日本語の言語体系にある、語彙について、漢語を他の言語体系から加わった単語とすると外来語であることになる。しかし、発音のままに漢字語としていない。文字をそのままにして借用をしている。他の言語、外国語である漢語を日本語にしたので、漢字を用いた語には中国起源の言葉というとらえ方ができるが、漢語を入れて日本語の言葉を翻訳に充てたり、漢字の組み合わせを日本語の用法にしてしまったり、数は限られているが、和製漢字と呼ぶ文字を造形したり、などの、外国語を学ぶので、その漢字による日本語は言語の現象として、国語となったのである。したがって、国語に和語、漢語というのは表記による発音が日本語であるもので、文字遣いが混交する。さらにその国語には、外来語という発音表記をそのままカタカナで書いて、日本語発音としたものがある。この外来語は、中国から入れた漢語のほかの言語からということになる。借用の現象を繰り返し、日本語は語彙を増やすことを行ってきている。したがって、見方によっては、借用語の言語であり、借用した文字表記の言語である。もちろんすべてが、その言語の基本となるところから文法において、借用であるわけではないということになるが、独自の音節文字である仮名文字を発明して用いる、漢語からの日本語借用文字言語であることは否めない。
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最高賞のパルムドール、1939年から1954年までは最高賞をグランプリ Grand Prix du Festival International du Film が、1955年に、パルム・ドール、黄金のシュロ、デザインはジャン・コクトー、を正式名称としているそうである。そのパルムドール賞に輝いた、万引き家族というのを鑑賞した。このタイトルが連想するところ、泥棒、詐欺、窃盗の家族であったり、コメディーなのかと、どう想像してもそれ以上でもない。見てからの感想は、くすねあう金でつながった家族は、みんな、元のさやに納まっていくのだろうかと不安になった。BS放送で是枝監督のこれまでの作品をリマスターしたり、自身の解説がついたりで、いくつか見てみるが、ドキュメンタリーの手法だとか、どうも、映画を映画芸術とは見ていないような印象である。作るプロセスに芸術の創作活動があるなら、それは結果の作品にはならない、携わる、作るプロセスにある、そこに参加する人たちのものだけで、撮影中に歯が抜けた子役の笑い顔だけという、それが何だったのか、ストーリーではよくわからない、そういう絵柄である。 . . . 本文を読む
ブログ日記をボケにして書くのは難しいという話になった。言っていて、いかにボケ習慣を抑えるかとはならないから、どんどん、それが進行することを見つめることになって、読んでも、読み返しても面白くない。いつどういうことがあったかを書くならブログでなくてもいいわけだが、記憶のかかわり方はいろんなことからあるので、ボケッとしている。日記であるならこれでよいかもしれないが、木瓜記録とするなら、そのゆえんがわかるように、>木瓜 Japanese quince ボケ全般の花言葉 「平凡」「早熟」「先駆者」 この花を楽しみとして書き綴ることであるから・・・・・ . . . 本文を読む