牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

雷のような声が

2016-12-21 18:40:07 | Weblog
ヨハネの福音書12:27-33 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」
そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。
イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。
わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。
クリスマスの喜びが、世界中に輝くとき、イエス・キリストがなぜ生まれたのか、それは十字架上に死ぬためです。
その生涯に3度、天からの声がありました。
最初は、ヨルダン川での洗礼の時=マタイの福音書3:16-17 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
二度目=マタイの福音書17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

三度目が、一粒の麦が地に落ちて死ねが、豊かな実を結びますと語られた直後です。
十字架で死ぬ目的がハッキリと啓示されました。今がこの世の裁きの時です。この世を支配する者は追い出されるのです。
この世は、この世の君=悪魔・サタンに支配されて来ました。エデンの園でアダムを誘惑し堕罪させ、罪の支払う報酬は死であるように、人間であれば必ず死にます。100歳以上が6万人になっても、人は死にます。罪の報酬である裁きを受け、結果としての地獄行きです。
イエス・キリストの十字架の死によって、この世の支配者である悪魔は滅ぼされ。この世の裁きは終わりました。その十字架の救いをアーメンと信じることで、地獄への道は封鎖され。永遠の天国へ行くことができるのです。
へブル人への手紙2:141-15 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
クリスマスの喜びは、十字架によって、悪魔と言う死の力を持つ者が滅ぼされてしまったのです。
イエス・キリストをアーメンと信じる時、一生涯死の恐怖につながれて、奴隷になっていた人々は解放されるのです。例え、そこが臨終の床であっても、アーメンお祈りで死の恐怖は消え去り、永遠の天国への旅立ちです。
ではなぜ今もなお死を恐れ、悪魔におびえ問題があれば悪霊の仕業と恐れるのでしょうか。それは十字架の救いを完全にアーメンと信じないからです。悪魔の策略=最大のウソ=悪魔が滅ぼされたのに、この世の様々な不条理や危機などあることを現実に見ることで、惑わされているのです。それを売り物にしているキリスト教会もあるから困ったものです。悪魔や悪霊ばかり強調する、キリスト教会に近づかない方が賢明です。マタイの福音書23:15 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。
コリント人への第二の手紙4:1-6 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。
そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
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重荷を負う

2016-12-21 07:52:34 | Weblog
聖書の約束

ガラテヤ人への手紙6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。

自分の重荷だけでも背負い切れいないのに、どうして人の重荷までと思うかも知れません。しかし、人は独りだけでは生きていけません。

まず第一に、すべての重荷を十字架に引き受けて、平安を与えてくださるイエス・キリストの救いを体験できます。

第二に、自分で負う重荷もあります。最近はリュック姿を多く見かけます。若い女性もブランド物のバッグより、リュック姿が多く見受けます。

脳梗塞になってから、ショルダーバックをいつも下げています、リュックにしたらと言われるけれども、いつでもマンガや小冊子を手渡せるので便利です。前向きのバックがあるそうで、カバン屋で買おうと思っています。

第三に、互いの重荷を負い合うことです。ひとりで持てば大変でも、誰かに手伝ってもらうと、楽になることも多いのが人生です。

不思議ですが、自分のことより、他の人ことを考えるとうまくいくのが人生です。自分だけのために頑張れば一の力が出ます。

愛する人のために頑張るなら倍の力が出ます。家族のため、職場のため、交わりのために重荷を負い合うなら、幸せは限りなく広がります。

キリストの律法とは、愛によって働く信仰です。神を愛し、隣人を愛する十字架の愛のクリスマスです。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝してます。