牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

種子島とフランシスコ。ザビエル

2013-02-17 06:53:18 | Weblog

昨日は朝から種子島のことばかりのような一日でした。
最初にフランシスコザビエルが種子島に一週間立ち寄ったことの動画のしらせ。ぜひご覧ください。
http://genjin3.web.fc2.com/details1004.html

種子島にザビエルが滞在した事は、フロイスの文書の歴史に書かれています。

種子島との電話で、ザビエルが、鹿児島に上陸する前に種子島に立ち寄ったと言う伝聞(歴史文書は悪、カトリック教会は否定)があります。

言われているのは、ザビエルを日本に案内したサツマの弥次郎は殺人者で逃亡犯でした。

鹿児島に直接入国すれば姿を変えていても捕縛されるかもと考え、種子島にザビエルとともに一度上陸したと考えられます。

鉄砲伝来のとき領主の種子島時堯は16歳でし。彼は異国船漂着の報せを受けると、早速「異国人に会ってみたいと思い、鉄砲を購入しました。

 1549(天文17年)43才 :8月15日鹿児島に着く。  9月14日 伊集院で領主島津貴久に会い、宣教の許可を得、すごい勢いで宣教を続け、彼が日本を去るときには3000人もの新とになっていました。

中国宣教の夢をかなえるため、1551(天文20年)45才 で日本を去ります。その途中、種子島の西之表に立ち寄り、領主種子島時堯(ときたか)に挨拶し、当時の赤尾木の港にある慈恩寺宿坊(現在の八坂神社跡)に一週間滞在しました。

「種子島赤尾木(西之表港)は、遣唐使船の食料、燃料、休養のための寄港地として賑わっていた。

ポルトガル船が漂着したのが1553年で、」ビエルが種子島へ寄港市たのがそれからすぐの1554年で、そのとき鉄砲を持っていたポルトガル人もいっしょだったようです。

若い領主は、商人とは違う気高いザビエルの姿に触れて、イエス・キリストを心に受け入れたとも言われています。

船の都合でわずか一週間のザビエル滞在を残念がったようです。(この辺りは歴史文書がなく伝聞です)
 
ザビエルと会ったキリシタン大名には、、高山右近、大友義鎮、大村純忠、有馬晴信、小西行長、黒田孝高、蒲生氏郷、筒井定次などもあり、17歳の種子島時堯も大きな感化を受けたのでないかと思います。

私がクリスチャンになったのも、種子島で16歳のときに出会ったアメリカ人宣教師とであったからで、昨日は500年を越えての歴史ロマンを感じました。

種子島手作り黒砂糖、何と生まれ育った生姜山から野菜10種類が届きました。また、ここはなかわり生姜山と言うパンフレットもたくさん届き、鴻之峰小学校(100年目)も紹介されており、懐かしさでイパイでした。

また熊本からの電話で、片道9キロも歩いて通った星原中学校が今では障害者支援センターになり、そこで7月に九州ラーメン党のラーメンボランティアを行う予定との知らせで、今年の種子島行きがさらに楽しみになり、しっかり体調管理をしようと、雪のちらつく生駒でしたが5000歩ほど歩きました。

メールや電話で種子島が近くなり、楽しい土曜日でした。ぜひ種子島の様子を時間があればご覧ください。

生れ育った種子島の山の中、生姜山(鴻之峰小学校は来年創立100年)は、日本一の生姜生産に適した土地だそうです。「温もりある地域社会づくり」というテレビ映像が送られてきました。。
なかわり生姜山農園の活動についての映像です。映画「馬毛島クロス」に次いでのお願いです。そんな田舎で生まれ育ち、生駒に来て現在に至っています。今年は体調を整えて種子島に行きたいと願っています。
安納イモ、黒砂糖作り、生姜山の生姜作りが紹介映像です。
また、片道9キロを3年間休みなく通った星原中学校は閉校になり、今はNPO法人「こすも」が、傷害者100名余の支援センター(NPO法人こすも)に用いられています。ご覧いただければ幸いです。
http://www.youtube.com/watch?v=SS_XD7DAm1c
詩篇

91:14 彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。

91:15 彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。

91:16 わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。