狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

原爆忌

2010-08-06 21:57:38 | 日録

原爆忌 げんばくき 広島忌 長崎忌
昭和20年8月6日。広島市に世界最初の原子爆弾が落とされた日である。人命の喪失約12万。つづいて同月9日長崎市にも投下された。この未曾有の惨事をふたたび地球上にもたらさないため、この日を記念日として、広島市を中心に全国的に、平和祈願、原爆反対の催しがもたれる。(合本俳句歳時記新版 角川書店)

最後の戦災犠牲者慰霊祭

2010-08-04 05:25:26 | 反戦基地

1945年の水戸空襲で犠牲になった人たちを慰霊する水戸戦災犠牲者慰霊祭が1日、
水戸市城南2丁目の駅南平和公園であった。81年に始まった慰霊祭は、遺族の高齢化などのため、30回目となった今年で終了する。
 昨年解散した「水戸市平和記念館を創る会」の元会員たちと、「水戸戦災犠牲者遺族会」が主催し、約50人が参加した。遺族会の小林八重会長(97)は「父、姉の夫を失い、幼い子ども3人を抱え、厳しい生活の日々だった。慰霊祭はこれが最後となるが、(今後も)平和記念館にお立ち寄りいただきたい」とあいさつ。加藤皓一水戸市長も「水戸市民が戦争の悲惨さ、恐ろしさを忘れることなく、恒久平和が続くよう、いっそう努力をしていきたい。みなさんの心は永遠に引き継がれる」と話した。(8月2日付朝日新聞地方版)

官製慰霊追悼式

2010-06-30 07:19:01 | 反戦基地

1945年6月10日わが町は米空軍の爆撃によって甚大な被害を受けた。この爆撃による死者の数は371名(町史による)とされているが、その資料は、思い出によるものも多く、客観性や正確さには難点があるとする著作もあるなど混乱していたことは想像に難くない。
いずれそのような悲惨な事実があったにもかかわらず、これまでこの日の慰霊祭を行った記録は全くないと言ってよい。
以下の追悼式典は、この日の犠牲者の慰霊祭とは次元の異なった町の行事である。

■【町戦没者追悼式】開催(町広報誌『お知らせ』)
 先の大戦において戦没された幾多の町関係者の霊に対し、町民をあげて追悼の誠を捧げ、平和への決意を新たにするため、標記追悼式を下記のとおり行います。
 なお、当日式に参加される人は、略礼服または略礼服に準じた服装にてお越し下さい。

 期 日 ×月×日(火)
 時 間 午前10時30分~11時45分(受付:午前9時30分から)
 場 所 町民体育館
 問い合わせ  社会福祉課社会福祉係  電話

     平成××年度 戦没者追悼式参列予定者
 【参加者】
  参列者  
  来賓
     県知事、国会議員、県議会議員、町議会議員、町内大学学長
     町内自衛隊各処長他、県当該地方総合事務所長、県聾学校長
在町私立高等学校長、県自動車学校××校長、町内小中学校長
     町消防団長、町農業委員会会長、町教育委員会委員長、町内郵便局長
     町障害者福祉協議会会長、町遺族会会長他役員、町軍恩支部長、恩欠連支部長
     傷痍軍人会協議会会長、民生委員児童委員協議会会長、保護司協議会会長
     更正保護女性の会会長、青少年相談員連絡協議会会長、区長会会長、
     町ライオンズクラブ会長、町ロータリークラブ会長、交通安全協会地区支部長
     T医大地域病院長、防犯連絡協議会会長、町老人クラブ連合会会長、
     JA××代表理事理事長、地区交番所長、町企業連合会会長、
     県遺族連合会地区支部長、県町村会会長、地域法人会地区会長、
     交通安全母の会会長、全抑協県連地域支部長
     一般
     区長、民政委員、単位老人クラブ会長、町企業連絡協議会会員、
     社会福祉協議会理事・監事、更正保護婦人会役員、保護司協議会会員
     町シルバーセンター人材センター時務局長
     遺族他
 町関係 町三役      3名
     社会福祉課    12名
     児童福祉課    5名
 交通指導隊        8名
 日赤ボランティア     4名
     計      約500名 

【参 考】 戦没者追悼式次第
                日 時  平成××年×月×日(火)
                     午前10時30分から
                場 所  町民体育館
 趣 旨
   先の大戦において尊い犠牲となられた本町関係の戦没者等の御霊に対し、敬虔な追悼  の誠を捧げるとともに、ご遺族のご苦労に対し深い敬意を表し、町民あげて平和を祈念  し、町勢発展への決意をいっそう新たにしようとするものであります。
 式次第
   着     席  (奏楽)
   開 会 の 辞    町副町長        (午前10時30分)
   国 歌 斉 唱  (奏楽)
   黙とう(1分間)
   式     辞   町長
   追 悼 の 辞   町議会議長  県知事 町遺族会会長 県遺族連合会会長
             県選出国会議員  県議会議員
   献     花   (奏楽)
             町長 町議会議長 県知事 
             来賓
             遺族 旧軍人軍属 一般
   閉 式 の 辞   町教育長          (午前11時45分)


沖縄慰霊の日

2010-06-23 20:57:06 | 反戦基地


週刊朝日創刊50周年記念
朝日新聞でみる世相50年(朝日新聞社1972)

 1945年6月10日空襲による爆撃を身をもって体験した。しかし、何分65年もムカシの記憶であり、記憶違いや、明らかな誤りもないとは言えない。赦されよ。

町史には、次の様な記述がある。

「昭和20年6月10日、B29、250キロ爆弾投下による被爆状況。
T海軍航空隊即ち予科練は、7、8割の施設が灰じんとなり、281名の尊き少年航空兵を失った。その他負傷者115名(病院収容後26名死亡)。当日は日曜日であったので、多くの父兄が遠方から予科練の子弟に面会に来ていたが、そのうち面会人の方の死亡13名、A地区台地の奥行300メートルほどの防空壕の入り口付近に爆弾が投下され壕がつぶれ、中に避難していた少年兵が右のような結果となったのである。
B29 250キロ爆弾及び焼夷弾投下による各被害状況。
○A地区
  死者       13名
  負傷者      多数
  焼失家屋     集会所ほか15戸
             付属家屋物置納屋約30棟
○T地区
  直撃死亡    10名
  直撃家屋     6棟
  負傷者      10数名
  大破焼失家屋  15棟
○A地区、T地区の爆弾穴跡200箇所以上に及ぶ
○H地区
  死者        5名(内直撃弾にて家族4名死亡)
 旧F村
 S地区 
  死者        16名
  負傷者     約15名
  直撃全焼家屋   4棟
  家屋半壊     60棟以上
  F小学校は、直撃弾を受けたるも、日曜日のため学童不在、不幸中の幸であった。爆弾投下穴跡60箇所以上に及び、K湖に相当数落ちたらしい。
○T地区(F村)
  死者        7名
  負傷者      10数名
  全焼全壊家屋  10数棟
  殆どの家が大破した。
  爆弾穴跡      96箇所
 
K地区の第2海軍集会所は爆撃で火の海となり灰じんに帰した。不思議にもS町(予科練正面繁華街)だけは爆撃を免れた。
371名の人命を失った6月10日は正に悲劇の1日であった。」

ボクは正直云って「沖縄慰霊の日」を全く忘れていた。朝日新聞コラム「天声人語」で、ゴルフの宮里藍さん(25)が米国ツアーで今季4勝目をあげ、世界ランクの首位に立った快挙を取り上げ、

 
▼世界一を育んだ「日本の亜熱帯」は観光資源でもある。米軍基地がなければ、大自然とリゾートの楽園だろう。そんな夢想を許さない、がんじがらめの現実の下で沖縄は「慰霊の日」を迎えた。本土防衛の捨て石が、20万の命と共に捨てられた日である▼65年を経て、島はなお爆音と硝煙の中にある。基地負担をどう軽くするかの算段は、日米合意で振り出しに戻った。沖縄言葉(うちなーぐち)で通じ合えるほどの関係を首相が築かない限り、普天間は動くまい。国政の関心は参院選に移り、昨日の党首討論も基地を掘り下げなかった▼沖縄タイムス紙上で、宮古島の詩人市原千佳子さんが嘆いていた。「日米共同声明は沖縄(日本)が今なお米占領下にあることを示した……我々の戦後はしつこい」と。米国とのしつこい交渉だけが、霊を慰める道である。 

と記したのを読んで、「あ、今日は沖縄慰霊の日」を知ったのである。
 
沖縄戦から比べれば、わが村の爆撃の惨状などはその比ではあるまい。しかし、あの日(1945年6月10日)あのときの状況は町民として後世に伝えなくてはなるまいと思った。

残念ながら、今では町民も殆どこの日のあったことを忘れ去っている。「慰霊祭」と云えば過去の記録を捜して見ると、10月末町主催の「戦没者追悼式」が行われた記録がある。

謹啓
仲秋の候、ますますご清祥のこととお慶び申しあげます。
さて、先の大戦において戦没された幾多の町関係者の霊に対し、町民あげて追悼の誠を捧げ、平和への決意を新たにするため、町戦没者追悼式下記により挙行いたします。
 つきましては、ご多用中のところ誠に恐縮に存じますが、ご臨席賜りますようご案内申し上げます。                                                                                                                                              謹言
                      記
日時     平成 年月日 午前10時30分(9時30分受付開始・11時45分式典終了)
会場     町体育館
※準備の都合上 月 日までに、返信容葉書に出席の有無をご記入の上返送くださるようお願い申し上げます。
   平成 年 月 
                            町長 氏 名
尚、当日ご参列の際に、お手数ですが本紙をご持参下さるようお願い致します。
又、当日の服装は略礼服または略礼服に準じた服装にてお越し下さい


やっと席に収まったお客さん

2010-06-16 20:21:27 | 日録

 この漱石全集は、全く招かざるお客さんであった
正月次男が小生の部屋に持ち込んできて、そのままにしておいた。置き場がなかったからである。しかし、いつまでもべた置きで放っておいてはいけない呵責に苛まれてきた。
今日、やっと書架から雑本を持ちだし、席を漱石先生に譲った。
下段には、あまり漱石の作品を評価したくなさそうなD・キーンの著作を並べたが、特に他意はない。

但し三島由紀夫全集(新潮社1,000部限定版)や、鴎外全集(岩波書店37巻)とは別室とした。 


六月十日

2010-06-10 21:42:17 | 日録


「6月10日魔の90分」:屋口正一より(昭和25年8月9日撮影)

ボクはこれまで、六月十日という日に特別の想いを抱いてきた。弊ブログバックナンバーを検索してみたら、やはり同じタイトルで「六月十日」に関連するものが複数をかぞえることができる。
1945(昭和20)年6月10日午前、村は米空軍B29の約1時間、2波に亘る爆撃で、平穏だった村が一転して「屍の街」と化してしまったのである。
当時の報道機関は、(新聞とラジオ放送しかない)軍のきびしい管制下にあったのだろう、空襲の惨事は一般には伝わらなかった。
町史や、町教育委員会編纂による「町と予科練」、同好会文集などにも、この日の惨状体験の思い出話が何編も載せられているが、
当日は、「雲一つない快晴の日」であったり、「曇天」 であったりする。
また敵機についても、グラマンF6Fと、P51を艦載機として混同したり、カーチスP51と書いている例もあり、必ずしも正確でない。(ボクの記憶が確証とは言えないが…)。
 半世以上経って、しかも高齢者の記憶であるからある程度ヤムを得ないことであろう。

 平成7年8月15日、T中学校・T高等女学校 動員学徒の集い実行委員会の手によって編まれた文集「戦いのなかの青春」誌が手元にある。その中に、当時高等女学校4年生だったU.M子さんの『勤労動員学徒の日記抄』が載っている。
 ちょうどボクとだいたい同じ世代であり、書かれてある環境もほぼ同じである。あの頃あこがれの的であった高女生の考え方が伺われ、ボクも青春に返ったような錯覚で一気に読んでしまった。

昭和20年3月卒業した私達は、4月2日(月曜日)から「国思隊」という名前で養成所へ行く事になり、皆で不平をいうとH中尉より怒られて全員森の中で
重大ないまの戦局をこんこんと聞かされて、泣きながらあきらめる。
今日から挙手の礼を練習して敬礼をさせられる事になった。
午後土運びをして疲れた。
(今思うと、女学校卒業したのに殆どのクラスメイトが動員されていたことが不思議に思われ当時の当時の身分はどうなっていたのでしょう)

昭和20年4月3日
山の上で木の株切りをした。ノコギリでギイコギイコひいてなかなか切れない。暑くて汗まみれなのに、欠席者が多いとH中尉に叱られる。
4月4日
雨で外仕事が出来ず、ヤスリかけをする。半分以上欠席で欠席者の家へ電話をかけろといわれ、Aさんと二人で庁舎へ行ってかけたが、記録なのでなかなか出なくて1人40分も待たされてしまい、H中尉に「明日友人の家を家庭訪問して連れて来い』と言われた。出ている人が怒られて悲しい。
4月6日
今日は溝掘り、廠長巡視が1時にあるというので、雨でも作業を休めず皆ずぶ濡れになってしまった。H中尉が後で焚き火をしてあたらせてくれた。
4月7日
今日も土建作業をしていたら10時空襲になり待避をしたが、この近くに壕がなく、山の中をウロウロしていた。午後材木運びをした。
4月15日
廠長訓示の後、第二工場からトタン運び。H学生(技術委託学生)が2度づつ運んだので「もうよいから帰れ」と言ってくれたのに、H中尉が「終わるまでやめてはダメだ」と6時迄やらされて腕が抜けそうだった。帰り真っ暗い夜道をお腹が空いてOさんの雑嚢に入っていた生のスルメを2枚もムシャムシャ食べながら歩いた。空にはOH中尉のアゴのような月が出ていた。「ガダルカナル戦詩集」を読んで寝る。
4月18日
小松(場所の名前)のところで材木運びをした。仕事は辛いがお国の為だ。お昼は道路脇の草の上で食べた。朝、母が作ってくれた蒸しパンを3人で分けて食べながら、映画「勝利の日まで」「跡に続くを信ず」の感想を話し合った。沖縄の戦局もだんだん不利になり、父母達はこの戦争は負けるかも知れないと心配しているが、私は必勝の信念を持って毎日をがんばっている。
5月23日
朝大雨でカッパ着て自転車で行くが、向かい風で雨が頭にかかって目が見えなくて困った。これが勝利への道と思うと、困難がむしろ楽しく感じられる。
5月29日
午前中空襲でB29が500機も来た。お昼頃空が真っ黒になった。横浜が燃えているらしい。その中、火の粉が、炭みたいのまで飛んできた。恐ろしい。
6月10日
朝6時空襲、近くの航空隊に爆弾が投下され、大きな響き、B29が次から次へ飛んでくる。10時解除になってもT駅の近くに憲兵が立っていて先に行かせてくれない。予科練に面会に来た家族もたくさん足止めされてお気の毒でした。
6月17日
若草工場でタイム取りをした、Aさんがグミを持ってきて。H学生に皆で甘いと嘘をいってすすめたので、本気で食べて怒った。串柿の配給あり。4円。


前哨戦

2010-06-01 14:06:07 | 日録

 選挙の前哨戦の幕は、普段はさる宗教団体の推薦する政党の候補予定者のポスターから、切って落とされる。

参院戦ともなると、1つは都道府県単位の選挙区選挙で、個人に投票する選挙であり、242名の参議院議員のうち、146名が選挙区選挙で選ばれるそうな。

もう1つが比例代表選挙で、政党に所属していないと立候補できないらしいが、有権者は政党名で投票するか、立候補した人の名前で投票するか、自由に選択することができるという。

いざ選挙選になって、県内に氾濫する立て看板のうち、県内まんべんなく行き渡るには、後援会が強力な宗教団体の組織力であり、この政党の支持者はすさまじい底力を発揮することは言うまでもない。

弱小だと、ポスターの数も当然少なくなる。

 そこへいくと、今回の選挙前哨戦の異変!今朝 隣村の友人の処に用件あり、出向いたら、
途中1キロの道中、このポスターが8件(枚)!も立っているではないか。
カメラに収めるのに車から降りて覗いたら、その宗教とは全く関係のない、かつて政権与党だったJ党から、一等先飛び出した猛者氏の創った政党の時局演説会のポスターだったのである。主催した隣市支部名が記されていた。

誰、それ?!何党!?
それば読者諸兄の賢明なご想像にお任せしたい。そんでわ。 


平和の大切さ

2010-05-23 11:44:55 | 反戦基地

     
予科練平和記念館案内チラシより

 主題を「平和の大切さ」と書き込んだだけで、何かきな臭い思いが先行してしまって本文の書き込みが全く先に進まなかった。

<当時の少年たちの憧れであり、予科練の代名詞といわれた制服 の「七つボタン」七つのテーマと空間とで構成された展示からは今と変わらぬ少年たちの青春群像に触れることができます。
そして尊い命と平和への認識をふかめることができます。>

 この写真とともに、記念館開館案内チラシの中に書かれた解説である。
なんと、A4判1枚のチラシの中に、「命の尊さと平和の大切さ」という詞が3カ所に繰り返し述べられているのである。そればかりではない、町のH.Pをみても、新聞や町の広報誌にも、町長談話にも必ずこの「命の尊さ、平和の大切さ」が空念仏のように頻出する。

 だが、その詞とは裏腹に、記念館内で気になったのは、少年らへの当時の美辞麗句、時として本質を覆い隠す美しい言葉が多いことだ。

 まず玄関に入ると、正面大きなガラス窓に次のような言葉が刷りこまれてある。

< 予科練の少年たちは特別な少年ではなかった。
 普通の少年で、強いて違っているところといえば、大空を愛し、
 格別に飛行機が好きだったという位であったろうか。
 彼らはあまりに純真であり、それ故には情にもろく
 血と涙が多すぎる、そんな性格の少年が多かった。
 そのような少年達が、困難に対して献身した、燃えた、
 そして八割が戦死した。
               倉町秋次という署名。
 そして、その入り口のガラスを通して大きな写真が目に入るのは、昭和を代表する写真家、土門拳が土浦海軍航空隊で撮影したという予科練習生たちの写真だが、ここには陰鬱な隊内の様子は微塵も写っていない。
 むしろ楽しそうな隊内生活が写し出されているではないか。

 
ボクは今このことを書きながら、平行して「きけ わだつみのこえー日本戦没学生の手記」を手元に置いていた。冒頭渡邊一夫が「感想」と題するまえがきがある。

 …略。 初め、僕は、かなり過激な日本精神主義的な、或る時には戦争謳歌にも近いような若干の短文までをも、全部採録するのが「公正」であると主張したのであったが、出版部の方々は、必ずしも僕の意見には賛同の意を表されなかった。現下の社会情勢その他に、少しでも悪い影響を与へるようなことがあってはならぬといふのが、その理由であった。僕もそれは尤もだと思った。その上僕は、形式的に「公正」を求めたところで、かへって「公正」を欠くことがあると思ったし、更に、若い戦没学徒の何人かに、一時でも過激な日本主義的なことや戦争謳歌に近いことを書き綴らせるにいたった酷薄な条件とは、あの極めて愚劣な戦争と、あの極めて残忍暗黒な国家組織と軍隊組織とその主要構成員とであったことを思ひ、これら痛ましい若干の記録は、追ひつめられ、狂乱せしめられた若い魂の叫び声に外ならぬと考へた。そして、影響を顧慮することも当然であるが、これらの極度に痛ましい記録を公表することは、我々として耐へられないとも思ひ、出版部側の意見に賛成したのである。その上、今記したやうな痛ましい記録を、更に痛ましくしたやうな言辞を戦前戦後に弄して、若い学徒を煽てあげてゐた人々が、現に平気で平和を享受してゐることを思ふ時、純真なるがまゝに、扇動の犠牲になり、しかも今は、白骨となってゐる学徒諸氏の切ない痛ましすぎる声は、しばらく伏せたほうがよいとも思ったしだいだ。…略。

 


 


雑誌野鳥

2010-04-01 07:06:03 | 本・読書
  「日本野鳥の會」規約
1、本會を「日本野鳥の會」と称し、鳥類に関する研究、鳥類愛護の思想普及を以て目的とす。
2、本會は其の目的を達成する為め左の事項を定む
イ、毎月1回雑誌「野鳥」を編輯し梓書房をして刊行せしむ
ロ、随時見学旅行、展覧会、講演会、談話會、撮影會等を開催して、会員相互の交詢親睦を図る。
3、本会の趣旨目的を賛成し、左記により会費を前納するものを以て会員とす
イ、普通会員    年額   5圓也
ロ、特別会員  一時金弐百圓也
4、本會は、雑誌「野鳥」の配布を受くると共に投稿の自由を有し、本會の主催する凡ての計画に対して特典を享受し得るものとす
5、本會の事務所を東京市杉並区井萩3ノ41、中西悟堂方に置く


五月号
昭和九年四月廿日  印刷
昭和九年五月一日  発行
  編輯者    中西悟堂
   東京市神田区駿河台町一ノ八
  発行人    岡 茂雄
   東京市神田区美土代町二ノ一
  印刷所    三秀舎
   東京市芝区田村町六ノ一
  写真製版所  齋藤任弘
  ―――――――――――

本は眺めるものである

2010-03-27 11:47:15 | 本・読書
         

だいたい、買った本を全部隅から隅まで読むなんてこと自体、下品なことなのだ。永江朗さんは、「本を最後まで読むのはアホである」(『「不良のための読書術』ちくま文庫、唐沢俊一さんは「古書は集めるためににあるものである。読むものではない!」(『古本マニヤ雑学ノート』ダイヤモンド社、のちに幻冬舎)、とそれぞれ名言を吐いている。これぞ、プロというものだ。(「古本でお散歩」ちくま文庫、岡崎武志)


わが町にも、購書を趣味と自賛する著名人がおられ、私邸には書庫専用の2階造りの別棟の蔵があり、蔵書がぎっしり詰まっている。年間300冊前後の新刊書を購入しているといわれるが、氏は整理・整頓も得意趣味の分野のようだ。
 ボクも書庫内を拝見したことがあるが、目録も整備されており(パソコンはまだ非使用)、ジャンル別、出版社別きちんと整理されているので、捜すのにオレのような苦労はないようだ。
ボクの場合は、ご覧のように、整理は全くしていない。それに書棚に2重に本が詰まっているので、捜すとなるとたいへんな労力である。
しかし、正直云って本は、眺めているだけで人生は愉しい。苦労はするが、捜すのもそれにもまして楽しく、長生きする秘訣だと信じている。

小さき命

2010-03-24 04:55:43 | 日録
長いこと心に想っていた歌集である。捜しても見つからずにいた。
以前エントリーしたことがあるかも知れないが、私にとっては単なる思い出ある歌集だというだけではない。貴重な心の財産でもある。
他人にも見せたり、貸し出したこともあるので、あるいは紛失してしまったものと諦めていた。
それがたったいま、本箱の隅から発見した。本の背に何も書かれていない100頁弱の薄い本なので、身近な処に置いてあったのに気が付かなかったのである。
著者は、私が小学校2年の時の担任の先生(ご夫妻共著)であった。
私は6歳の時母に死に別れていたので、惨めな環境にある子供だった。
洗濯などしたことのない服や、汚れた下着のまま通学していたから、身体検査の時など気恥ずかしかったのをはっきりと覚えている。
今ではとても考えられないようなことばかりだ―。私はこの先生に下着のシャッやパンツまで買って頂いたこともあったのだ。
その恩義ある先生でも、何処のお方なのか、本籍も現住所も一切不明でいた。小学校創立90周年(昭和45年)の時、記念事業推進委員会が編んだ全卒業者名簿(謄写版刷り)に旧職員(先生方)の名前も載っているが、住所不明の方が多い。死去された方が大部分だが。昭和20年6月10日米空軍の爆撃で、校舎全体が爆弾の直撃で壊滅した。保存書類は殆ど散逸してしまったからである。
その先生が、偶然というか奇跡というべきか、思いがけない方からの情報で、町内に住んでおられることを突きとめたのである。
約50年振りの再会であった。そしてお会いしたのも1度だけで、間もなく昇天された。(先生は敬虔なクリスチャンだった。)
この歌集は先生が亡くなったのち、御主人さまが共著として発行された私家版で、ご遺族から頂戴したものである。
 先生との出遭いやその後のことはとでも1頁や2頁では説明しきれない。
 ここでは、歌集「小さき命」の序文と扉に添えられた御主人さまの一首の短歌だけの記録にとどめる。

     序(元朝日新聞地方版歌壇選者)
 お大切な御夫婦(それぞれの)御歌集 早くおかえし申し上げなくてはとおもいながら 今日になりましたこと お許し下さいませ。
 このようにおまとめになられましたものを拝読いたしますと 一そうひしひしと胸深く 尊い御夫妻のお心がしみ入り深く感動いたしました。至らない私を改めてふりかえり お詫び申し上げたい気持ちでいっぱいでございます。
 奥様のお歌を拝見して 私こそいろいろと教えて頂きました。
 御生前にお目にかかれませんでしたことを残念におもいました。又最後のお歌を折りかえしお返し申し上げなかったを何とも申し訳なくおもいました。お詫びを申し上げて下さいませ。
 お歌を通して奥様の深い御信仰を改めて仰がせて頂きました。又ご主人様と御信仰を共にされ お歌のよろこびも共にされましたことは誰にも容易に恵まれないの愛をうけられたあかしとおもいました。
 先生のお歌はお心にも 表現にも 奥様のお歌とよく通われるものがおありになることを知りました。長い間の誰にも容易にできない愛の深い御看護を全うされましたのも ほんとうに通い合われて初めておできになったことと感動いたしました。
 どうぞお二方の歌集を通してすべての人が 御夫婦の愛と信仰と徳を仰がせて頂くことができますようにと念願してやみません。
 御出版の日をたのしみに お待ち申し上げております。
 老婆心乍ら 奥様のお歌を初めに先生のお歌をつづいて おまとめになられてはとおもいます。
 又お二人とも おはぶきにならないで全部 お入れになって下さいませ ほんとうに珠玉のようなお歌でございますから  
                    かしこ
                    土屋 セツ子


     いかばかり淋しかりしや吾を呼び
          「なんでもない」と妻の息絶ゆ
                      余志夫

略歴の抜粋(歌集から)
昭和10年 洗礼を受け夫余志夫と結婚 2男2女を生む
昭和14年 中国天津に渡り 21年引き上げT市に住む
昭和45年 子宮癌を病み手術 コバルト60の後遺症か股関節炎
     関節の骨がくずれ 松葉杖 車椅子の生活 丸山ワクチンの注射を3年間  
     この間病気は進行しなかった。
     その後肝硬変 糖尿病を併発して数回の入院退院を繰り返す
昭和56年7月1日 夫の傍で 安らかに永眠する  

辞書彷徨

2010-03-19 08:36:25 | 日録
              

日録抄
 町の生涯学習課で刊行する郷土の作家(大正~昭和にかけて活躍した。)の研究・顕彰誌(小生が委員会からの依頼で文集化155ページ)の校正刷り冊子を、町から委嘱を受けた委員5名の手で校正作業に入る。女性小学校校長(お一人は元)さんも2人名前を連ねている。お一人は欠席なされたが、付箋が数え切れないほどあり、各ページ赤ペンで、ぎっしり書き込んだ校正刷りを別の先生に託して寄こした。
 皆さん非常に熱心に冊子に目を通して来られたようだ。恐れ入る。
 最初の目次から異論が続出した。
 書式を横書きから縦書きにする。インデントの問題。主題から筆者に繋ぐ点線の長さの不揃い…等など。
 しかし、こんな事までわれわれが議論していたら、遅々として本文の校正まで行き着かぬ。
 取り敢えず、本文中の誤字脱字を検討していこうや、とオレは提案した。
 こうして校正が始まったのだが、いくらやっても問題点は続出する。
 49ページまでやっとこぎ着けたが、家に帰ってまた辞書との対決である。今日決まった事も次回覆さねばならないかもしれない処も出てきた。

 「おゝ、たうとうあの山へ登らして頂けたのかえ」と母親は純一の腕にすがり、感極まって咽び出してしまった。…」(引用文)
この「たうとう」が旧かななら「たうたう」、新かななら「とうとう」だと校長先生が仰るのだ。
 小生は、「そんなことはない。この小説は当然旧かなで書かれた小説だから、『たうとう』でいいと思う。」と強く言いきってしまった。
 あまりにも細かい処まで追求するから、オレも意地を張ってしまったのである。しかし自信ある反論ではなかった。
 「どうして調べる?」
 「広辞苑なら調べられると思う」とオレ。若い事務局員が事務所へ捜しに行って戻ってきた。
「あいにく『広辞苑』はありません。これでどうでしょう。」
 講談社版国語大辞典であった。オレが目を通したが、旧かなの表示はなかった。
 実は内心ホッとした。しかし別の課の方が、
「『広辞苑』ありましたから。」と言って、函に入った真新しい第六版を抱えて来たのである。
 
とうとう(タウー)【到頭】《副》(トウドウとも)ついに。結局。最後に。「ーたどりついた」「ーこなかった」
 「たうとう」で良かったのだ!しかし活字があまりにも小さくてわかりずらい。
帰宅後さらに「大言海」大槻文彦 冨山房で確かめたのがこの写真である。

 




三月十日

2010-03-10 15:41:58 | 怒ブログ
          

朝日新聞「声」欄〝語りつぐ戦争〟トップに、
「東京大空襲 無表情の人、遺体の山」の見出しの投稿が載った。 無職 富田てる子 (東京都葛飾区 82歳)の方からである。
 投稿者は、単純計算すれはボクより一つが二つ年上の方である。 当時ボクは田舎に住んでいて、三月一〇日東京大空襲の現状は直接分からないけれど、このわずか3ヶ月後の6月10日、わが村もB29の絨毯爆撃に遇って、空襲の惨状を具に体験しているので、このリアルな光景は手にとるように分かる。
 爆撃の跡は道路、田圃、住宅地を問わず、大きな爆弾の穴と爆弾炸裂時の大量の赤土が盛り上がり、破壊と瓦礫の廃墟の巷と化した。火災も起きた。死傷者の数は300以上に達した。理性も感性もなかった。
 爆撃の目標は、わが村から、隣村にかけて連なる海軍軍事施設・大型飛行艇格納庫、海軍練習航空隊であったのだが、当日は厚い雲に覆われた天候で、もちろんその頃も米軍機にはレーダーなどもあったのだろうと想像できるが、間違いなく雲上からの攻撃は盲爆であった。

 投書は次のようなものである。
  
1945年3月10日、18歳の私は弟2人と東京。向島の親類宅にいた。灯火管制の、真っ暗な2階窓から見た隅田川対岸の浅草は既に真っ赤。ひどく恐ろしくなり、弟と手をつなぎ東の葛飾方面に逃げることにした。
 隅田川では、逃げ場を失い飛び込んで溺れた人が、水面を覆うように流れていた。煤けた顔で無表情に、ただ人の流れに沿い歩く被災者たち。背負ったわが子が既に焼死しているのも気付かず、あてもなく歩く女性も目にした。
家はすぐに全焼し、見渡す限り焼け野原。家が焼けると何も感じなくなるのか、焼夷弾が雨のように落ちる中をただ歩いた。死体は道に幾重にも重なっていた。
6歳の頃、両親を失い、兄は招集で戦地に赴いていた。疎開先もない私たちは都内の親類の家をさまよい続けた。
 兄は数年後、シベリア抑留後に帰ってきたが、私も兄も互いの苦労を言わぬまま時は過ぎた。兄は昨年旅立った。


3月10日は今では東京大空襲の代名詞のようなものだ。(65年経って若い人たちには知らない人が多い)当時は報道管制もあって、われわれにはその実象は何ひとつ知らされていなかった。むしろ5月25日の東京だか横浜だかの大空襲では、100キロ以上離れているわが家からも、赤く燃えている空が遠望されたし、翌朝は燃えた紙くずが無数に飛来した。凄い被害があっただろうことを実感した。
新聞発表は2日遅れた5月27日である。
[大本営発表](昭和20年5月26日16時30分)
南方基地の敵B29約250機は昨5月25日22時30分頃より約2時間半に亘り主として帝都市街地に対し焼夷弾による無差別爆撃を実施せり。
右により宮城内表宮殿その他並びに大宮御所炎上せり。
都内各所にも相当の被害を生じ火災は本払暁までには鎮火せり。
我制空部隊の邀撃戦果中判明せるもの撃墜47機の外相当機数に損害を与えたり。
(朝日新聞でみる世相50年 朝日新聞社1972年より)

見出し写真は、[核密約歴代首相ら黙認]外務省極秘メモ公開ー
今朝の朝日新聞第一面である。

始めなり終わりなり

2010-02-24 21:10:52 | 日録
暖かし。されどまだ石油ストーブ焚かざるを得ず。
 午前A氏来訪。上がって選挙回顧談。
 12年年ぶりの選挙選だったのである。
 無所属で前町議A氏(62)が、前町議会副議長T氏(47)と現職K氏(74)を破り初当選した。
 得票を大きく左右するのは、何処も同じ某宗教団体組織票。この団体の票を掴めばほぼ当選確実と言われる。現在この宗教団体推薦の町議が現在3名いる。
 単純計算でも、この上位当選の町議3人の票を足し算すれば、当確の算盤はハジケル勘定となる。
 今回はこの鉄壁を誇る組織票が自主投票だったらしい。

 世の中は単純であり、複雑である。

 われはアルパなり、オメガなり、いやさきなり、いやはてなり、
  始めなり、終わりなり 

 町議補選(改選数2)は、元新2氏が当選。町長選に比べ関心が薄く、無効票が1812票もあったという。


日本をダメにした九人の政治家考

2010-02-11 15:54:34 | 怒ブログ
本箱の隅に眠っていた「日本をダメにした九人の政治家」講談社という本をを引っ張り出して見た。パラパラっと頁をめくってみると、
 小沢一郎の抜け目のないところ
 社会党にも腹を切らねばならない人がいる
 企業献金など欲しくない。
 金の使い方が下手な梶山、上手な小沢
 人の道にはずれることを平気でやる男
 小沢一郎が表舞台に出られないわけ
 ………
 という風に、小沢一郎を激しく罵っている項目が目立つ。
 改めて興味が湧いたので読み返してみた。

 この本の奥付をみると、1993年12月9日が初版第1刷で、小生の持っているのは、94年1月17日第5刷である。一年間で5刷というのはそう滅多にはない。この本が出る前は小沢一郎「日本改造計画」講談社がベストセラー第1位だった。
 『日本をダメにした九人の政治家』は、元衆議院議員の浜田幸一が1993年12月に出版した本。150万部を越えるミリオンセラーを記録したという。発売から1ヶ月で100万部を突破し、講談社史上最短記録となったとも。
この本主題の「日本をダメにした9人の政治家」とは、
浜田幸一(ご自身のこと。元衆院予算委員長、自民党広報委員長の肩書き。)、中曽根康弘、竹下登、宮沢喜一元首相経験者と三塚博(元蔵相、外相、通産相、自民党幹事長)、小沢一郎(元民主党代表、元自治相、自民党幹事長)、梶山静六(元内閣官房長官、法相、自民党幹事長)、田辺誠(元日本社会党委員長)、宮本顕治 (元日本共産党中央委員長)の諸氏である。
このうち、竹下、三塚、宮沢、梶山、宮本の各氏は故人となっている。
 小沢一郎について、思い当たるのは、
金の使い方が下手な梶山、上手な小沢の項だ。

梶山君は自分でなにからなにまでやらねば済まない独裁者だったので、他人のまかすことは出来なかった。野党に金を渡す場合も自分一人で渡す。ところが、小沢君は必ず人を介すか、立ち合わせて金を渡す。この差は大きい。小沢方式では証人がいるので、あとでもらっていないとトボけられない。
 野党の宮沢内閣不信任あんの提出を、梶山幹事長が押さえられなかったのは、金の渡し方が下手だったということが大きい。
 この辺りのところでも、小沢君のほうが梶山君より金の使い方が一枚上手である。


 テレビ解説者として出演した浜田翁を数回見たことがある。かつての迫力は感じられなかった。またこの本も、今では店頭で見かけることは全くないが、改訂再版したなら再びブームがまきおこるかもしれない。
 しかし、この9人のうち、
竹下登 、三塚博、梶山静六、宮沢喜一、宮本顕次の5氏はすでに鬼籍に入られた過去の人である。