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日本語の教育には

2019-12-03 | 日本語教育史
日本語教育史をとらえると、日本語学習、日本語教師、そして日本語教科書などの教材として、教育学の教育方法にあわせて考えることになる。日本語教育が学校で行われるなら、その例には、宣教師たちの布教のための語学習得、コレジオの歴史をはじめ、大学での日本研究、日本学など、民間に目を向けてもその教育機関としてのものがある。あるいは、戦略とする言語習得となると、これは見えるもの、見えないものとなって、そのとらえ方は古来、困難がある。ロシアにわたった漂流民は方言を伝えてぺテルスブルグまで日本語を運び、さらにそれは、ヨーロッパに広がる日本学となる。戦時、米軍の語学将校としてみれば、近くは第2次大戦中にあって、日本語の速習が開発されて教授にも特徴を持つことになったものがある。現代の日本語教育は、近代に行ってきた国語教育の日本語ではない、外国語教育の日本語となって、第2言語の理論を取り入れるが、日本語とその文化で際立っての現象が出てきている。コミック、アニメなど話し言葉をさらにくだいているコスプレの日本語であるが、日本語のスピーチコンテストにアフレコ日本語なるものが現れている。 . . . 本文を読む

おさ

2019-10-13 | 日本語教育史
古代の言語接触を考えるに、おさ、通事、そして帰化のことがある。帰化という呼称を渡来とする議論もあるようであるが、帰化人となることに、言語のことが想定できる。>『日本書紀』の用法において、「帰化」「来帰」「投下」「化来」はいずれもオノヅカラモウク、マウクと読み、概念に違いはない  という解説がある。>「帰化」という語句の本来の意味は、「君主の徳に教化・感化されて、そのもとに服して従うこと」(後漢書童恢伝)  以上は、ウイキペディアより . . . 本文を読む

日本語教育 古代の学習

2019-10-04 | 日本語教育史
日本語学習を視点にした記述、それは外国語学習であったから、新羅語を母語とする記録がある。新羅、紀元前57年‐紀元後935年で話されていた言語。その報告は、次による。>古代日本での言語接触 nihongo.hum.tmu.ac.jp › ~long › longzemi › hosaka これら3つの記事の間には約60年と約20年間の差があり,この間を埋られる新羅と日本の言語接触に関する記事は見当らない.「習言者(ことならひひと)」「新羅学語」「学語」 の語はともに日本語学習者をさし,彼らが新羅から来日していることが上記の記事から ... . . . 本文を読む

講座日本語教育史 日本語教育史年表

2018-03-11 | 日本語教育史
日本語教育史年表を見る。日本語教育史の研究が負の歴史というべき時代を抱えるので、それを年表に事実として収載するか、議論になるところである。負の歴史とは戦争によって外地に国語を日本語として押し付けようとしたことを指す。国語教育として行われた朝鮮半島、大陸中国の満州国である。第2次大戦になってその功罪は敗戦の事実をもって植民地教育の日本語教育であったということとなり、歴史における負の遺産として日本語教育史から検討されないままに空白の時期としてあった。日本語教育大事典の出版によって、その年表が空白のままであることを知る。日本語教育事典1987年5月、日本語教育学会編による。その後、新版日本語教育事典2005年10月に装いを新たにしている。日本語教育史の研究はその負の歴史をどう克服するか、あるいは、その時代をもって前後日本語教育史の画期を求めて記述するか、難しい様相となる。さらにそのことは日本語教育史を通史とするには日本語教育の伝搬が国内でなく海外での歴史を持つこと必定であるため、日本語教育の歴史が地域とともにとらえられることになる。その作業はいわば、史観をもってして歴史を見るに、さまざまの問題を包摂することになる。したがって日本語教育史は日本国内、海外地域とその教育普及を見て記述することが望まれることである。日本語教育史年表にその事実を盛り込むことは至難であるが、日本語教育能力試験の検定に合わせた年表づくりが進められて、20年前にそのスタイルを持つ年表が出されている。解説と銘打つのでその年表記述には苦労が見える。と言って、手に入れてみたら、刊行された当時のままにフロッピーディスクが送られてきてファイルの読み込みがフォーマットか、PCのOSによって変換が必要であるということになって、しばらく歴史を紐解くのに機械の変換待ちとなる。 . . . 本文を読む

講座日本語教育史 前史

2018-03-01 | 日本語教育史
前史は、ある重要な歴史的事柄にかかわる、あるいは、ある歴史的事象の成因となった、それ以前の歴史というふうに、辞書義に見える。先史は、prehistory となり、文献で知られる以前の時代のことである。有史以前となれば、歴史の概念では記録された時代の以前となるが、文字記録であるかないか、戦死のとらえ方がある。日本語教育史前史は歴史時代に、日本語教育と記録する歴史を画期とした視点となる。日本語教育は17世紀の時代をとらえるのが一般であるから、前史はそれ以前と解釈できる。宣教師たちが日本語を学習した時代である。しかしそのとらえ方は日本語学習者を見ると、歴史はさらにさかのぼることになるし、日本語教師の立場になれば時代はずっと下がって、語学教育とともにある近代以降になる。そのふたつの考え方で、日本語教育史を統一するのは日本語の学習というとらえ方であるが、まずは、前史を見ることは有史以後の日本語という歴史を見ることである。歴史の視点と立場でそれぞれを踏まえる。前史は宣教師の日本語教育の成果を見る。 . . . 本文を読む

日本語教育史 前史日本語

2018-02-28 | 日本語教育史
外国語習得、言語学習にはきっかけがある。その地域で、その言語として身につけて育てば、母語あるいは国語である方言として、ことばがある。そこに母語でない、国語でない、他国の言語を学習するとなれば、どのようなきっかえがあるか。蛮族、蛮人という、夷狄とも称した、その言いは、言語を解しない人というとらえ方であったから、自他の言語の違いを地域によってまずは意識したことになる。そのように自分たちにわからない言語を学ぼうとしたかどうか、それはおそらく、逆で、ことばを押し付けようとすることから、文化衝突回避することがあったろう。しかしそこに、言語を異にして、さらに権力、腕力、暴力の差があると、それにともなって言語は学習の対象となることがある。言語学習は生じた地域に置けり民族と多民族の軋轢のためである。日本語教育、日本語学習、日本語教材と自覚的に行われる学修は、その目的によるところであるが、自覚されないまでも、言語意識の違いに、他国、他地域の言語を目標言語として、言語接触と文化摩擦を問題として解決を図ろうとする人々ん動機があった。それをとらえて、日本語教育史の前史に、留学僧、漂流民、そして通商の言語として見ることができる。 . . . 本文を読む

講義日本語教育史

2018-02-27 | 日本語教育史
日本語教育史を話す。日本語教育史の名は日本語、教育そして史と分けられるが、日本語教育の歴史として見る。日本語教育はいつから始まったか。日本語教育はどのように実践されてきたか。日本語教育は歴史としてどう考えるかを、地域と時代にとらえてみたい。日本語教育の立場、日本語教育史に視点を持つ。日本語教育を教育方法に求めれば、広く教育として、教師、学習者、教材と教具に分け、さらに、教育内容と言語教授法とに見ることができる。そのそれぞれに日本語教育史をとらえる立場で、とくに日本語教師となる立場で述べる。 . . . 本文を読む

日本語教育史再掲 

2016-10-18 | 日本語教育史
歴史となると記録である。歴史記述として歴史書がある。それは歴史物語としてもある。語られる歴史として記録し記述される歴史書と、人々の記憶にある歴史を語ることと、そのいずれが歴史であるか。日本語教育の歴史に、その記録を求めるとすると、その歴史研究としてのことがらがある。また歴史には時代をわけて時間的な経緯に述べていくものと、出来事の起こりを視点としてそのものごとの伸張また消長を述べる立場がある。 日本語教育の歴史を見ると、時代的な画期をもとにその流れをたどることができる。視点にはいくつかのとらえ方があるだろうが、日本語を外国語教育としたのは、やはり、留学生に行った教育の歴史である。わたしには1980年代の留学生について変化があったことをとらえている。その前に日本語教育の歴史にとらえられるのは、なにかを述べてみたい。 . . . 本文を読む

光大夫の記念館

2015-10-27 | 日本語教育史
鈴鹿の白子から出港して江戸へ向かった廻船問屋の船が遭難して沖へ流されカムチャッカからイルクーツク、ペテルブルグまで渡った廻船問屋の船頭、大黒屋光大夫、その記念館があるので特別展を訪ねた。>宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日(1828年5月28日))は、江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着。ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国した。 . . . 本文を読む

南洋諸島の日本語教育

2014-10-19 | 日本語教育史
南洋諸島の日本語教育といって、一方で、南洋群島の日本語教育といった説明と、このふたつの言い方には何か違いがあるかということになった。諸島と群島と、このそれぞれの語の意味には、使い分けがあるようである。地理上の島の命名においてそうであるように、発見者、占領者、当事者、そして政治的統治による由来などがあるようである。南洋諸島において、南洋群島として統治した日本での委任統治地域の捉え方があるので、日本語教育での日本群島となるとその時期を明確にさす。南洋諸島の委任統治地域の島々は1919年 - 1947年を、南洋群島ととくに呼ぶことがあることになる。ミクロネシアの島々、現在の北マリアナ諸島、パラオ、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦をさしている。西太平洋の赤道以北に位置し、東西5000キロ、南北2400キロの海域にある島々のこと、の総数はおよそ1400におよぶようである。1918年、人が住んでいるのは623の島であったと言われる。総面積は現在の東京都と同じ程度、この地域は19世紀の末からドイツの植民地支配が行われていたが、第1次大戦後に、日本の統治下になる。 . . . 本文を読む