教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

「視考力」の教育的可能性について(2)

2010年06月06日 | 視考力
「作文王」スタンダード(工藤順一著)

▼「絶対学力」の実際─視考力の運用

ちなみに、糸山氏が熱く説く「絶対学力」の実際は──教条主義的ではないが、私も高く買っている──市販の教材『絵で解く算数』や『三角計算』で多少なりとも知ることが出来る。もっと詳しく知りたい人はネット上のサイトを訪れてみるといい。通信教育もやっているようだ。(私は彼の宣伝マンではないが)
私はどちらかと言うと、陰山英男氏の「100マス計算」や公文式の算数には否定的な考えだが(あれは単純作業の繰り返しで創造性には繋がらない、場合によっては害悪でさえあると思っている)、糸山泰造氏の考えも同様のようだ。
『三角計算』にせよ『絵で解く算数』にせよ、一言でいえば、極めて「合理的である」ということだ。「合理的である」とは、面倒なことを楽してできるようになるというようなことではない。人間の頭脳の自然な作用に合っているということ、それを考える人間にとって、余計なことがなく自然で無理がないということである。

▼「視考力」は教科を問わない
実は、私自身はこの「視考力」という考え方をもっと広い範囲で考えている。例えば──これは別立てで話すことになると思うが──「コボちゃん」などを用いた「マンガ作文」でも援用している考え方である。
仮に、糸山氏が算数的「視考力」の提唱者だとすれば、「コボちゃん」作文の側には国語専科教室を営み、『作文王』シリーズを出している工藤順一氏などの面々がいる。そして、私の軸足もどちらかと言えばそちらに近い。(ただ、ここでも私はその子にあった独自のやり方をしている。)
たとえば、そこでは「見ることは考えること」などという単元があるが、これは見方を変えれば、糸山氏の「視考力」そのもの、その援用とでも言える類のものである。(ただし、どちらが先かは私は知らない)

▼「学力低下」の処方箋としての「視考力」
2003年のOECD加盟国によるPISA(国際学習到達度調査)で明らかになった日本の子ども達の「学力低下」(私はそれよりも、未来への希望を見出せない若者像の方が深刻だと思った。勿論、連動しているのだが)。その処方箋を教育行政の側は未だに見出していない。もっと授業時数を増やし、子ども達を無意味に学校に縛り付け、ますます受け身型の考えない子どもを作り出しているだけである。
その中で、民間の側からの、学校外のこのような「視考力」の試みは、大きな可能性を秘めていると思っている。人間の判断の8割程度は視覚に基づくと言われる。実際に、我々が生活する現実の多くは五感の中でもとりわけ視覚という感覚器官を通して脳にインプットされ、判断される。なかんずく、映像の時代と言われる現在、文字や活字さえもデジタル映像として取り込み理解していることが多い。教育活動もまたしかりなのだ。タッチパッドなどの登場はさらにそれに拍車をかけるだろう。

※これらについては、また別のところで。 
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