不登校理解と不登校支援と脱・不登校と---官民連携に際して
▼今年も《不登校セミナー》開催のためのフリースクール側のメンバーの一員として「官民連携会議」に関わらせていただくことになった。埼玉県だけでな全国的な観点で早くから不登校や不登校の子ども達の支援活動に取り組んできた者の一員として、教育委員会や教育行政ののあり方に出来る限りの協力をしたいと思う。
▼不登校問題も当初は不登校になった子ども達への正確な理解が乏しかったと同時に、そういう子どもを守る立場の人たちからは激しい学校批判も上がったものである。そうせざるを得ない側面もあったが、不登校理解と不登校支援の両方にとっても不幸な出発であったと思う。
しかし、論点を明確にせず互いに歩み寄るのが本当の不登校理解に良い結果を生むとは思えないし、互いに家庭が悪いとか母原病だとか、学校が悪いとか教師が勉強不足とか批判していれば不登校支援に繋がるわけでもない。
▼単なる批判で良しとされた時期はもう終わり、具体的に何をどうすればいいのか、実践に向けて今一度整理して見なければならない。不登校理解と不登校支援は官を待たず民間が先行したが、そのオルタナティブの活動が必ずしも所期の成果を上げているとは言えないし、金銭的な側面からも誰にでも利用できるものにはなっていない。
教育行政の側も夜間定時制の高校を統廃合してパレットスルールを立ち上げるなど、それなりの成果は上げているし、公的な支援に頼らざるをえない家庭にとっては福音の部分もある(ただし、「教育の二重基準:ダブルスタンダード」の批判の声は絶えずある)。
▼そこで、改めて原点に戻って考えてみる必要がありそうです。たとえば、
○不登校はなぜ起きるの?
○不登校はどうすれば克服できるの?
○我が子が不登校になった時どう接すればいいの?
○不登校は誰に聞くのがいいの?
○教育行政では不登校をどう見ているの?
○民間の教育活動に求められるものは何?
※ここでも見逃されていることがあります。
それはこれらはみんな対症療法、モグラ叩き的な対応なのです。
▼その前に、大事なこと、それは「不登校を出さない学校をつくる」ということ。
はっきり言って、本来「子どもが主役」であるはずの学校において、子どもが学校を離れるということ=不登校になるということは、「学校教育の敗北」なはずです。子どもが学校を拒否したら、それはもう学校の存在意義はなくなったということです。学校の死です。
▼今や世界規模で《アンスクーリングunschooling》という運動が広がっています。《ホームスクーリングhomeschooling》はその走りだったのかもしれません。オルタナティブの民間教育として注目されたチャータースクール運動もアメリカではすっかり教育ビジネスに侵食されてしまったようです。
今、改めて「不登校は悪くない」「間違っていない」、むしろ命の危機を感じて逃げたのであればそのセンサーや個性を誇るべきとも言えるかも知れません。
▼でも、「学校から逃げた」のは、他のところでよりよく自分を生かしたいということ。その状態にいつまでも留まっていていいということではない。それを「引きこもり」に移行させる契機にしてはならない。
そこで、ヒントを一つ。
子どもは自分に与えられた「環境」の中で育ちます。その環境には物的なものと人的なものがあります。もし、その環境に自己肯定的なものが欠けていたなら、その子は自己肯定感を育むことなく育ちます。
もし、その子の口から「ノー、ノー」の言葉ばかりが発せられ、「イエス、イエス」がないならば、その子は結局、不登校から完全に脱するのはかなり難しいものになるのではないでしょうか。
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▼今年も《不登校セミナー》開催のためのフリースクール側のメンバーの一員として「官民連携会議」に関わらせていただくことになった。埼玉県だけでな全国的な観点で早くから不登校や不登校の子ども達の支援活動に取り組んできた者の一員として、教育委員会や教育行政ののあり方に出来る限りの協力をしたいと思う。
▼不登校問題も当初は不登校になった子ども達への正確な理解が乏しかったと同時に、そういう子どもを守る立場の人たちからは激しい学校批判も上がったものである。そうせざるを得ない側面もあったが、不登校理解と不登校支援の両方にとっても不幸な出発であったと思う。
しかし、論点を明確にせず互いに歩み寄るのが本当の不登校理解に良い結果を生むとは思えないし、互いに家庭が悪いとか母原病だとか、学校が悪いとか教師が勉強不足とか批判していれば不登校支援に繋がるわけでもない。
▼単なる批判で良しとされた時期はもう終わり、具体的に何をどうすればいいのか、実践に向けて今一度整理して見なければならない。不登校理解と不登校支援は官を待たず民間が先行したが、そのオルタナティブの活動が必ずしも所期の成果を上げているとは言えないし、金銭的な側面からも誰にでも利用できるものにはなっていない。
教育行政の側も夜間定時制の高校を統廃合してパレットスルールを立ち上げるなど、それなりの成果は上げているし、公的な支援に頼らざるをえない家庭にとっては福音の部分もある(ただし、「教育の二重基準:ダブルスタンダード」の批判の声は絶えずある)。
▼そこで、改めて原点に戻って考えてみる必要がありそうです。たとえば、
○不登校はなぜ起きるの?
○不登校はどうすれば克服できるの?
○我が子が不登校になった時どう接すればいいの?
○不登校は誰に聞くのがいいの?
○教育行政では不登校をどう見ているの?
○民間の教育活動に求められるものは何?
※ここでも見逃されていることがあります。
それはこれらはみんな対症療法、モグラ叩き的な対応なのです。
▼その前に、大事なこと、それは「不登校を出さない学校をつくる」ということ。
はっきり言って、本来「子どもが主役」であるはずの学校において、子どもが学校を離れるということ=不登校になるということは、「学校教育の敗北」なはずです。子どもが学校を拒否したら、それはもう学校の存在意義はなくなったということです。学校の死です。
▼今や世界規模で《アンスクーリングunschooling》という運動が広がっています。《ホームスクーリングhomeschooling》はその走りだったのかもしれません。オルタナティブの民間教育として注目されたチャータースクール運動もアメリカではすっかり教育ビジネスに侵食されてしまったようです。
今、改めて「不登校は悪くない」「間違っていない」、むしろ命の危機を感じて逃げたのであればそのセンサーや個性を誇るべきとも言えるかも知れません。
▼でも、「学校から逃げた」のは、他のところでよりよく自分を生かしたいということ。その状態にいつまでも留まっていていいということではない。それを「引きこもり」に移行させる契機にしてはならない。
そこで、ヒントを一つ。
子どもは自分に与えられた「環境」の中で育ちます。その環境には物的なものと人的なものがあります。もし、その環境に自己肯定的なものが欠けていたなら、その子は自己肯定感を育むことなく育ちます。
もし、その子の口から「ノー、ノー」の言葉ばかりが発せられ、「イエス、イエス」がないならば、その子は結局、不登校から完全に脱するのはかなり難しいものになるのではないでしょうか。
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