現代日本語百科   けふも  お元気ですか

gooブログはじめました!日本語百科です。
現代日本語百科 ⓒ2013gooksky

文字の伝来は前漢の時代

2014-08-25 | 日本語の輪郭
漢字は文字である。漢の文字である。大漢帝国の時代に伝わったとされる文字である。それは漢民族によって支配されたか。漢は、中国の河川名、地域名、郡名、国名、王朝名、地名、民族名であると解説する。漢という字は、水の流れていない川をあらわす形声文字で、音は、乾、に通ず、長江の支流で現在の陝西省南部、秦嶺山脈の南麓に源を発し、湖北省に注いで武漢、漢口に注ぐ漢江、漢水をさす。 エスニックグループとしての、漢人、漢族、そして漢字、漢語、漢風などの特定文化をさす、漢は漢王朝の名に由来しているとするが、それは何故か。このウイキペディアの説明では、漢王朝の時代に古代中国文化が完成したため、崇拝をこめて漢王朝が回顧されることが中国では一般的である、となるようである。 . . . 本文を読む

どしゃぶり

2014-08-25 | 日本語百科
どしゃ降りだった。どしゃどしゃと降る、降り出した雨を眺めて、しばらくやまないかな、これだけ激しいと、一時の通り雨だと思ったが、この雨の降りようを形容するにはどういえばよいか。どしゃ降り、(a) slashing rain 、どしゃ降り、豪雨 a deluge of rain どしゃ降りの雨 (a) pouring rain 、この pouring は、たっぷり流れるさま flowing profusely である。鋳込み、流し込む様子である。強い雨である deluge は、洪水、氾濫、出水となる。まるで痛烈な打撃で打つかのように、as if striking with slashing blows 、目の前で跳ね上がって降る雨には、叩く、打つが見たままの表現である。篠突く雨という、降り方には、cats and dog rain というのがあった。記録的短時間大雨情報と気象庁は呼ぶが、あるいはまた、これまでに経験したことがないようなと、警報の種類をあらわすが、結局の雨として、土砂ぶり、土石流ぶり、というような雨に、出水雨、氾濫雨となるか。 . . . 本文を読む

0825 広島、土石流 時速40キロか

2014-08-25 | 日記
土石流 時速40キロか 広島 堆積土砂50万立方メートル  中日新聞記事、トップ見出しである。20140825   リードには、広島県警は二十四日、土砂災害の死者が一人増え、五十人となったと発表した、とある。 左の見出しは、風俗店数グループ所得隠し 国税指摘 7億6000万円 組資金源か とある。20140825   記事には、愛知、静岡県で風俗店やキャバクラ店を展開する数グループが、計七億六千万円の所得隠しを名古屋国税局から指摘されていたことが分かった、とある。 中段の見出しに、大震災被災地から学ぶ 本紙防災面「備える」100回記念フォーラム とある。20140825   記事には、南海トラフ地震への備えを呼びかける本紙防災面「備える 3・11から」の百回記念フォーラム「備えるライブ! 大震災を生き抜く」(中日新聞社、名古屋大減災連携研究センター共催)が二十四日、名古屋市千種区の名古屋大で開かれ、約千人の市民が参加した、とある。 . . . 本文を読む

留学生教育の語学以前

2014-08-25 | 日本語教育史
日本語教育の歴史は留学生教育にあるとその視点を据えて述べようとする。すると、このとらえ方にはすぐに日本語とは何か、留学生とはなにかを明らかにすることが前提となる。これはさかのぼって留学生、留学僧と知る遣隋使、遣唐使派遣のことがらにまで考え及ぼすことになる一方で、日本語はいつから日本語であるかという根本の疑義にいたる。そこでその捉え方について思いを巡らせて、それ以前のことがらに日本語の系譜をたどるようなことになる。わざわざ日本語教育の歴史に民族の移入ということを見ようとしたのはそのゆえんであるが、民族という概念も近代以降に成立したことのようであるから、その民族の概念において言語教育を見るようなことは時代が異なることになるから、民族の移入とでもすべきことを思い合せようとする。 . . . 本文を読む

語と語彙 4

2014-08-25 | 語と語彙
語の論は語論となるか。その用語がとくにあるわけではない。しかし、辞書に項目として掲載し、文法研究の分野また部門として扱う説明がある。語論があり、文論があり、文章論があるということになる。辞書項目を見ていくと、文論と文章論は重なる説明がある。そうすると、語論はまた何かを問うことになるが、シンタクスに対するもの、形態文法を意味する。 語の論を語論、語彙論、そして意味論で扱うそれぞれの範囲をおおうものとしてとらえるのがよさそうである。文法論に、語、文、文章とするのは文法単位の部門に分けることであり、そこに語より下位レベルのようにして形態を加え、さらには語と文にあって句をもって見る。それを形態論の分野に語を据えて句論まで広義にして、文法論の部門とすることになる。 . . . 本文を読む