えられ、
家名存続に大役を果たした。81歳没。

近くの金龍寺は新田一族の横瀬氏の祖が新田義貞を追善供養するため創建したと伝えられ、
横瀬氏の菩提所としても栄えた。本堂の裏手には、新田義貞の供養塔と由良氏の
五輪塔があるし、 同様に近接する大光院は徳川家康が新田義重を追善供養するため
創建したとされる古刹、まあ、家康も源氏新田の系図に入り込んで征夷大将軍に
なったんだからこれ位は当然の事だろう。

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