クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

霧積温泉周辺で紅葉探し H-28-11-7

2016-11-09 14:20:00 | 安中・松井田
どうも今年の低山紅葉の時期がはっきりしない。一時期の暖気の影響で例年より
遅れるとは予想していたが高い山の記録を見ると平年並みの気配があるので
迷ってしまう。
11/4に例年通り伊香保・河鹿橋の様子を見に行ったがこんな程度で一週間の遅れ。



それではと榛名湖畔に向かったが黒髪山赤鳥居周辺もマダマダの状況だった。



そこで今日はR-18の旧道沿線の偵察に行って来たが手始めの碓井湖は植栽の
ものが色づいてはいるが周辺のカエデは緑のまま。めがね橋まで行って見たが
同様に駄目なので熊野平までの散策は中止して坂本に引き返す。



坂本からr-56に乗り換えて8k先の霧積温泉に行先変更。途中の霧積ダムを
一眺め、相変わらず水位が低いが周辺はやや色づいている。



放出側をみると結構見られる景観でこの先の期待が持てた。



ダム湖から先は一車線の蛇行道、対向車が来ないことを願いながらも低速でしか
進めない。やがて金湯館への分岐、鎖で閉鎖されているがかってはこの細道を
通ってr-56の末端まで行けたのに今は旧霧積館跡からホイホイ坂を登らなくては
ならない。



やがて広い駐車場、看板には金湯館駐車場とあるがここは水車のみ残された
旧霧積館跡。かって爺イも家族連れで何回も訪れ足弱家内は温泉三昧、子供たちと
爺イは付近の散策を楽しんだものだ。名物のうどんも忘れられないーー。



古い写真からかっての姿。



この地は明治時代初期には温泉旅館が季節営業を始めたと云うから軽井沢が別荘地
として開かれる以前から避暑地として知られるようになり多くの政治家や
文化人らも訪れたと伝えられている。
そして1888年頃よりこの地でも本格的な開発が始まり、温泉地・避暑地として栄えたが
1910年に大洪水に伴う山津波が発生し、42軒あった温泉旅館が流され、温泉街・
別荘は壊滅。金湯館1軒のみが被害を免れ、営業を続けた。そして「きりづみ館」
が開業した1961年まで一軒宿を守った。
だが、後継者問題で2012年4月、きりずみ館が閉館し、以後は再び金湯館のみの
営業となっている。しばしばネット記事で山津波で金湯館・霧積館の二軒が
残ったと書いている御仁も居られるが霧積館の開設は1961年ですから念のため。

西條八十の「帽子」の表示は未だ健在だったが、たしか玄関脇と思っていたが
今となっては旧建屋の位置関係も覚えていない。



周囲を見渡すと植栽かどうかは分からないが青空の下、紅葉が目立つ。



さて黄葉見物は鼻曲山や剣ノ峰に通ずる十六曲がり方面か、ホイホイ坂を
避けて熊野神社方面かで迷ったが十六曲がりは何回も通過しているので
初めての熊野神社方面の途中までに決めてこの道標に従って西へ。



地形図をみると西の尾根に達するには標高差約120m位登る事になり
尾根の東肩に達して西進の尾根が途中で南進に転ずるところまでと計画。
南進になると見える山手の範囲が日陰になるから。
先ずこんな山道に入っていく。



かなりキツイ登りもあるのでスニーカーに水とカメラのみの軽装が
やや不安になる。途中で振り返りの景色。



こんなロープ箇所もあり普通の登山と変わらない。



尾根の肩に乗っても周囲は植林地と緑の雑木ばかりしか見えない尾根下の道。



やっと反対側に出て少しは見えるようになった。





失敗写真が多くて生き残りは僅か。どうも手前の緑が同じ画面に入ると
紅葉が上手く撮れないとは帰宅してから気付いた。
尾根が曲がってきたので適当の位置から今度は尾根下の道を避けて少々無理して
尾根通しで引き返す。



これは若しかすると鼻曲山?これを最後に尾根を降りて大人しく登山道を戻った。



帰りにもう一度霧積湖東岸を眺めてからR-18へ峠の釜飯をお土産にして帰宅。



今週末にはもう一度伊香保と時期が合ったら須賀尾峠から高ジョッキ途中の
紅葉ポイントへ行きたい。

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