Spezzatino di abbacchio all'aceto
【イタリア版食いしん坊万歳:仔羊のスペッツァティーノ、お酢風味】
食 材:仔羊(アッバッキオ)の腿肉あるいは肩肉1.2kg、ラード60g、酢100cc、アンチョビーのフィ
レ4枚、ニンニク3片、ローズマリー、小麦粉、塩、コショウ
作り方:鍋にラードを入れ、ローズマリーの小枝一本と一緒に強火で熱する。風味がついたら,ローズ
マリーを取り出し、仔羊の肉をおのおの30gぐらいに切り、小麦粉をまぶして鍋に入れる。そ
して塩、コショウをふりかけながら、表面が狐色になるまで焼く。ほどよく焼き上がったとこ
ろで、酢を加え、ニンニクと塩抜きしたアンチョビーのフイレを一緒にすり混ぜたものを入れ
る。時々かき混ぜ、よく混ぜ合わさったら火を止める。
【続・たまには熟っくりと本を読もう】
茂木-利己的な本能と理性の役割
生物学者のリチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店)という本の
なかで、「そもそも生物というものは利己的なものであって、利他主義だとか平和主義だ
といったことは、生物学的な原理としては希望しえない」という意味のことを書いていま
す。また、生物は仲間同士殺し合わないのに人間はなぜ殺し合うのか、といったナイーブ
な議論がありますけれども、実際には生物はお互いに殺し合うし、子殺したってあります。
その意味では、人間が核兵器をつくって、人類という種自体をお互いに殲滅し合うような
ことになってしまったのも生物の進化のなかではごくふつうの振る舞いだといえると思い
ます。
しかしその一方で、ドーキンスは、「人間は理性、理念、理想といったものも手に入れ
た」といっています。ということは、われわれ人間は古典的な意味での生物から一歩踏み
外している(あるいは、踏み出している)ところがあるから、平和とか非職といったこと
も考えられるのだということになります。
これまで大勢の編集者と会ってきて、わたしが前々から感じていたのは、いわゆる進歩
的な左翼の人よりも、右翼っぽい人のほうが生き物らしいということです。声高に日本を
主張する人たちのほうが生き物としては勢いがあるせいだと思いますが、それはドーキン
スの利己的遺伝子の理論に照らし合わせても当然の話です。しかし、生物としての本能が
出すぎているきらいもあって、たとえばナチスに利用されたニーチエの「生命哲学」あた
りまでさかのぼって考えると、ある種危険な流れでもあるように感じます。同様のことは、
一般社会の生活感情についても見られます。つまり、最近の傾向はちょっとナショナリズ
ム的な回路と共鳴しはじめているような感じがします。
そのとき、知識人という存在は伝統的に、生物的な本能からは少し離れて、理性とか理
念に基づいて社会の流れに警告を発する役割を担ってきた側面があると思いますが、いま、
そうした知識人の役割についてはどう思われますか。
吉本-自然と倫理について
ぼく自身、ナショナリスティックな部分をたくさんもっていて、スポーツでいえば、ボ
クシングでもサッカーでも何でも構いませんが、気がつくとひとりでに日本を応援してい
るということがよくあります。おっしやるとおり、動物としての人間というふうに考えれ
ば、人間もほかの動物とそんなに懸け離れているわけがないから、利己的な遺伝子の過程
にあるのだという考え方が成り立つと思います。ただしぼくは、そういう言葉は使わない
で、それが「生物的自然」だといっています。現在までの人間の遺伝子や地域的特性、あ
るいは風俗習慣などから見て、スポーツであれ何であれ、地域社会の人を応援してしまう
のはきわめて自然だという意昧にもなります。
もっとも、人間も動物もそう懸け離れているわけではないといってしまうと、そうだよ
なあとなって、そのあとが続かない。だからぼくは、強いてそういう言い方をしないよう
にして、それは自然と倫理の問題だとか、善悪の問題だとか、そういう言い方をするよう
にしています。だから、現在までの段階だったらナショナリズムは当然だということにな
りますし、ナショナリズム以外のことをいう人間はみなどこかで人工的にごまかしている
か、あるいは知識人的にいっているか、理性なるものだけを取り出していっているか、そ
のどれかだということになります。
ぼくがよく付き合った詩人の谷川雁などは、「もし黒人と白人と黄色人がボクシングの
選手権を争っていたら、絶対におれは黒人を応援するな」といっていました。そして、「
日本人と白人が戦っていたら、もちろん日本人を応援する」と続けていましたけれども、
そういう谷川雁の言い方には人為的な「何か」が入っているわけです。その「何か」とい
うのはわかっていて、大きくいえば理性が入っている。あるいは知識、見識が入っている。
もっと小さくいえば、政治性が入っているし、党派性が入っている。
でもぼくは、これから先のこと、つまり未来のことを考えたいものですから、「人間と
動物」といった言い方や党派的な言い方はしないで、むしろ「自然と倫理」といった言い
方をしたいと思っています。それはどういう意味かといえば、先に三木成夫さんや安藤昌
益のことをしやべったときにいいましたように、天然自然というものと倫理や善悪が結び
つくところがあるとすれば、そこはどうなっているんだ、という問題の立て方をしたいと
いうことです。
茂木-種の自己保存は自明ではない
ドーキンス自身、生物学的な、言い換えれば進化論的な議論がすべてではないと考えて
います。『利己的な遺伝子』のなかでは、「そもそも人間が種自身の自己保存を図るとい
うことでさえ自明ではないのだ」と、そんな過激なこともいっています。
吉本-自己意識を社会化するということ
こうした問題を政治問題や社会問題に広げるとします。そして、いまの政党はどんなこ
とをいうだろうかと考えてみると、このごろは「格差社会」という言葉が流行しています
から、たとえば「格差社会の状態がますます進行しつつある」というかもしれない。「だ
から、われわれの党はそこをなんとかしたいと思って格差是正をいつでも心がけている」
というだろうと思いますが、ぼくはそれではダメだと思います。何かダメかというと、そ
れは口先だけで、格差社会に押しつぶされている人をおれたちが救ってやろう、といって
いるだけだからです。
では、どうすればいいのか。そんなこと、おれに聞かれたってわからないけど、少し考
えていることはあります。それは、自己意識を社会化するところへいかないとダメなんじ
やないかということです。
ふつう政治家は政治意識、社会運動家は社会意識を第一の問題として、それに対してど
ういう対策をとるかという発想をするわけですが、それではダメなんです。やっぱり、自
己意識に入ってくるさまざまな否定や肯定、あるいはそんなことは想定できるわけがない
よというような思い方、そういうものを全部ひっくるめた自己意識を社会化することが必
要だと思います。そういう姿勢を政治家がとってくれれば、少しは可能性があるといえる
わけですが、おそらくなかなかそうはならないでしょう。
自己意識を社会化するとはどういうことか、ということをもう少しいってみれば、自分
のたずさわっている領域、文学なら文学、脳科学なら脳科学の領域で感じていることをで
きるだけ広げようとすること、それも実感から離れないで広げていくことです。これを言
い換えれば、ただのっぺらぼうな社会意識なんて、そんなものは初めからないよ、という
その意味で面白いと思ったのは、小泉純一郎が「おれは(総理としての)退職金をもら
わないことにするから、全国の知事さんや市長さんたちも退職金を辞退したらどうだろう
か」といったことです。あれは結構いいことです。総理大臣も全国の知事や市長も退職金
を返上すれば、リストラされた人の何十人か何百人かは、生活上一年間ぐらい延命できま
す。けっして悪い発想ではないし、しかも保守政府の責任者がそういうことをいったから、
ぽくなんか、おお、小泉って時々いいこというじやないかと思いました。本来の保守的な
政治家だったら、「そんなことは構うことはないんだ」と、そういうに決まっています。
しかるべき地位にいるわけだから、知事だったら数千万円とか、総理大臣だったら一億円
とか、それぐらいの額の退職金はもらえるわけで、「退職金を返上する」なんて言い出す
はずがない。ところが小泉純一郎みたいな人は半分素人だから平気でそういうことを言い
出すわけで、こういうふうに、それぞれの人がそれぞれの専門領域で感じている自己意識
を社会化するやり方に通路をつけられれば、それがいちばんいいことだと思います。
通路をつけるためには、単に社会意識というものがここにあって、政治意識はあそこに
あって、それから文学みたいに内向的なものは内向的なところにあって……と、そういう
ふうに個別的に考えていてはダメだと思います。ぼくらだったら、自分の職業にしている
ことになります。
文学の領域で感じている問題意識や経験的なものを政治化したり社会化したりする。文学
にたずさわりながら体験したり実感したりしたものをひねくりまわし、そのひねくりまわ
したものから類推して何か思い当たったことをいったり書いたりする。さしあたってはそ
うやって通路をつくっていく問題だと思います。
もっとも、われながら「自己意識を社会化する」とか「自己意識を政治化する」という
のはあまりいい言い方ではないと思います。そんな言い方では、「いったい、おまえは何
をいっているんだ」といわれそうですが、ぼくがいいたいのはそういうことです。
第四章 自己意識を社会化するとはどういうことか
『「すべてを引き受ける」という思想』
吉本隆明 茂木健一郎 著
わたしが、日本国民としてオリンピック競技に熱を上げて応援するのは、利己的な遺伝子や生物的自然
に因縁するらしいことが述べられているわけで、何となく納得するものの腑に落ちたわけではない。
こじつけといえばこじつけだけどねぇ。しかし、大画面の液晶テレビ鑑賞するのもわるくない。競技の
詳細が一目できる上に臨場感が感情移入をさせる。もし現場で観戦していたも競技場の盛り上がりなど
のサラウンド感は比べものにならないが、選手や審判の動きは寧ろテレビ観戦した方が詳細に正確にわ
かるんだという実感だ。それにしても、永井謙佑選手への試合中の負傷が心配だが、エジプト選手のあ
れはどう見てもひどいんじゃないというと、彼女は仕方がなかったんじゃないの(故意でない)と感想を
洩らす。それにしても、科学技術の進歩はすごいもんだとあらためて感心し、昨夜らいの「世界同時進
行性」とか「ノンリコースダーツ(負債返済制限)」と言う言葉に引き摺られながらも吾ながら巧く言
ったものだと感心している。
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