今日は安中の高戸谷山、余り人気のある山では無いのでネット情報も少ない。本日辿ろうとしている
南コースには爺イは10年ほど前に行った事があるが先日の下仁田・御堂山と同じく記憶が鮮明でないので
スッキリさせるために松井田に向かう。
R-18の松井田バイパスからR-33に乗り換えて北上し土塩(ヒジシオ)を目指す。登山口に繋がる小根山林道の
入り口は丁度、枝垂れ桜が満開。
その脇に関東ふれあいの道の道標がある。この一都六県を繋ぐふれあいの道は総延長1665KMの大きなスケールで
群馬県内はその内の355KM。此処の区間は「群馬NO.12 小根山公園への道」と名のつく7.9KM区間で横川・土塩間。
九十九川沿いに進むと直ぐに仙ヶ滝への下の入り口で滝まで1KMの表示。
僅かの距離で滝の上の入り口。こちらの方が滝に近いせいか看板も派手。
そこから0.5K程進行すると左側に小さな民家か或いは作業小屋の様な建屋。この手前で林道が幅広に
なっているので路傍駐車。
直ぐ先の右側に「保安林」の看板があり「300山」にも登山口の目印として記載がある。(9.49)
ここが登山口、かって此処には防災用のような丸太の段があり道標が付いていたが今は見当たらない。
と、すると楽々登山のためのルート上の多くの道標も無くなっているかも知れず不安。
登山口からは林道沿いに戻るように東進しこの車止めのロープから北上する。
綺麗に整備された作業道はやや傾斜が強いが真っ直ぐに延びる。
途中の右の沢周辺に周囲に囲いを付けたワサビの栽培地(aninecoさんの記事より)。
尚も直進して小沢のどん詰まりを回って東進すると目印の作業小屋。
小屋の壁に初めての道標が打ち付けられていた。作業道は北北西に向く。
路傍にはこんな古い標柱、「松町」って何だろう?松井田町の事かな?
此処までくると作業道も大分藪っぽくなってきた。
森林リフレッシュ事業の看板を過ぎてこの赤テープを過ぎると山道に入る。
どうやら窪の中に入っているので何れ左尾根に乗り上げる必要がある。
岸壁前の尾根が迫ってきたがこの藪の中ではどうにもならないので左下に見えた踏み跡とロープに
従って尾根に向かう。
尾根に到達。ロープは杉の大木の伐採株に括り付けられていた。300山に書いてある松の大木でもないし
付近に秋葉大神の石碑もなさそうなので違う尾根かも知れない。
北西への尾根を辿っていよいよ問題の岸壁に接近するが、左から楽々と云うルートを探して10m位
上がり下がりしたが見つからないので諦めて岸壁登りに変更して接近する。左右を調べたが上り口らしいものは
見つからずに困惑。
少し左に寄ると何方かの記事で見た岸壁のトラバース入り口写真と同じアングルの場所を発見。
確かその記事にはロープがあるから安心とあった筈と思って気軽に岩壁に取り付く。
数m進んで愕然、ロープなど影も形も無い。右は切れ落ちの絶壁、立ち木も少なく岩角も片足がせいぜいの
幅しかない。まずいと思ったが戻るほうがもっと危険に思えたので覚悟を決めて前進。5-6歩の単位で
じっくり足場を目で追って確信が付いてから進む事を繰り返す。恐怖から四肢が萎縮することを吹き飛ばしながら。
進退窮まって左への逃げ道を眺めたらもっと酷くて駄目。大木の根元で休みながら深呼吸して再び
上りだす。無謀老人が滑落ーーなんていう新聞の見出しがチラッと頭を掠める。
やや右上方に進んだら突然目の前にロープがぶら下がっていた。助かったとそれを掴んで体を引き上げ
左の小尾根に這い上がるが不思議なことにロープはたったの2m程。末端がどうやら擦り切れの様子。
若しかすると本来長かったロープが切れていたのかな?でも適当に登ってきたのにロープがあるのは
ここが設定された登山道と云うことか? それにしてもこの岸壁にロープなしでは何れ事故が起きるな。
小尾根の木の根っこに座り込んで下を見たら一面のツツジ、だがこっちは未だパニックが解けていないので
眺めを楽しむ気分ではない。
重い腰を上げて前進、こんな所もさっきの厳しさに比べたら何でもない。
やがて踏み跡が明瞭になりテープが多くなる。テープは安心のために有難いがこんな明瞭のところだけ
では無く登路不明のところにあって欲しい物だ。
広い斜面の様な所を前面の尾根らしき所に向かって軽い登りだが落ち葉や枯れ枝の堆積が厚くで歩き難い。
やつとの事で尾根に到着するが尾根道などは無く藪っぽくて人が余り通っているとは思えない。
ここから石碑まで65m程。此処までの間で300山に記述のある石仏は見ていない。
やがて尾根の右手に二基の石碑、一つは「意波羅神社」。これは御嶽信仰の流れらしい。
木曽御嶽信仰における信仰の対象となる神は、御嶽大神こと御嶽山座王権現である。そして御嶽山座王権現に
次ぐ重要な神々として、武尊山大権現、意波羅山大権現、八海山大頭羅神王、三笠山刀利天が挙げられる。
いずれも普寛が開山した霊山の神である。
意波羅山大権現は秩父御嶽山(1081m)の麓にある意波羅山の神であり秩父御岳山は普寛の出身地の
秩父落合村の裏にある山であるとの事(ネット情報より)。(11.50)
二つ目は右の斜面にあるので遠くから見ただけなので刻字は勿論分からない。若しかするとこの一帯に
石仏があったんだろうか?先を急いだので良く探索はしなかった。
石碑を離れて小広いところを経て70m程進むと三角点と巨大石碑のある山頂に到着(12.04)。
三角点は二等で点名はその物ずばりの「高戸谷」で739.33mだが破損していた頂部に補修が施されていて
四面の刻字が潰されている。
巨大石碑は「御嶽神社」だが裏面を見ると昭和12年なので左程古いものではない。
石碑の台石に古くて朽ち果てようとしている標識が置かれている。文字が消えているので誰のものか不明。
頂上台地を東へ。
陽だまりを求めて頂上台地東端の石宮のところに腰を据えて昼食と長い休憩。
本日の爺イ。
のんびり過ごしてから東南コースで下山開始(12.39)。滑りやすい急降が続くので軽アイゼン装着。
先ず、下に見える尾根に向かって落ち葉の急傾斜を下る。
尾根に降り立って台地を見上げて振り返り写真。
二段目はコブの下降、これも振り返り。
このテープの所から三段目の長い下りが始まり
又もや振り返り。
尾根はこんな岩頭になるがここは乗り越えられないので
このゲート状に付けられた赤・黄のテープの位置から左下に降りで急斜面を細い踏み跡で進む。
回り道にはちゃんとロープが設置されていて難なく稜線に戻れる。
回り道を振り返り。前方を見ると右手には早くも杉の植林地が現れてきた。
直ぐ目の前に再び小ピークがあり左に巻き道も見えるが直進には木の根が多く適当な岩角もあるの゛
そのまま乗り越え。
乗り越えるとこの赤テープで右手に進み雑木林と杉林の境に向かう。
道はこんな具合ですこぶる歩き易い。
こんなヤセ尾根を通過すると
少し登りになり大天狗の石宮ピークに向かう。
上りきったところに宮標石、これは初めて見たもの。
少し先に大天狗の石宮とその南に二つ目の宮標石。
近くにツツジ。固まって咲いてはいないので目立たないがこのルートでは絶える事が無い。
この岩は乗り越えの足ががりが短足爺イでは届かないので左を抜ける。
林の中の尾根分岐は右を選択。ここで下りの二つ目の石宮と三つ目の宮標石を確認することなく
通過したことに気づく。どうも今日は落ち着きが無いようだ。おまけにすかいさんの頂上標識も
撮っていない。
小ピークは回って振り返り。
こんな所を進むと
地形図上の508m地点が前面に現れるが等高線も無いように唯の丘。
それでも黒ポッチの場所だから何か在るかと行って見たがただの広場。
そのまま508mを乗り越えようとしたがもう終着も近いので定石どおり右の林へ。
後は踏み跡も見つからない林の中を適当に下り古い作業道跡を東に辿ると綺麗な作業道に出た。
ネットで良く見かける堰堤は見ていないから勝手なルートだろう。
僅かの距離で小根山林道に帰着。駐車場所から50mの東、という事は登山口から100mの下(14.09)。
帰り道で久しぶりに仙ヶ滝見物。落石危険ということで近づけないので遠くから。
この滝は良く戦国の悲劇の伝説がある滝と云われるがそれは松井田城が落城のとき、城主の娘・お仙が
この滝に身を投げたというもの。
松井田城の築城は1560年頃と伝わるがそれは本格築城の時期でそれ以前からそこには城があり安中氏が
勢力を広げていた。1564年には武田の侵略で第一回の落城、1582年の武田滅亡によって滝川一益が一時
支配するが直後の信長の死によって一益は形だけの神流川の一戦を演出して逃げ帰る。これが第二の
落城、その後は後北条の大道寺政繁が支配するが1590年の秀吉の小田原攻めのとき、前田・上杉・真田の
攻勢に会い一ヶ月の篭城の末に降伏する。これが第三の落城。この後は秀吉によって廃城となっているから
伝説の出所は1590年の激戦の時だろう。城主は戦後になって開戦責任を問われて切腹。
但し史実では城主の子供らは全て家康の懇願で家康に預け処分になっている。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
南コースには爺イは10年ほど前に行った事があるが先日の下仁田・御堂山と同じく記憶が鮮明でないので
スッキリさせるために松井田に向かう。
R-18の松井田バイパスからR-33に乗り換えて北上し土塩(ヒジシオ)を目指す。登山口に繋がる小根山林道の
入り口は丁度、枝垂れ桜が満開。
その脇に関東ふれあいの道の道標がある。この一都六県を繋ぐふれあいの道は総延長1665KMの大きなスケールで
群馬県内はその内の355KM。此処の区間は「群馬NO.12 小根山公園への道」と名のつく7.9KM区間で横川・土塩間。
九十九川沿いに進むと直ぐに仙ヶ滝への下の入り口で滝まで1KMの表示。
僅かの距離で滝の上の入り口。こちらの方が滝に近いせいか看板も派手。
そこから0.5K程進行すると左側に小さな民家か或いは作業小屋の様な建屋。この手前で林道が幅広に
なっているので路傍駐車。
直ぐ先の右側に「保安林」の看板があり「300山」にも登山口の目印として記載がある。(9.49)
ここが登山口、かって此処には防災用のような丸太の段があり道標が付いていたが今は見当たらない。
と、すると楽々登山のためのルート上の多くの道標も無くなっているかも知れず不安。
登山口からは林道沿いに戻るように東進しこの車止めのロープから北上する。
綺麗に整備された作業道はやや傾斜が強いが真っ直ぐに延びる。
途中の右の沢周辺に周囲に囲いを付けたワサビの栽培地(aninecoさんの記事より)。
尚も直進して小沢のどん詰まりを回って東進すると目印の作業小屋。
小屋の壁に初めての道標が打ち付けられていた。作業道は北北西に向く。
路傍にはこんな古い標柱、「松町」って何だろう?松井田町の事かな?
此処までくると作業道も大分藪っぽくなってきた。
森林リフレッシュ事業の看板を過ぎてこの赤テープを過ぎると山道に入る。
どうやら窪の中に入っているので何れ左尾根に乗り上げる必要がある。
岸壁前の尾根が迫ってきたがこの藪の中ではどうにもならないので左下に見えた踏み跡とロープに
従って尾根に向かう。
尾根に到達。ロープは杉の大木の伐採株に括り付けられていた。300山に書いてある松の大木でもないし
付近に秋葉大神の石碑もなさそうなので違う尾根かも知れない。
北西への尾根を辿っていよいよ問題の岸壁に接近するが、左から楽々と云うルートを探して10m位
上がり下がりしたが見つからないので諦めて岸壁登りに変更して接近する。左右を調べたが上り口らしいものは
見つからずに困惑。
少し左に寄ると何方かの記事で見た岸壁のトラバース入り口写真と同じアングルの場所を発見。
確かその記事にはロープがあるから安心とあった筈と思って気軽に岩壁に取り付く。
数m進んで愕然、ロープなど影も形も無い。右は切れ落ちの絶壁、立ち木も少なく岩角も片足がせいぜいの
幅しかない。まずいと思ったが戻るほうがもっと危険に思えたので覚悟を決めて前進。5-6歩の単位で
じっくり足場を目で追って確信が付いてから進む事を繰り返す。恐怖から四肢が萎縮することを吹き飛ばしながら。
進退窮まって左への逃げ道を眺めたらもっと酷くて駄目。大木の根元で休みながら深呼吸して再び
上りだす。無謀老人が滑落ーーなんていう新聞の見出しがチラッと頭を掠める。
やや右上方に進んだら突然目の前にロープがぶら下がっていた。助かったとそれを掴んで体を引き上げ
左の小尾根に這い上がるが不思議なことにロープはたったの2m程。末端がどうやら擦り切れの様子。
若しかすると本来長かったロープが切れていたのかな?でも適当に登ってきたのにロープがあるのは
ここが設定された登山道と云うことか? それにしてもこの岸壁にロープなしでは何れ事故が起きるな。
小尾根の木の根っこに座り込んで下を見たら一面のツツジ、だがこっちは未だパニックが解けていないので
眺めを楽しむ気分ではない。
重い腰を上げて前進、こんな所もさっきの厳しさに比べたら何でもない。
やがて踏み跡が明瞭になりテープが多くなる。テープは安心のために有難いがこんな明瞭のところだけ
では無く登路不明のところにあって欲しい物だ。
広い斜面の様な所を前面の尾根らしき所に向かって軽い登りだが落ち葉や枯れ枝の堆積が厚くで歩き難い。
やつとの事で尾根に到着するが尾根道などは無く藪っぽくて人が余り通っているとは思えない。
ここから石碑まで65m程。此処までの間で300山に記述のある石仏は見ていない。
やがて尾根の右手に二基の石碑、一つは「意波羅神社」。これは御嶽信仰の流れらしい。
木曽御嶽信仰における信仰の対象となる神は、御嶽大神こと御嶽山座王権現である。そして御嶽山座王権現に
次ぐ重要な神々として、武尊山大権現、意波羅山大権現、八海山大頭羅神王、三笠山刀利天が挙げられる。
いずれも普寛が開山した霊山の神である。
意波羅山大権現は秩父御嶽山(1081m)の麓にある意波羅山の神であり秩父御岳山は普寛の出身地の
秩父落合村の裏にある山であるとの事(ネット情報より)。(11.50)
二つ目は右の斜面にあるので遠くから見ただけなので刻字は勿論分からない。若しかするとこの一帯に
石仏があったんだろうか?先を急いだので良く探索はしなかった。
石碑を離れて小広いところを経て70m程進むと三角点と巨大石碑のある山頂に到着(12.04)。
三角点は二等で点名はその物ずばりの「高戸谷」で739.33mだが破損していた頂部に補修が施されていて
四面の刻字が潰されている。
巨大石碑は「御嶽神社」だが裏面を見ると昭和12年なので左程古いものではない。
石碑の台石に古くて朽ち果てようとしている標識が置かれている。文字が消えているので誰のものか不明。
頂上台地を東へ。
陽だまりを求めて頂上台地東端の石宮のところに腰を据えて昼食と長い休憩。
本日の爺イ。
のんびり過ごしてから東南コースで下山開始(12.39)。滑りやすい急降が続くので軽アイゼン装着。
先ず、下に見える尾根に向かって落ち葉の急傾斜を下る。
尾根に降り立って台地を見上げて振り返り写真。
二段目はコブの下降、これも振り返り。
このテープの所から三段目の長い下りが始まり
又もや振り返り。
尾根はこんな岩頭になるがここは乗り越えられないので
このゲート状に付けられた赤・黄のテープの位置から左下に降りで急斜面を細い踏み跡で進む。
回り道にはちゃんとロープが設置されていて難なく稜線に戻れる。
回り道を振り返り。前方を見ると右手には早くも杉の植林地が現れてきた。
直ぐ目の前に再び小ピークがあり左に巻き道も見えるが直進には木の根が多く適当な岩角もあるの゛
そのまま乗り越え。
乗り越えるとこの赤テープで右手に進み雑木林と杉林の境に向かう。
道はこんな具合ですこぶる歩き易い。
こんなヤセ尾根を通過すると
少し登りになり大天狗の石宮ピークに向かう。
上りきったところに宮標石、これは初めて見たもの。
少し先に大天狗の石宮とその南に二つ目の宮標石。
近くにツツジ。固まって咲いてはいないので目立たないがこのルートでは絶える事が無い。
この岩は乗り越えの足ががりが短足爺イでは届かないので左を抜ける。
林の中の尾根分岐は右を選択。ここで下りの二つ目の石宮と三つ目の宮標石を確認することなく
通過したことに気づく。どうも今日は落ち着きが無いようだ。おまけにすかいさんの頂上標識も
撮っていない。
小ピークは回って振り返り。
こんな所を進むと
地形図上の508m地点が前面に現れるが等高線も無いように唯の丘。
それでも黒ポッチの場所だから何か在るかと行って見たがただの広場。
そのまま508mを乗り越えようとしたがもう終着も近いので定石どおり右の林へ。
後は踏み跡も見つからない林の中を適当に下り古い作業道跡を東に辿ると綺麗な作業道に出た。
ネットで良く見かける堰堤は見ていないから勝手なルートだろう。
僅かの距離で小根山林道に帰着。駐車場所から50mの東、という事は登山口から100mの下(14.09)。
帰り道で久しぶりに仙ヶ滝見物。落石危険ということで近づけないので遠くから。
この滝は良く戦国の悲劇の伝説がある滝と云われるがそれは松井田城が落城のとき、城主の娘・お仙が
この滝に身を投げたというもの。
松井田城の築城は1560年頃と伝わるがそれは本格築城の時期でそれ以前からそこには城があり安中氏が
勢力を広げていた。1564年には武田の侵略で第一回の落城、1582年の武田滅亡によって滝川一益が一時
支配するが直後の信長の死によって一益は形だけの神流川の一戦を演出して逃げ帰る。これが第二の
落城、その後は後北条の大道寺政繁が支配するが1590年の秀吉の小田原攻めのとき、前田・上杉・真田の
攻勢に会い一ヶ月の篭城の末に降伏する。これが第三の落城。この後は秀吉によって廃城となっているから
伝説の出所は1590年の激戦の時だろう。城主は戦後になって開戦責任を問われて切腹。
但し史実では城主の子供らは全て家康の懇願で家康に預け処分になっている。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます