狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

三月十日

2010-03-10 15:41:58 | 怒ブログ
          

朝日新聞「声」欄〝語りつぐ戦争〟トップに、
「東京大空襲 無表情の人、遺体の山」の見出しの投稿が載った。 無職 富田てる子 (東京都葛飾区 82歳)の方からである。
 投稿者は、単純計算すれはボクより一つが二つ年上の方である。 当時ボクは田舎に住んでいて、三月一〇日東京大空襲の現状は直接分からないけれど、このわずか3ヶ月後の6月10日、わが村もB29の絨毯爆撃に遇って、空襲の惨状を具に体験しているので、このリアルな光景は手にとるように分かる。
 爆撃の跡は道路、田圃、住宅地を問わず、大きな爆弾の穴と爆弾炸裂時の大量の赤土が盛り上がり、破壊と瓦礫の廃墟の巷と化した。火災も起きた。死傷者の数は300以上に達した。理性も感性もなかった。
 爆撃の目標は、わが村から、隣村にかけて連なる海軍軍事施設・大型飛行艇格納庫、海軍練習航空隊であったのだが、当日は厚い雲に覆われた天候で、もちろんその頃も米軍機にはレーダーなどもあったのだろうと想像できるが、間違いなく雲上からの攻撃は盲爆であった。

 投書は次のようなものである。
  
1945年3月10日、18歳の私は弟2人と東京。向島の親類宅にいた。灯火管制の、真っ暗な2階窓から見た隅田川対岸の浅草は既に真っ赤。ひどく恐ろしくなり、弟と手をつなぎ東の葛飾方面に逃げることにした。
 隅田川では、逃げ場を失い飛び込んで溺れた人が、水面を覆うように流れていた。煤けた顔で無表情に、ただ人の流れに沿い歩く被災者たち。背負ったわが子が既に焼死しているのも気付かず、あてもなく歩く女性も目にした。
家はすぐに全焼し、見渡す限り焼け野原。家が焼けると何も感じなくなるのか、焼夷弾が雨のように落ちる中をただ歩いた。死体は道に幾重にも重なっていた。
6歳の頃、両親を失い、兄は招集で戦地に赴いていた。疎開先もない私たちは都内の親類の家をさまよい続けた。
 兄は数年後、シベリア抑留後に帰ってきたが、私も兄も互いの苦労を言わぬまま時は過ぎた。兄は昨年旅立った。


3月10日は今では東京大空襲の代名詞のようなものだ。(65年経って若い人たちには知らない人が多い)当時は報道管制もあって、われわれにはその実象は何ひとつ知らされていなかった。むしろ5月25日の東京だか横浜だかの大空襲では、100キロ以上離れているわが家からも、赤く燃えている空が遠望されたし、翌朝は燃えた紙くずが無数に飛来した。凄い被害があっただろうことを実感した。
新聞発表は2日遅れた5月27日である。
[大本営発表](昭和20年5月26日16時30分)
南方基地の敵B29約250機は昨5月25日22時30分頃より約2時間半に亘り主として帝都市街地に対し焼夷弾による無差別爆撃を実施せり。
右により宮城内表宮殿その他並びに大宮御所炎上せり。
都内各所にも相当の被害を生じ火災は本払暁までには鎮火せり。
我制空部隊の邀撃戦果中判明せるもの撃墜47機の外相当機数に損害を与えたり。
(朝日新聞でみる世相50年 朝日新聞社1972年より)

見出し写真は、[核密約歴代首相ら黙認]外務省極秘メモ公開ー
今朝の朝日新聞第一面である。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
メール3通送りました。 (本郷住人)
2010-03-16 12:41:09
裡便乱亭様今日は
毎日多忙なご活躍お疲れ様です。
ところで、メールを3通送りました。
ニフティ1通(返信)
Yahoo2通(同文)
本メールは、Google日本語入力で行いました。
とても快適に入力可能で、しかも無料です。
それでは、御健勝をお祈り致します。
返信する
Google日本語入力への辞書登録方法 (本郷住人)
2010-03-17 20:26:39
狸便乱亭様今晩は
毎日、郷土史編集お疲れ様です。
今、Google日本語入力への辞書登録方法をメールで送りましたので、参考してください。
2010_03_17 20:17
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