牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

ミスターチャンスは前髪だけ

2016-12-10 18:12:41 | Weblog
伝道者の書9:11 私は再び、日の下を見たが、競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。
競争社会、生存競争の社会で抜きんで生き抜くには、厳しい人間社会です。競い合うことで切磋琢磨する、スポーツはまさに訓練鍛錬結果が金メダルとなる世界です。
運動をしない子供でした。種子島の田舎では木登りや、野山を駆け回ったり、虫取りやウナギ取り、小鳥=特に目白はどれだけ囀るかを競い合わせるのが自慢、山にヒヨドリとりの罠を仕掛けたりでした。
中学校は海岸の星原中学。海に潜ってエビやアワビ取り、沖の岩の上で魚釣りなど、どれだけ大きいかを自慢する学校。
それらのことをほとんどしない、する気もない子ども時代。かなりみんなから外れていたようです。
16歳の時から聖書を読み、この言葉に接したとき、本当にそうだとアーメンでした。
すべての人が時と機会に出会うからだ。機会には前髪しかないそうです。向こうから機会=チャンスがやってくる、アッと思っていると通り過ぎる。掴もうと思って手を伸ばすと、後ろ髪がないのでつかめなくチャンスを逃してしまう。
厳しい現実の中で、イエス・キリストをアーメン信じますと言う、これこそ最大のチャンスです。そこから人生が代わり、神を愛し、人を愛するすばらしい日々が始まります。日々を平安に守られ幸せに満たされます。ゴールデンルールを実行し、受けるよりも与える方が幸いな人生へと変わります。
2014年のクリスマス、きらびやかかなイルミネーションで束の間の輝きを楽しむのも素晴らしいが、馬小屋に生まれ、十字架の上にいのちを捨て、3日目の朝に復活された、世の光、真の光のイエス・キリストを、アーメンと受け入れ光り輝く日々を体験しましょう。
救いのチャンスは今あります。アーメン信じます。イエス様を心にお迎えします。アーメン。
ありがとうございます。今日もまた天国の聖なる一日です。感謝します。

いつまでもともに

2016-12-10 18:07:25 | Weblog
ヨハネの福音書6:63-69 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。――そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」
こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。
そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」
すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」
生駒聖書学院を卒業した年、あなたが教えるだよ。キリストの生涯をと、言われて驚いたが、クート院長のことばは真剣だった。卒業後の明確な進路も決まらない状態の時、嬉しかった。
それ以上に不安だった。教えたくてたまらない先輩もいた。院長になった今でも恨みに思われている。神の導きは不変であり、信仰の先達の判断は正しかった。へブル13:17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。
生駒聖書学院の働きは、今もなお祝福されて継続している。
キリスト伝を講義し、さらにその生涯に感動した。生涯が聖霊による処女懐胎から始まり、公の生涯のも教えも奇跡も、十字架の死と復活に至るまでのすべてが、聖霊に導かれている事実=それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。(使徒の働き10:38)
その中で、最もつらい経験は、多くの弟子たちが離れ去り、もはやともに歩かなかった時、
あなたがたも去ろうとするのか。このことばを語られる涙を見ました。そして、まさか、あなたがたも離れたいとおもうのではないでしょうか。その口には慰めといやし、愛と勇気の信仰のことばがいつも語られていたのに。
牧師になってから身に染みて、その意味が分かりました。教会から離れていく者がいる。幸いなことに、委ねられた教会から離れても、信仰をなくした者はほとんどなく、所属した教会で活躍する姿を思い、十字架と復活の救いに導き、聖書と聖霊の導きを確実の語ったことを喜んでいます。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。
イエス・キリストに躓くことなく、ただ跪き、愛し慕い続ける喜びです。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。

足を洗う

2016-12-10 07:38:17 | Weblog
聖書の約束
ヨハネの福音書13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
足を洗う=今までのでたらめな生活態度や悪事などをやめて、まともな職業につくこと。元々は一日の田の仕事が終わって、泥に汚れた足を洗うことから出たことば。身についた汚れをきれいさっぱりと洗い落とし、生まれ変わって出発する意味です。
13章はイエス・キリストの地上最後の晩餐の記録です。弟子たちを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された記事。
夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。それから、自分でたらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、腰にまとっておられた手ぬぐいで、丁寧に拭きました、
自分で足を洗いたいと思っても、どうにもならない場合もあります。十字架の上にいのちを捨ててくださったイエス・キリストによって新しい人になれます。だれでもアーメンと信じるなら、新しい人生が始まります。
古い泥=罪まみれの生き方が過ぎ去り、生まれ変わった新しい人生です。生駒聖書学院に行けば変われると言うジンクスがあります。それは、学院ではなく、イエス・キリストの十字架と復活の体験です。
聖霊に満たされ注がれて、御子イエスの血によって、日々現れ変えられ続ける恵みです。
足を引っ張り合う世知辛い世の中で、今度はお互いに足を洗い合う=許し受け入れ合う、愛と許しの日々を生きる恵みの人生です。
今日は、ヨハネの福音書13章を掲載しているので、全章をお読みくださり、新約の恵みを体験する週末を祈ります。明日の礼拝でも、新約の愛を実践しましょう。
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。
ありがとうございます。今日もまた愛のあふれる天国の一日です。感謝します。