牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

鼻持ちならない悪がはびこっている

2015-12-06 22:30:50 | Weblog
伝道者の書6章をリビングバイブル訳で。
所で、至る所に、鼻もちならない悪がはびこっています。ある人は、神様から巨万の富と名誉をいただき、欲しい物は何でも手に入る身分でありながら、人生を楽しむだけの健康に恵まれていません。そのため早死にして、全財産を他人の手に渡してしまいます。これは実に悪質な冗談で、やりきれない思いがします。
一方では、百人の息子と娘に恵まれ、長寿を全うしながら、わずかばかりの遺産もなく、子供たちは満足な葬式さえ出せないことがあります。この人は生まれて来なかったほうがましです。誕生が喜ばれず、闇から闇に葬られ、名前さえ付けてもらえず、陽の目も見ず、その存在さえ知られないとしても、みじめな老人になるよりずっとましです。何千年生きたとしても、満足することがなければ、生きていることに何の価値があるのでしょう。
りこうな人もばか者も、食べ物を得るために人生を費やしますが、もうこれで十分だということがありません。そういう意味ではどちらも同じです。しかし、貧しくてもりこうな人は、ずっとましな生活をしています。手の中の一羽の鳥は、藪の中の二羽より価値があります。
あこがれていることを夢見ているだけでは、ばかばかしいことで、風をつかまえるようなものです。
あらゆるものには定まった運命があります。それぞれの将来は、ずっと以前からわかっています。だから、自分の運命について神と議論してもむだです。しゃべればしゃべるだけ、口にすることば意味が薄れてきます。だから、全然しゃべらないほうがましです。
空しい人生のわずかの歳月だと言うのに、どうしたら最高の生き方ができるのかわかりません。死んだ先まで考えると、何が最善かを言い当てることはできません。将来の見通しのつく人は、一人もいないからです。

伝道者の書は300年前に書かれた聖書です。空の空なるかなと書き出されているように、神から離れた人生のむなしさを、徹頭徹尾教えています。
イエス・キリストの十字架と復活の救いがなかったら、地上でどんなに贅沢三昧快楽を楽しんでも、心のどん底からの喜びも平安もないまま、永遠の滅びへ向かいます。
しかし、アーメンと救いを信じるだけで、天国行きの予約ができ、毎日を何があろうとなかろうと満足して不平不満サヨウナラ。すべてのことに感謝しながら生きる幸いです。今朝から、アーメン信じます。ありがとうございます。今日もまた天国の聖なる一日です。感謝します。

なおりたいのか。床を取り上げて歩け

2015-12-06 07:51:08 | Weblog
聖書の一言;ヨハネの福音書5:2-9 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
聖地旅行に行くと、ベテスダの池も見学できます。イエス様に、良くなりたいかと聞かれ、38年間伏せっていたこの男は、だれも助けてくれる人がいません。と答えました。
天は自ら助くる者を助く=ベンジャミン・フランクリンとあります。タバコがどうしてもやめられない青年がいて、礼拝に来るたびに、タバコが止められるよう祈って欲しいと求め祈りました。何回祈っても止められないと言うので、タバコを吸わないという気持ちがあるのと言ったら、ありませんとの答え。禁煙の意志もなく、残念なことにタバコを容認する場へ言ってしましました。
イエス様は、よくなりたいかといつも優しく語りかけてくれます。その時、本音でアーメン。ほんとに直りたいです。と素直に現実がどうであれ、おことばに信頼し、素直になる人は幸いです。
起きて床を取り上げて歩きなさい。38年間伏せっていた男は、すぐに直って、床を取り上げて歩き出しました。どんな状態であれ、アーメンと信じる時、新しいことが始まります。寝たままであっても、身の不遇を嘆いたり、自分にはそんな信仰はないと、自分を攻めたりせず、信仰、希望、愛の祈りで、ありがとうございます。不平不満よ、サヨウナラ。
神学生時代、サナトリウムで20年間寝たっきりの婦人を見舞いました。どういう声をかけ、どう同祈ればと思いながら訪れると、ベッドには天使がいました。40代の女性でしたが、美しく輝く笑顔があり、そのベッドで祈ってくれました。大きな励ましと勇気をもらって帰る見舞いでした。
1999年11月、左脳内出血、2012年7月、右脳内出血、同年10月、小脳内梗塞。2014年5月、愛妻が召され、杖で歩いている現役牧師です。今日も午前10時、生駒聖書学院教会礼拝説教。午後2時、大阪通天閣新世界のエリムキリスト教会礼拝説教です。
よくなりたいかとの、イエス・キリストのことばを、アーメン。信じます、直りましたと受け止めて、起き上がり歩き続けています。一足あるくごとに、新しい力が与えられ、きょういくときょうようにあふれています。きょういく=今日行く。きょうよう=今日用がある。笑顔も輝き、細胞も活性化しています。クリスマスの喜びと平和を、世界中にと願い祈る12月です。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。