牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

愛と救いを語る喜び

2015-12-22 21:50:18 | Weblog
イザヤ書6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
6:7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
預言者イザヤの召命の章です。聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主の前で、「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた民の間に住んでいる」と言う以外にない、イザヤの姿を思います。
しかし、イザヤの口に天からの火が触れ「見よ。これがあなたの口に触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」
そしてイザヤは、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞きます。彼は「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と召しに応え、それから60年にわたって、希望の預言者として声を上げ続けます。
何という前向きな姿でしょう。人々が聞いても聞かなくても、神のことばを宣言し続け、その生涯の終わりはのこぎりで引かれ(へブル11:37)たとのこと。
17歳のとき、生駒聖書学院を紹介され、牧師へと招かれました。それこそ絶対的に不可能でした。何しろ口が重く、ハイかイイエは言えてもほとんど物を言わない、歌も歌ったこともなく、運動も一切しない少年時代でした。
イエス・キリストの救いアーメンと信じてクリスチャンになったあとも、体験を語ることもなく、クリスチャンかと聞かれるとハイと答えるだけ。
生駒聖書学院神学生時代も3年間説教も証さえもしないくらい無口でした。卒業式の決意表明をやっと終えるような状態でした。
しかし、何であろうと神に選ばれ召されたことは事実で、人が何と思い言おうとも、ここに私がおります。私をお遣わしくださいの思いはあります。
開拓伝道を開始し、ABCラジオ放送牧師を40年以上、テレフォンメッセージは43年も毎日続けています。
十字架の血汐に罪は贖われ、不義も咎も取り去られ、聖霊の火が口にも触れ、救いを語ればアーメン信じますという出会いに感激の日々です。
どのように話そうかと心配するには及びません。話すべき時には、話すべきことを教えられ、聖霊に満たされて語ることができると、イエス様が保証してくださいます。
いつも心からの願いと祈りは、アーメンと言えば救われると、日本全国の町々村々島々に至るまで、十字架の救いがあふれることです。
ありがとうございます。今日もまた天国の聖なる一日です。感謝します。



最後まで徹底的に愛されて

2015-12-22 05:19:16 | Weblog
聖書の一言;ヨハネの福音書13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
極みまで=最後まで徹底的に愛し通された極みまでの愛です。神の愛の本質は、その宣言は、あなたはわたしの目に高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ書43:4)
その愛の極みが、イエス・キリストの十字架上に、豊かに現されました。クリスマスはその愛が現実なり、神がその独り子をお与えになった時なのです。
そして、十字架に犠牲となる前の夜、その愛を徹底的に示されました。弟子たちの足を洗い、
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。と模範を示しました。その十字架の愛に、日々愛され、足を洗っていただきながら=御子イエスの血で、すべての罪からきよめられ、赦されながらの日々です。
13:34-35あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。
新約=新しい契約とはのことです。あなたがたは互いに愛し合いなさい。アーメン。
ありがとうございます。今日もまた互いに愛し合う天国の一日です。感謝します。ハレルヤ。