教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

フリースクールに関わるアシスタントたち(3)

2010年05月03日 | フリースクール
フリースクールに関わるアシスタントたち③

▼学校教員の不登校理解の限界
 こうして、篩(ふるい)にかけられて残った人たちが、私たちスタッフのアシスタントとして関わってくれることになる。ただし、まっさらの状態で関わってもらうので、日々が勉強であり、日々が反省と試行錯誤つなる。
 そういう人たちはどうしてそうまでしてフリースクールに関わろうとするか。それは、不登校となった子どもたちは学校を離れるので、勤務校に在籍する生徒ではあっても、そこの教員が実際に不登校生に触れる機会はとても少ない。まして、不登校生の思いを受け止める機会などさらに少ない。だから、学校の教員が「不登校を理解する」とはいっても、理解はそのレベルにとどまる。そのほとんどがフリースクールという現場で日々触れ合う中で薄皮を剥がすように少しずつ見えてくるものが、どうして触れ合いもなく、机上の学問だけで分かるというのか。傲慢であり、無知である。不登校生は学校の中でつくられるわけだが、学校では不登校生を本当に理解することは物理的にも極めて限界があるというのは、そういうわけである(一方には、不登校になった奴は相談室の先生など─その人達の関わりにいろいろ疑問符が付くことも多いが─その道の人に任せておけばいいという悪しき風潮もある)。

▼不登校生を支える人達の手弁当で成り立つフリースクール
 そういうこともあって、これから教員やカウンセラー、あるいは教育心理の専門家等を目指す人等にとっては、不登校生が集うフリースクールは理屈ぬきに肌で学べ実習できるところなのである。また、ベテランや退職された教員にとっては、自分の教育活動を持続できる場であり、今までの教育活動の幅を広げたり見直したりする場ともなる。
 もとよりフリースクールというところはほとんどがボランティアで成り立っている民間の教育機関であり、基本的に保護者の手弁当によって維持されている。だから、フリースクールを運営する側も自分たちの手当どころか自己資金の持ち出しでかろうじて支えているのが現状である。結果、アシスタントを社員並みに扱うことは現状ではなかなか難しい。その代わり、双方のメリットが折り合うところで、Win-Winの関係で関わってもらうことになる。
 私たち常勤のスタッフにしても、より複眼的な視点から子どもたちを考察し関わることが可能になる。だから、月毎にその人なりの視点から簡単なリポートを書いてもらっている。また、アシスタントにしても自分の行動をその都度客体化して眺めることは意義のあることだと思っている。

▼ぱいでぃあを飛び立ったアシスタントたち
 今までいろいろな人達がフリースクール・ぱいでぃあでアシスタントとして関わってくれた。大学生や大学院の学生、進学塾の先生、劇団の主催者、他の市民団体の主催者、何年もの海外旅行経験者、結婚退職の先生、海外日本人学校の先生など実に様々だ。また、情報工学など学際的な視野を養うために参加した人や、将来の学園の跡取りとして学びに来た人もいた。
 ここを経験した後は、大学に残った人もいれば、民間の研究施設に入った人、中高の教員やカウンセラーとなった人、家庭生活に入って実践している人など、これも様々だ。
 フリースクールという場を通して、そういう人たちと出会えたことは大きな喜びであり感謝である。学ばせているようで実はこちらが学ばされていることも多い。今年もまた、何名かの人たちにアシスタントをお願いすることにした。そういう人達がいる日本はまだまだ捨てたものではないとも思う。

▼教育行政の施策とフリースクール
 愚痴の繰り言のようになるが、現在、民主党政権になってから「子ども手当」とか「高校無償化」などの施策が進み、経済的格差によって教育格差の悲哀を味わっていた人たちにわずかの救済措置がとられるようになった(が、構造的格差、格差の固定化の問題は何ともし難い)。しかし、そういう中でも、不登校の子どもたちは依然として教育棄民の状態に据え置かれている
 小中学生は国家による義務教育無償の対象者なのに、一度学校を離れてしまえば(学校に通えなくなってしまえば)、その教育公費の恩恵には一切預かれなくなる。教育公費は学校に落ちるのであり、その多くは教員の給料など人件費に化けてしまうのである。こういう言い訳が、教育行政の側の人から当然の口調で出てくる。やはり、学校は教師のためにあるようだ。だが、そういう口上で教育行政から保護されている教育公務員とは、何と恵まれた存在だろう。その陰には、教育棄民の状態や引きこもりになっている子どもたちがいるというのに。
 そういう状況の中、親の会などで言われる言葉がある。
行政って、面白いところですね。お金を払ってでも学校に行きたい行きたいと言っているのに来るな来るなといい、お金を貰っても行きたくない行きたくないと言っているのに来い来いと言う
 前者はそのお母さんのお子さんのように障害を持っている子に対して、後者は不登校の子に対する行政や学校側の対応を批判したものである。この言葉には日本の学校教育が置かれている現状が端的に語られている。これが根本から変わるのはいつの日か。

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フリースクールに関わるアシスタントたち(2)

2010年05月02日 | フリースクール
フリースクールに関わるアシスタントたち②

▼資格ではなく能力が問われる教育の世界
  さて、それでは学校を離れてしまった後、代替の学び場&活動の場としてフリースクールにやってくる子どもたちを、フリースクールの教師たちはどのように迎 えるのだろうか。これは笑ってしまう話だが、学校の先生がフリースクールに尋ねる質問の一つに「教員免許を持っていますか」というのがある。「フリース クールをやるからには当たり前でしょう!」ということにもなるが、逆に言えば、学校の先生は教員免許を持っていればフリースクールなんて自分でもできる、くらいに思っているのかな─と思ってしまう。フリースクールとはそういう感覚の先生が支配する学校から逃れた子どもたちが救いを求めてやってくる場所なのに。そういう子どもたちと真正に向き合い、受け止める資質や能力があるならば、形だけの教員免許なんて本当はなくたっていいのだ(ちなみに、教員免許を必要とされるのは小中高の先生であって、大学で教鞭をとるためなら、そういうレベルで問われる資格は問題ではない。これは起業家、スポーツ選手、芸術家などでも同じ。
資格ではなく専門的な分野独自の能力や技能が問われる世界なのだ。でも、近頃、粗悪品とも言える大学生や大学の教員が目につくなあ)。

▼教師としての資質とは何か
 だから、フリースクールを運営責任者には現在の教育システムだけでなく、次代を担う子どもたちに必要とされる基本的ないろいろなものに精通していることが求められる。ここにやって来る子どもたちは学校を逃れてきた子どもたちがほとんどであるから(ここに、フリースクール=不登校生の居場所&学び場という日本の特殊性があるが)、そういう子どもたちにとっての育ち学ぶ空間として「イエス」であるものが満たされていなければならない。
 ところが、こういうことはまだ具体的な感覚のない新人の教員や若い教員にはとても難しい。また一方、旧態依然の教育方法を頑なに墨守してきた「石部健吉」のようなベテラン教員にも難しいことでもある。

▼問題に精通しかつ乗り越えていること
  教員経験があるからとか、学校でカウンセラーの仕事をしてきたからとか、将来教員になりたいからとか、今大学院で臨床心理士になる勉強をしているのでと か、自分にそういう体験があるのでとか…という単純な理由だけではとても「はい、そうですか」とお願いするわけには行かない。
 そういう机上の学問を通して子どもたちを見る習性がついてしまっているとか、自身の体験として染み付いているということであるならば、
その熱心さ真摯さは買うとしても、ぶっちゃけた話、むしろ一度思いっきり全てを捨ててしまった方がいい。 自分は何も知らないという全く白紙の状態から学び始める方がよっぽどいいのだ。思いこみによるその観念のアンバランスさが怖い。何事にせよ、「あ、それ、 ボク知ってる」という生半可な知識も問題ありだが、トラウマから自由になれない精神状態の危うさはもっと要注意である。まずは自分の課題は克服出来ている こと。それができていなければ悩み多き子どもたちと真正に向き合わせることはできない。まして、任せるわけにはいかないのだ。時に子どもたちの神経は繊毛 のように細く脆い。

▼「顔」で人を判断するということ
 だから、フリースクールという場に来たならば、そのアシスタントの過去がどうあれ、「みな、初心者」ということになる。その時にその人物を選ぶ基準になるものは何か。それはその人の「顔」である。面接のときに履歴書と課題の小論文を出してもらうが、それはあくまでも参考に過ぎない。まじめな話から四方山話まで繰り広げて(実は、その下らないしゃべりがとても重要なのだ)、最後は「顔」で決めるのである。この決定はあえて私の独断と偏見に拠っている。
 「それは酷い、顔は自分で変えようがないじゃないか」という反論が予想される。なるほど、もっともだ。しかし、かのアメリカのリンカーン大統領もやはりスタッフを決めるときに「顔」で決めたそうである。彼はこう言ったそうな。「40歳になったら人は自分の顔に責任を持たねばならない」と。つまり「社会人たるもの、大人になれば自分の顔に責任を持て!」 ということ。子どもの顔はまだ見た目が勝負かもしれないが(そこに生育環境がもろに反映されているが)、大人の顔は
単なる自然の造作物ではないし、親から受け継いだだけの顔でもない。自分で作るものなのだ。そこにはあなたのこれまでの育ちだけでなく、今の精神状態、性格、経験、能力、見識などのすべてが言葉と同 じように、あるいはそれ以上に能弁に語られている。

(③に続く)

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