□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
「知ることは共に生まれること」(ポール・クローデル)
connaitre = con + naitre
『ザ・小学教師』を読んで
(宝島社 1260円)
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
2007年9月9日発行というから、今日が発売日ということであろうか(実際は一ヶ月も前から店頭に並んでいる)、ムック本の出版社「宝島社」から『ザ・小学教師』というムック本が新たに出版された。以前に『ザ・中学教師』というムック本が出版されているから、その小学校教師版と考えればいいだろうか。
『ザ・中学教師』版には「ザ・中学教師~不思議の国の中学校に棲息するセンセイたちのありさま」というサブタイトルがつけられていたが、今回の小学教師版には「現場教師の視線で作ったホンネの小学校&教員ガイド」「ニッポンの明日を占う! 最後の“聖域”小学校のありのまま」と銘打たれている。
なぜこんな本を取り上げたかと言うと、この本の制作に、こういう問題に意欲的に取り組んでいる知人のフリーライターが関わっているということと、この本が お世辞にも書棚に飾るべき優れ本ではないが 教師の今を考えるには格好の一冊であるのには間違いないからである。とりわけ、現場の教員が 事件などの非日常を取材することは良くあることだが 学校での日常を悲喜こもごも赤裸々に語ることはあまりないからである。学校内の出来事は一般には「部外秘」扱いなのだ。もちろん、読ませる記事であるから、この内容を鵜呑みにするような愚かなことはせず、 よくぞ調べたと言おうか、ここまで書くかと言おうか、さもありなんの内容がたくさんある 適当に差し引いて読むことも必要であろう。
「それにしても…」である。大きく章分けだけを列挙すると、〔プロローグ〕学校がへんだ!? [第一章〕校門の中の非日常 〔第二章〕〔モノいう親と子〕 〔第三章〕先生たちの黄昏 〔プロローグ〕小学校の未来は?(民間人校長)となっている。これが次世代の子どもたちを預かる学校現場の実態であるか…と考えると、正に日本の将来に対する暗澹たる気持ちにならざるを得ない。プロローグや一、二章などは社会で起きている様々な事象の荒波はもはや校門や塀では防ぎようがなくなっている学校現場の現実を語ったものであり、それはそれで教師の奮闘の大変さを慮る配慮も働くと言うものだが、第三章の「先生たちの黄昏」に至っては、「これはダメだ」と絶望しないわけには行かない。
それを紹介する前に、このムック本の表紙を見て欲しい。これはシュールレアリストの絵画を模したものであろうか。吹きすさぶ暗雲の空の下、歪んだ校舎が建ち、キリコの輪回しの少女が一人走っていく。それを遠景とすると、そのこちら側の真ん中には後ろ向きの男が一人(教員であろうか?どこか農水省の何とか絆創膏大臣を想起させる)背中を見せて立っている。(多分、少女の姿をぼんやりと眺めているのだろう)生気はなく、背は傾き、背広はよれよれに汚れている。風景の暗雲のうねりはどこかムンクの叫びの背景を想わせる。そういう表紙である。
この章を読むと、もしかすると問題は子どもたちや親たちではないのかもしれない。最大の問題は教師にあるのではないか…そんなことを考えさせる。ロリコン教師、不登校教師、教師という“エリート”、職場結婚、教師の不倫、職員室の嫌われ者、現場派と出世志向派、コネと学閥、団塊の世代問題、先生たちの職業病、常勤講師・非常勤講師、“出世”すごろく、熱血教師は今、先生たちの裏稼業……社会不適応だから学校の教員になったのか、先生になったから社会不適応になったのか。一度勤めたらよほどの問題でも起こさない限り路頭に迷うことはないたちだが、上に逆らわず、周りに波風立てず、内部に変化を求めず、何事も大過なくやり過ごすこと…そういう学校の先生たちが次世代の日本を建設する子どもたちを育成する事業に関わっているという、何というこの逆説!絶望的な学校の現実、とりわけ先生たちの現実がここにある。ここに手をつけずに日本の教育の改革はあり得ないのではないか。
「現在の学校の姿は、まさに歴代の為政者が教育に望んできたことの成果である!」という見方が一方にあるが、単なる傍観者ではなく、日本国を愛する国民として自分もまたその当事者の一人であるという認識に立つならば、これはそろそろ何とかしなければならない事態である。そう多くの国民が考え出したのではないだろうか。文部科学省や教育委員会もそうであろう。そして、その切り札の一つとして登場したのが「民間人校長」の登用と言うシステムの採用であった。この本の最後にもその項が設けられている。
では、それは本当に救いの方法となったであろうか。答えはイエスともノーとも言えない。そもそも学校長と言う存在はどんな存在なのか。学校の中では教頭と並ぶ管理職であるが、これは一種の名誉職である、民間の会社の管理職とは大きく異なる。人事権もなく予算執行権もない。学校運営の実務からは切り離された学校行事や地域活動のお飾りに過ぎない。全ての執行は教育委員会に判断を仰がねばならないのだ。
2006年4月現在の統計では、民間人校長は総勢102名、うち小学校は23名という。かつては銀行や自動車会社やビール会社などの第一線で働いていた人たちである。彼らは学校の教師たちと何が違うか。単年度プランではなくローリングプランであること、PDCA(プラン・ドゥ・チェック・アクション)の導入、そして顧客第一主義で組織力を活かしブランド力を高めること…などが民間人校長に共通したところであろうか。
ところで、顧客とは誰か?得てして学校という組織では教師が主人公で、子どもたちを商品のごとく扱いっていることが多いが、本来、学校では授業が商品であり、子どもたちは顧客なのである。そして、CS、文字通り顧客満足が第一なのである。学校という事業を継続させるためには「顧客の視点で、品質を保証し、新たな商品を開発」しなければならない。ところが、税金を消費するだけで企業体の活動によって利益を生み出しそれによって企業を維持発展させていくという経営感覚のない教員たちは、この点で大いに錯覚していることがある。教員たちはすぐに「では、子どもたちを甘やかせということか」とか「子どもたちに迎合していては教育にならない」とか言い出しそうだが、そういうことではない。学校には子どもたちの社会的自立を図り、社会参加できる人間を育てるという目標がある。それを確実に成し遂げているかということ、そしてそれを評価するためには学校外の外部の目も必要であるということである。校長の諮問機関として学校評議員制度があるにはあるが、機能しているとはとても思えない。現場に入った民間人校長はそのような視点の導入や斬新な改革によって、学校に様々な新しい息吹を送り込んだようである。
では、民間人校長の登用は成功であったか。実際は必ずしもそういう成果をあげられたところばかりではない。期待はずれであったり、既成の教育の壁にぶち当たったり、逆に取り込まれてしまったり、教育に対する勘違いの場合もあったようだ。2003年3月には広島県尾道市の小学校の民間人校長が自殺する事件も起きている。また、これは中学の場合だが、しばしばテレビで杉並区の和田中学の藤原和博校長の「世の中科」の授業が放映されたり紹介されたりしているが、逆に考えると、そういう例しかないのだとも言える。ということは、教育現場に民間人校長を登用するという小手先の対応ではもはや改革は不可能なところまで来ているのではないか。
では、日本の教育を変えるには何が必要か。それは今までの教育のシステムそのものを変えることであろう。「文部科学省はいらない。教育委員会はいらない。」そういう意見があるが、本当にその辺から根本的に変える試みをしなければ、日本の教育の再生はあり得ないのかもしれない。
ムック本であって、必ずしも記述や視点に統一が取れているわけではなく、玉石混交の趣が強いが、小学校教師の話題に限らず、学校問題全般を考える場合にも、ある程度有効な内容ではある。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます