読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

神招きを示す漢字

2008-10-18 16:34:41 | 漢字

「召」は神に告げる文を入れる容器の口と刀とから成る文字で刀に見える部分は人と言う文字の変形である。この「召」は「招」と言う文字の元の字で神霊を招く意を表している。この招きに応じて神が降臨する様子を示す文字が「各」である。口の部分はサイと言う神に告げる文を入れる容器、その上の夂の部分は上方から降りてくる足の形である。「降」の阝は神霊の降りてくる梯子を意味している。夅の部分は歩と言う文字が逆さになった形である。「客」と言う文字の宀は家族の祖廟などの建物を表し、従って「客」と言う漢字は神の降りて来る事を表す漢字である。「お客様は神様です。」と言う言葉の通りである。

日本の漢字改革

2008-10-17 10:40:43 | 漢字

漢字改革は実は中国より日本で先行していた。毛沢東は1940年に「新民主主義論」の中で漢字改革を指示していたが、日本ではその70年以上前の1866年慶応二年十二月に時の将軍徳川慶喜に、日本語を、漢字を廃止し、かなで表記すべきであると建議した人物がいた。
日本の近代的な郵便制度を創始し、「郵便」「切手」などの語を創案した前島密である。「漢字御廃止之議」と言う仮名国字論を提出したのである。

インゲン

2008-10-16 09:31:02 | 新聞

今、話題のインゲン豆は中央アメリカ原産の豆科の野菜で、日本へは江戸時代前期に中国から渡来した。繊維が多く含まれ、便秘に良いと言う。隠元(いんげん)という僧侶によって伝えられ、インゲン豆という名前で呼ばれるようになった。中国福建省の黄檗山萬福寺の住職だったが承応3年(1654)、63歳の時に. 弟子20人他を伴って来日した。この隠元禅師は他にお茶なども伝えている。尤もお茶が普及したのは江戸初期である。抹茶の形で上流階級に伝わったがそれまでは庶民は白湯を飲んでいた。

漢字改革を叫ぶ魯迅

2008-10-15 10:19:38 | 読書

岩波新書「漢字と中国人」大島正二著から
中国の近代文学者、魯迅も漢字が中国文化の発展を妨げていると考えていた一人である。
「漢字が滅びなければ、中国は必ず亡びる。」と。更に「この四角い字(漢字)の弊害を伴った遺産のお蔭で、我々の大多数の人々は、既に幾千年も文盲のまま殉難し・・・中略・・・ほかの国では既に人工雨さえ作っている時代に、我々はまだ雨乞いのため蛇を拝んだり、神迎えをしたりしている。我々がまだ生き続けたいなら、私は漢字に我々の犠牲になって貰う他は無いと思う。」と(漢字とラテン化)で。後に毛沢東も「新民主主義論」(1940)で「文字は必ず一定の条件のもとに改革されねばならない。」と主張した。

「説文解字」の文字

2008-10-14 09:50:07 | 漢字

説文解字に納められる文字数は九千三百五十三文字である。その内、形成文字、つまり義符(意味を表した部分)と音符(音を示している部分)で構成された文字がその80パーセント以上を占め、会意文字(二つの義符で構成される文字)が12パーセント強を占める。漢字の殆どは形成文字と会意文字の構成法で作られている事になる。この事は漢字が驚くべき造語力を持っている事を示している。日本人は、特にこの会意の方法で多くの日本製の漢字(国字と言う)を作った。「上る(のぼる)」と「下る(くだる)」と「山」を合わせた「峠」。辵(しんにょう、歩く事を示す記号)と交差道路を意味する十の会意で「辻」。その他、裃、畑、凩(こがらし)、躾、匂など、海に囲まれた日本では魚偏の国字が多い。鱈、鱩(はたはた、雷が鳴ると浅瀬に集まるそうである。)、鮗(このしろ、冬が旬だとか。)

「説文解字」の運命

2008-10-12 16:28:14 | 漢字

岩波新書「漢字と中国人」大島正二著から
今に伝わる「説文解字」は許慎の原本ではないそうだ。その原本はどう言う訳か失われ、現存のものは南唐の徐鍇(じょかい)の校訂した「説文解字繋伝」四十巻本(二十五巻は不明)とその兄の北宋の徐鉉らが校訂した「説文解字」十五巻本の二種類だと言う事だ。この校訂が行われた後、八百年もの間、この「説文解字」は忘れられた存在となった。これほど権威の有った書が再び蘇えったのは清朝になってからで、その時代の考証学者たちによって文字研究の対象になってからで有ったそうだ。許慎は、黄河南の地方誌である「河南志」によれば河南省郾城(えんじょう)県城東三十五里の地、召陵城下の墓に眠っていると言う。

「告」という漢字

2008-10-11 11:18:43 | 漢字

中国の紀元一世紀、後漢の許慎の「説文解字」は「告」と言う文字の成り立ちについて、牛が人に口をすりよせ、何かを訴えようとしているようすを形にしたものであると説いている。この文字の口の上の部分を牛の形と解しているがそうではなく。卜文では告の文字は牛に従う文字ではなく、牛のように見える部分は木の枝に書かれている。下の口の部分はものを食べる口ではなく、サイと言う祝辞を入れる入れ物である。つまり告と言う文字は神への祝辞、のりとを器に入れて木に掛けた形を示しているのである。「史」はその祝辞、のりとを入れた器を手に捧げている形、「使」はその入れ物を枝に付け外部へ人が持って行く形である。現在でも神社でお御籤などを木の枝に結びつける事があるが、その名残りではないかと思う。これは私見である。

王と言う漢字

2008-10-10 09:47:19 | 漢字

中国、殷の遺構を見ると殷の王が絶大なる権力を持っていた事が判る。権力が有っただけではなく神聖なもので有ったがその神聖性は必ずしも王が権力が有ったためではなかった。権力は神聖性のゆえに生じた。王の神聖性は王が神と人との仲介者で有った為である。従ってその神聖性が失われればその王は殺されたり、追放される事が有った。「フレーザー(金枝偏)」。ところで後漢の許慎の著した「説文解字」と言う字書に王と言う文字の字形の解釈について天、地、人を示す三本の横線を一本の縦の線が貫く事によって王を意味するものと解されているが、そうではなく、王の最初の甲骨文字の形は鉞(まさかり)の形になっている。(岩波新書 白川静著「漢字」18p図4)
三本の横に引かれた線の内、上二本は近接して書かれ、他の一本は離れて書かれているのである。「説文解字」の王についての解釈は間違いだが伝統的な王の観念を示していると言う点では間違っていない。説文解字を著した許慎時代には甲骨文字や金文の存在は知られていなかった為、「説文解字」のなかの文字字形の解釈について多く限界や間違いが有ると言われている。

釈名

2008-10-09 13:38:59 | 歴史

中国の後漢末から三国魏の頃、語源を探求する書が初めて著された。著者は劉熙、書名は「釈名」と言う。声訓と言う方法を取った。その物がその名になった理由を探求した方法で、例えばワンワンと鳴く動物を何故イヌと呼ぶかと言う命名の由来を求めたのである。
声訓とは、ある文字の意味を考えるときその文字と同音か似た音を持つ他の文字によってその文字の意味を解く方法である。「政、正也」(論語)、「人(じん)、仁也」(礼記)、「霜、喪也」(爾雅)など。この声訓の方法は戦国時代末期に起こり漢代になって広まった。「日」つまり太陽の事を「日(じつ)」と呼ぶのは、それが実だからであると説く「日、実也。光明盛実也。」(釈天)。「月、缺也。満則缺也。」(釈天)。月(げつ)は「缺(けつ)」だからそのように名が付けられたと説明されるのである。

甲骨文字と金文

2008-10-08 09:44:21 | 漢字

現在使われている漢字を遡ると今から三千数百年前、紀元前十四~十二世紀の中国殷墟(河南省安陽市小屯)から発見された甲骨文字になる。この文字は占辞とも言われるように政事を行う王が天候、祭祀、狩猟、大臣の任免にいたるあらゆる事柄を占い、その占いの内容を亀の甲羅や牛の肩甲骨に刻したものである。この文字は神の意思を問う王とそれを甲骨に刻む貞人(占いを仕事とする大臣)の独占するところであった。殷の後に登場した周では占朴で政治を行う事は無かった。周人の残した文字は青銅器に鋳込まれた金文と言うもである。金文の内容は青銅器などが恩賞として与えられたときのその功労を記したものが多かった。