▼国際社会で存在感を失う日本人
今日(2010年5月24日)の読売新聞の「思潮2010 5月」欄の見出しに「世界から姿消す日本人」、小見出しに「リスク取らず内向きに安住」とある。
お定まりの「今の若い奴らは…」論の一つと言えなくもない。一昔前ならば「また年寄りが…」と笑って済ませたかもしれない。「心配しなくても大丈夫だから」と。だが、今は笑い飛ばせなくなっている。それは杞憂でもなんでもなく事実だからである。
▼耐性に欠け、リスクを回避する若者達
ここには「異質なものに対する耐性」を失い、「リスク」を回避する日本の若者が紹介されている。国内だけではない。新聞の見出しにあるようなことが実際に国際社会の現場で進行しているのだいう。そして、その中で日本の存在感そのものが失われつつあるのだとか。
いろいろな意味で、この紙面で紹介されているイビチャ・オシム氏の日本人論は事の本質を捉えていて示唆的である。
「言葉を変えれば、自ら判断することの回避であり、リスクを犯すことの回避であり、責任を取ることの回避でもあった」
▼国際社会で先を越され始めた日本
アジアの中で、中国や韓国の存在感が高まっている。特に隣の韓国は先端技術においても日本を凌駕しつつあるようだ。これについて私的な例で申し訳ないが、個人的にも該当する事例がある。
例えば、私の愛用しているパソコンは小型のモバイル型の韓国製のパソコンである。ネットブック型だが、画面タッチ式のタブレットとしても使える。しかも薄型の標準電池と交換電池で約10数時間駆動し、アダプターを持ち歩かなくても十分だ。しかもストレージはSSDで、とても速く軽い。そういうパソコンを日本製で探したがどこにもなかった。韓国から輸入し日本語に対応させたものしかなかったのだ。
液晶テレビやスマートフォンにしてもそうだ。完全に韓国に先を越された状態だ。まだ国内では愛好者が多いが、国際社会に出れば「技術のソニー」も肩なしだ。やがてサムスン電子は日本をも席巻するかもしれない。
▼日本の功罪から学ぶ韓国の人達
余談だが、私達の仕事場に2年連続で韓国からそれぞれ10人程度の訪問者があった。一つは、韓国で将来ワールド・リーダーを目指す中学生たちの一行。もう一つは、韓国のソーシャル・ワーカーの一行であった。私達の話を聞き、そして日本という国の社会、教育制度や福祉制度、そしてその病理を調査していった。
彼らに共通しているのは「アジアの先進国」としての日本からいろいろ吸収したいという欲求と同時に、日本と同じ轍は踏みたくないという思いである。言い換えれば、日本の功罪─日本の利点と病理を学ぶということ。それは日本を凌駕するための官民あげての戦略でもある。
▼非難の矛先は自分に向けよ
話をもとに戻そう。実のところ「出口なし」の日本の状況は今に始まったことではない。「そんな話はもう聞き飽きた」とも言える。問題はその先なのだ。実際のところ「今の若い奴らは…」という非難は当たらない。「日本人」全体の問題なのだ。「立ちあげれ日本」という政党が出来たが、「立ち枯れ」とか「立ち眩み」とか言って、自嘲気味に揶揄している場合ではないのだ。他人事ではない。我々自身に解決を突き付けられた問題なのである。
▼間違いを恐れずに挑戦すること
そのためにも、我々は多少のリスクには尻込みしない若者を育てなければならない。「挑戦」する若者を応援しなければならない。マスコミをはじめ、日本の社会全体が進むべき方向を示すことが必要だ。
今、ひとりの若者が飛び立とうとしている。それまでの学校教育の中でほとんど存在を認められなかった子どもである。私どものところに来た時、彼は「勉強のポーズ」を取った。テレビでお猿さんの「反省のポーズ」は知っていたが、子どもの「勉強のポーズ」は初めてだった。小学校6年間、中学校3年間、彼は学校でそれをやって来たらしい。先生にも「お客さん」扱いをされながら。これは何の病理か?
その子がやる気を出したきっかけは、自分でも認められる場があると知ったこと、そして、間違っても上から目線で咎められないと分かったことだ。
その子は今でも言う。「間違ったって、いいんだよね」。ある意味、日本はここからやり直すしかないだろう。
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