気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

戦車工場、作ります!! その4

2021年02月13日 | ガルパン模型制作記

 戦車工場の部品を作ります。フェニックスモデルのバキュームキットのパーツは、上図のように分割状態で入っています。これらをカットして貼り合わせることで一つのパーツが出来上がります。鉄骨のパーツは5種類あって、柱が2種類、支持材が3種類あります。

 

 カッターで丁寧に切りますが、切る部分のプラ板は丸く立ち上がっているため、真っ直ぐに切っても断面が波打ったりします。バキュームキットの特徴の一つであり、宿命とも言えます。

 

 なので、カットした後の切断面をヤスリ等で整える作業が不可欠です。パーツが大きいので、大きなサンドペーパーを100円ショップで買ってきて、上図のように敷いて、その上でパーツの切断面をガリガリとこすってヤスリました。とにかく力作業になりますので、根性が試されます。

 

 切断面を真っ直ぐに整えたら、接着剤をひいて貼り合わせます。

 

 パーツの一つが仕上がりました。大洗は梅原屋のガルパンジオラマ芸術家のNさんが、ガントリークレーン用のレールだろうとか何とか指摘していたパーツです。これはオプションパーツなので、付けても付けなくても自由ですが、ガントリークレーンを設置する場合はこれがレールになります。
 問題は、ガントリークレーンの本体をどうやって調達するか、ですが、これについては後で考えたいと思います。  (続く)

 


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中世嵯峨を歩く その4 造路の辺り

2021年02月12日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 龍門橋から造路を西へ進みました。かつての天龍寺門前への主参道であり、嵯峨街区の東西主軸路でありました。その道沿いには天龍寺および臨川寺の塔頭が甍を並べていましたが、いまは室町期はおろか江戸期の景観すらも失われています。
 造路に面した塔頭のうち、室町期の「山城国嵯峨諸寺応永釣命絵図」や江戸期の嘉永三年(1850)の「天龍寺境内惣支配所六ヶ村麁絵図」等に記載がある寺院は、上図の金剛院のみです。が、位置はやや移動しているようで、かつての金剛院は門を造路にではなく、南北路の朱雀大路(現在の長辻通)に向けていました。

 

 金剛院の門前より西、天龍寺方向を見ました。いまでは道の南側に土産物屋や民家が立ち並びますが、鎌倉末期の元応二年(1320)以降に作成されたとされる「山城国亀山殿近辺屋敷地指図」をみると、北側の金剛院も含めて造路の両側のほとんどの区域が武家の屋敷地になっています。金剛院の位置には「武家人 左衛門大夫」とあります。

 この「左衛門大夫」は現在のところ誰に該当するか分かっていないようですが、その屋敷地の東に「山城国亀山殿近辺屋敷地指図」では「寮家領 長井掃部入道給云々」の記載があるのがヒントになります。「長井掃部入道」とは大江長井氏の関東御家人長井掃部宗秀を指し、「給云々」とあるので長井掃部宗秀にあてられた宿所であったことが分かります。

 その一族に「左衛門大夫」に該当する人物を探せば、宗秀の大叔父にあたる長井左衛門大夫泰重しか居ません。長井左衛門大夫泰重は六波羅評定衆の一人で、つまりは京都に常駐していた有力御家人です。
 長井氏は嫡流の宗秀らが関東に住し、庶流の泰重の系列は大江広元以来の本貫地である京都に住してともに幕府を支えた重鎮の一統でありました。京都在住の庶流の「武家人 左衛門大夫」こと泰重の隣に関東の嫡流の宗秀の宿所があってもおかしくはありません。

 

 金剛院門前より東、龍門橋の方向を見ました。この右側(南側)の区域もほとんど幕府御家人の秋庭(あきば)氏の「宿所」となっていました。「山城国亀山殿近辺屋敷地指図」には「武家人 秋庭三郎入道」以下の面々の給地が並びます。
 秋庭三郎といえば、いわゆる新補地頭の一人で備中国有漢郷の地頭職に補せられた三浦氏庶流の一統が有名ですが、中世期における京都での活躍は、足利氏に組みしてからの事績が主で、南北朝期以前までの動向はあまり分かっていません。

 ですが、鎌倉末期の段階で嵯峨地区に屋敷地があるということは、少なくとも京都には住していたことになります。秋庭氏は本来は大仏(おさらぎ)流北条氏の家人ですが、主家の北条維貞は正和四年(1315)に六波羅探題南方に任じられて京都に進出しており、これにともなって秋庭氏も京都入りした可能性が考えられます。
 同じ六波羅評定衆の「武家人 左衛門大夫」と造路をはさんで向かい合っていますから、「武家人 秋庭三郎入道」もまた六波羅評定衆に連なっていたのではないかと推察します。

 

 金剛院の境内地の西側には、北朝初代の光厳天皇の遺髪をおさめた髪塔があります。在位期間が鎌倉末期にあたったため、北朝の最初の天皇は弟の光明天皇となっています。それで北朝初代という位置づけになっており、光明天皇および次の崇光天皇の在位期間15年間の間は、上皇として北朝の治天(皇室の長)の座にあって院政を行ったとされています。その陵墓は常照皇寺内にある山国陵(やまくにのみささぎ)です。
 

 

 造路の西の終点は、南北を通る長辻通との交差点となり、天龍寺山門前に繋がります。長辻通は平安期には朱雀大路と呼ばれて当時の嵯峨街区のメインストリートとなっていましたが、中世戦国期にもその役割は引き継がれ、北の嵯峨釈迦堂清凉寺への参詣道でもあるため、中世からの呼称は「出釈迦大路」のほうが多くなっています。

 上図は、交差点より北、清凉寺方面を見たところです。平安期の朱雀大路からのルートがほぼそのまま維持されており、中世都市嵯峨の南北主軸路としての面影もよくしのばれます。

 

 交差点より南、渡月橋の方向を見ました。現在はまっすぐに南下して渡月橋を渡りますが、中世戦国期には約100メートルほど東に橋が架けられていて、いったん川岸で右に折れ、道がクランク状に東へ寄っていました。
 なので、「出釈迦大路」の南端は、大堰川の河原にあたって古代以来の「大井津」つまり川港になっていました。これについてはまた後で述べます。

 

 造路の終点にあたる天龍寺山門です。観光客の多くはこの境内にも入ってゆきますが、私自身の今回の目的は嵯峨の中世からの歴史風景を復原しながらイメージを楽しんで散策することでしたので、天龍寺拝観は次の楽しみにとっておくことにしました。  (続く)

 


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ワッフル学院 ヴィッカースT-15 作ります!! その1

2021年02月11日 | ガルパン模型制作記

 最終章第2話の無限軌道杯第1回戦で聖グロリアーナ女学院と対戦したワッフル学院は、上図のアルンヘム鉄橋やレマゲン鉄橋を思わせる橋梁内にて、映画「遠すぎた橋」を思わせる激戦の末、相当の撃破数を挙げつつも敗れています。

 

 鉄橋を陣場にして聖グロリアーナ女学院のマチルダ1輌、クルセイダー2輌を撃破横転せしめたその陣容は、上図の拡大画像で見る限りではAMC35(AGC1)1輌、ヴィッカースT-15の2輌が認められます。AMC35がフラッグ車で、2輌のT-15はその直衛であったのでしょう。47ミリ砲と13.2ミリ機関砲との組み合わせで、よく聖グロリアーナ女学院の戦車部隊に対峙し得たものと感心してしまいますが、公式資料類によれば他に105ミリ榴弾砲搭載のM4も居たそうですから、それなりに健闘したのでしょう。

 

 フラッグ車が討たれて試合終了となった直後のシーンです。右がAMC35で、左手前の砲塔部分はT-15です。

 

 T-15の特徴ある砲塔の形状が忠実に描写されていますが、手描きであるようです。主武装の13.2mmオチキス重機関銃も見えます。

 

 実際のベルギー軍の車輌です。アニメの劇中車は、この車輌の姿を遠くに描き、そして砲塔のみの接近図を示しているわけです。これは左側面から見た図です。

 

 右側面から見た図です。綺麗な写真なので、車輌の細部がよく分かります。今回はこの戦車をガレージキットにて製作しますが、組み立て説明図が大雑把でよく分からない点が多いため、実車の細部が分かる写真を数枚揃えて参考図として使用しました。

 

 去る2020年11月のサークルの定期会合にて、AFV部会のMさんがガレージキットの在庫を整理処分するというので、在庫リストを見せていただき、そのなかにあったガルパン車輌の2点をそれぞれ1000円で買い受けました。上図はその一方のレトロモデルの製品、ベルギー軍のT-15のガレージキットです。

 

 中身の見本画像です。私が1000円で譲り受けた個体はかなり古いもので、パーツの干割れや欠けがかなりあり、上図のような完全な状態ではありませんでした。車輪や履帯のパーツに不良品が少なくなかったのが致命的でしたが、なんとかなるだろう、と前向きに考えることにしました。  (続く)

 


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戦車工場、作ります!! その3

2021年02月10日 | ガルパン模型制作記

 ついに戦車工場のキットが公開されました。中国の新興メーカー、フェニックスモデルの製品です。

 

 製品名は「フェニックスモデル 1/35 鉄道工場ベース マックス (23 x 70cm)」です。各種のジオラマベースなどを積極的にリリースしているようで、1/35だけでなく1/48や1/72や1/700のキットが出ています。

 

 フェニックスモデルの製品は、多くがバキュームキットであるそうです。

 

 鉄道工場のキットですから、当然線路もモールドされています。

 

 相変わらず、愉快なダージリン様。  (続く)

 


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中世嵯峨を歩く その3 龍門橋

2021年02月09日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 角倉稲荷神社から長慶天皇陵の西側の道に戻り、瀬戸川に沿って北へ進みました。瀬戸川はいまではコンクリート水路のようになっていますが、かつては芹川と呼ばれ、中世戦国期には嵯峨地域の中心街の東の外濠のような役目を果たしていました。

 

 前方に、瀬戸川に架かる石橋が見えてきました。龍門橋といいます。中世戦国期の嵯峨は、京都における有数の宗教的都市として相当の賑わいをなしましたが、その総門にあたるのがこの橋でした。本来は天龍寺参道の総門にあたり、かつては「天下龍門」と名付けられた門が建てられ、天龍寺境内地を中心に町並みが形成されて宗教都市の形態に発展したため、都市の総門ともなりました。

 

 現在の龍門橋です。近代に車道化にともなって拡張されて架け直されています。中世戦国期には板橋であったようですが、位置はほとんど変わっていません。

 

 したがって、龍門橋から西へ続くこの道が、天龍寺参詣道であるわけです。この道は中世戦国期より「造路(つくりみち)」と呼ばれ、中世都市嵯峨の東西の主軸路として機能しました。
 いまでも観光エリアの主要ルートして使われており、JR嵯峨嵐山駅と嵐電嵐山駅とを結ぶ連絡路にもなっています。JR嵯峨嵐山駅で降りた観光客の数割は、この道を歩いて渡月橋へと向かいます。

 なお、この道はアニメ「けいおん!」に登場する聖地ルートの一つでもあるので、この道を行き来したアニメファンも少なくない筈です。

 

 龍門橋から東を見ました。現在は上図のように東へ真っ直ぐに道路が延びていますが、これは近代のが市街地化にともなう道路の新設によるもので、中世戦国期には左右に分かれて三叉路となっていました。
 古絵図などを見ますと「天下龍門」の前は広場になっていて、そこから北は中御門大路へと繋がり、南は三条大路へと繋がっていた様子が知られます。

 

 龍門橋の傍らに立つ案内板です。別名の「歌詰橋」に絡めての由緒が記されています。ですが、中世戦国期の都市嵯峨の総門であったことは示されておらず、歴史的に最も重要であった状況への視点が抜け落ちています。京都の観光案内板はこのレベルの記述内容が一般的ですから、現地へ行っても歴史の真相を把握することが難しいです。

 

 この日も観光客が多かったようです。まだコロナ流行が無かった頃ですから、マスク姿は一人も居ません。

 

 「造路」を西へ歩きました。いまでは市道135号線嵯峨天竜寺線と呼ばれていますが、なんとも味気ない名称です。歴史的通称である「造路」をそのまま正式名称にしたほうが良かっただろう、と思います。

 そういえば、中世都市嵯の東西路「造路」と天龍寺門前で直交する南北の主軸路は、かつては「朱雀大路」または「出釈迦大路」と呼ばれたのですが、現在は長辻通と呼ばれています。中心街路の名前すら変わっていますから、中世都市嵯峨のイメージがなかなか掴みにくいとされるのも当然でしょう。  (続く)

 


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聖グロリアーナ女学院ガイ・フォークス ハリー・ホプキンス軽戦車 作ります!! その7

2021年02月08日 | ガルパン模型制作記

 車体と砲塔のプラ板での組み立てを完了しましたので、履帯を組みました。こうした連結式の履帯は個人的に苦手なうえ、手間もかかって地味に根気が要る作業でした。いつものように塗装後に組み付けることにし、上図のように四分割して作りました。

 

 履帯を組んで接着剤の乾燥待ちの間に、車体前端の牽引ホールドなどをプラ材で作りました。

 

 続いて背面の三ヶ所の蓋および牽引ホールドなどをプラ材で作りました。

 

 プラ板組み上げの仕上がりをチェックすべく、薄くサーフェイサーを吹き付けました。組み合わせ部分の隙間や出っ張りなどが目立ちましたので、整形作業にとりかかりました。

 

 隙間などをパテ塗りで埋め、出っ張りなどは丁寧にヤスって調整しました。パテが乾いた後にヤスったり削ったりして細部の形を出来るだけ整えました。

 

 整形処理後の状態です。

 

 塗装後に組み付ける部品もプラ板をカットして作り、塗装後の組み立てまで保管しておきました。車輪も履帯も御覧のように保管し、塗装前の組み立て作業を全て完了しました。塗装は暖かくなってきてからの時期に、他のキットとまとめて実施する予定です。  (続く)

 


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戦車工場、作ります!! その2

2021年02月07日 | ガルパン模型制作記

 御存知、新旧の生徒会長。戦車工場建設の準備にととかかろうとしますが・・・。

 

 なぜかカチューシャが大いに張り切って仕切るのでした。

 

 ノリノリのおケイさん。真面目なそど子。

 

 なんだかんだ言って、結局参加してくるスナフキン・・・いやミカさん。

 

 角谷杏、生徒会長の重責を終えた気の緩みからか、肝心のモノを忘れる・・・・。  (続く)

 


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中世嵯峨を歩く その2 長慶陵と晴明塚

2021年02月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 鹿王院から西へ進んで道なりに右へ曲がって、嵐電の踏切の南側の交差点に出ました。その向かいに上図の長慶天皇陵参道の入り口があります。

 

 そのまま参道に進んで、陵墓の北辺から西側の拝所に行きました。とりあえず、拝礼しました。
 とりあえず、というのはこの陵墓が本当の長慶天皇の墓ではなく、昭和19年4月に陵所に指定された場所であるからです。

 長慶天皇は、後村上天皇の皇子にして南朝第三代の天皇ですが、詳しい動向がよく分かっていません。南朝の歴史そのものが不明な部分も少なくないためです。どこで崩御されてどこに葬られたのかも不明です。

 私自身は、奈良県に住んでいた頃に宇陀市の覚恩寺にて国重要文化財の十三重石塔を見学し、それが長慶天皇の供養塔だと伝えられていたことにより、名前だけは一応知っていましたが、南朝での事績は殆ど知る事もなく、ただ晩年に出家して覚理と号したこと、京都に帰って嵯峨を在所としたらしいこと、ぐらいしか覚えていません。

 長慶天皇の称号は慶寿院ですが、これは皇子の海門承朝(相国寺三十世・嘉吉三年(1443)寂)が止住した嵯峨の天龍寺塔頭の慶寿院に因みます。当時の天皇の称号はその在所をあらわすのが一般的でしたから、慶寿院は天皇が最晩年を過ごした地であった可能性があり、その崩後は供養所となったものとみられています。それで、この当所が長慶天皇ゆかりの地であったろうとの考察を前提として、慶寿院の跡地を整備して陵所とした経緯があります。

 なので、陵墓域内には海門承朝の墓所も併置されています。なお、慶寿院は江戸期の嘉永三年(1850)の「天龍寺文書」の「絵図目録」に記載される塔頭の中に名がみえず、当時は既に廃絶していたようです。
 明治16年に作成された天龍寺の「社寺境内外区別図」においても慶寿院の地は畑地になっており、また「天龍寺惣絵図」では同位置に「墓」および「藪」の記載があるのみです。その「墓」とはおそらく慶寿院の住僧墓地、つまりは海門承朝らの墓であったのかもしれません。この「墓」を拠り所にしての、長慶天皇陵の指定および整備であったのでしょう。

 

 長慶天皇陵の拝所から南へ行くと海門承朝の墓所があり、その西側から外の道路に抜ける出入口を通って陵墓の南側へ回り、墓域の南東隅へ行くと、上図の安倍晴明墓所があります。長慶天皇陵と同じく西面して鳥居が建ちますが、こちらは室町期の「山城国嵯峨諸寺応永釣命絵図」等の史料にも記載がありますので、中世から存在していたことが分かります。

 

 安倍晴明といえば平安期の陰陽師として知られますが、その墓所は京都をはじめ各地に伝承されています。安倍晴明は寛弘二年(1005)9月26日に85歳で亡くなり、嵯峨天龍寺の塔頭寿寧院に葬られたと伝わります。寿寧院は現在は天龍寺境内の内に位置しますが、中世戦国期には臨川寺の寺域内にてその塔頭として在り、その旧位置はこの安倍晴明墓所の西側にあたります。
 なので、実際に墓所であるかはともかく、各地に分布する安倍晴明塚伝承地のなかでは最も古く、かつ由緒もある場所とされています。

 

 ですが、寿寧院が衰退して天龍寺に移転した後は墓所も忘れられて荒廃していたため、昭和47年に晴明神社奉賛会が神道式に改修して再興、現在では一条戻橋の晴明神社の飛び地境内として管理されています。

 

 なので、中世戦国期以来の古い晴明塚ですが、御覧のように装いも新しくなっています。二重の結界をあらわして並ぶ標石には五芒星が刻まれています。

 

 塚の旧位置には、いまは真新しい石塔が建っています。昔の墓石などが全く見当たりませんので、荒廃していた時期に全て失われていたのかもしれません。

 

 安倍晴明墓所の東隣には、角倉稲荷神社があります。名前の通り、戦国期から江戸期にかけての京都の豪商であった角倉了以が出身地でもあるここ嵯峨の邸宅内に建てた稲荷神社です。当地は角倉了以の邸宅跡としても知られ、現在の町名も「嵯峨天竜寺角倉町」です。

 

 角倉了以は、朱印船貿易によって安南国との交易を行い、京都の大堰川および高瀬川を私財にて開削し、また保津川の開削整備を進めたことで知られます。それで地元京都では商人としてよりも水運事業者としての顔のほうで広く知られており、琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名です。

 そして嵯峨においても天龍寺の御用関連などの商売を行なっていたようで、その関連記録が「天龍寺文書」に含まれています。もとは天龍寺の境内地なので、角倉家の屋敷地は本来は天龍寺からの借用地であったことが分かります。その屋敷地の一角に稲荷神を勧請したのが現在の角倉稲荷神社にあたりますので、いわゆる邸内社に分類されます。
 一般的な神社の規模イメージでみると小さな神社ですが、邸内社であったのならば、かなり大きな部類に属すると思われます。屋敷地の北東隅つまり鬼門の一角に鎮座しますので、鬼門封じの役目も担っていたのでしょう。  (続く)

 

 長慶天皇陵および安倍晴明塚の地図です。

 


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聖グロリアーナ女学院ガイ・フォークス ハリー・ホプキンス軽戦車 作ります!! その6

2021年02月05日 | ガルパン模型制作記

 砲塔の組み立てに進みました。作中でも独特の形状が描かれており、これをプラ板で組み上げるのは難しそうに思えます。全体的に角張っているものの、平面ばかりで占められて曲面が存在しないため、プラ板での組み合わせは意外と簡単でした。1/35スケールでプリントした設計図を型紙として各パーツをプラ板でやや大き目にカットし、前から順に貼り繋いでゆく手法で進めました。

 

 組み立て途中の状況です。貼りつけてマスキングテープで固定し、貼りつけてはマスキングテープで固定する、の繰り返しで丁寧にゆっくりとプラ板パーツを一枚ずつ組み合わせてゆきました。

 

 横からみるとこんな状況です。平面が複雑に組み合わさっているような印象ですが、実際には13枚の平面パーツで構成されています。

 

 裏返してみました。ベースとなったテトラークの砲塔パーツとの関係がよく分かります。ターレット部分はほぼ同じですが、左右側面で逆台形に広がり、背面でやや後ろに伸びます。それでテトラークの砲塔パーツとの間に相当の空間が生じますが、そのままにすると砲塔自体の強度が心もとないので、後で内側からプラ板で補強材を4枚組み入れました。

 

 砲塔全面の組み立てと、前面防盾基部の組み付けが完了した状態です。内部の4ヶ所に補強材を組み入れましたが、さらに天板の下にもプラ材をかませました。上図のハッチの内側にそのプラ材の一部が見えます。

 

 砲塔天板上のペリスコープカバー2つをジャンクの英軍パーツから調達して取り付けました。左側には天蓋が付きますのでジャンクから転用しました。前面左側の筒状の部品もプラ材で適当に作りました。

 

 砲塔のハッチをプラ板で作り、砲防盾を削り込んでパテで整形して改造しました。45ミリ砲および7.92ミリベサ同軸機銃は、テトラークのパーツを流用しました。

 

 作中車の砲塔には御覧のように三本の直接照準器が付きます。アニメ版でローズヒップのクルセイダーに付けられているものと同種の部品です。

 

 その直接照準器をプラ棒で作りました。砲防盾、砲身、同軸機銃も組み付けました。

 

 現存実車や戦時中画像を見ると、砲塔背面にはアンテナ等が付けられていますが、作中車には何も付いていませんので、上図のようにシンプルな姿にまとまります。

 

 とりあえず、砲塔の組み立てが完了しました。後で各所のパテ塗りおよびヤスり調整による整形を施します。  (続く)

 


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戦車工場、作ります!! その1

2021年02月04日 | ガルパン模型制作記

 2020年11月5日、それは大洗女子学園生徒会長の角谷杏の思いつきから始まりました。ホシノの製作したガルパン車輌が100作に達したため、ガルパンGP第11戦車師団も100輌となり、それを契機として戦車工場を作ろう、というのです。

 

 既にガルパンGP第11戦車師団も5年余りの活動をなして、関西での模型女子合同展示会への特別出展作戦を7度、大洗への特別派遣作戦を2度、実施しています。実態としては高校生戦車道各校チームの共同体ですから、共同の戦車工場があったほうが便利、という認識は以前からありました。

 

 ですが、いつの世にもいかなる状況下においても、反対勢力、抵抗勢力というものは一定数存在します。

 

 さらに、いつの世にもいかなる状況下においても、勘違いしている勢力、状況がよく理解出来ていない勢力が一定数存在します。

 

 この場においてもミカの不可解な唯我独尊ふうのスタンスが炸裂しています。島田愛里寿との姉妹疑惑も依然としてつきまとっていますが、果たして真相はいかに・・・。  (続く)

 


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中世嵯峨を歩く その1 鹿王院界隈

2021年02月03日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2019年10月16日、中世戦国期の歴史散策を上京エリアに続いて嵯峨エリアでも楽しむべく、右京区の嵯峨地区へ行きました。四条烏丸から市バス11系統に乗り、下嵯峨で下車して散策に移りました。三条通を東へ引き返して一つ目の辻で左折し、路地道を北へ抜けて上図の築地塀の道に出ました。

 

 白築地は曇華院の門に続きます。明治4年からここに所在するこの寺は、もとは暦応年間(1338~1342)に、足利義詮の側室紀良子(きのりょうし)の生母智泉尼が、東洞院三条に創建した通玄寺の塔頭でありました。応仁の乱で荒廃しましたが、江戸期に後西天皇の第九皇女の聖安女王(大成聖安女尼)により烏丸御池に中興されたものです。門跡寺院のひとつで「竹の御所」とも呼ばれます。

 

 曇華院の門前を過ぎて少し東に進むと、鹿王院(ろくおういん)の総門前に至ります。康暦二年(1380)に足利義満が建立した宝幢寺の塔頭でありましたが、宝幢寺が応仁の乱で廃絶したため、その法灯を受け継いで鹿王院のみが寺籍を維持しています。

 

 鹿王院といえば、一般的には上図の鹿王院庭園がよく知られますが、本来の宝幢寺庭園の後身ではなく、江戸期の宝暦十三年(1763)頃の造園と推定されています。今回の散策テーマは中世戦国期ですので、出来れば室町期の名作庭家とうたわれた任庵主が設計した宝幢寺庭園の名園ぶりを見たかったのですが、発掘調査もされていませんから遺跡すら定かではありません。

 任庵主は足利6代将軍義教にブレーンとして重用された禅僧ですが、経歴などの詳細がよくわかっていません。ただ、その作庭した庭園の遺構とみられるものが醍醐寺三宝院庭園の下から発見されており、醍醐寺第74代座主満済の手記「満済准后日記」の永享二年(1430)三月四日条に「任庵主が今日之を召し給わり、新しく庭を造ることを沙汰した」と記述されている庭にあたるとみられています。

 

 任庵主のかつての庭園は拝めませんが、幸いなことに、総門が宝幢寺および鹿王院の創建時期に近い南北朝期に建てられたままの姿をとどめています。「覚雄山」の扁額は足利義満の筆になります。足利将軍家ゆかりの寺院の建築が現存している例はそんなに多くはありませんから、貴重な建築遺構です。

 

 総門から境内をのぞいてみました。中門までの参道に沿って天台烏薬などの銘木が植えられ、紅葉の季節には鮮やかな色彩を織りなしてきますが、この日は公開時期外でしたので、散策は諦めました。

 

 道を引き返して西へ向かいました。この道はアニメ「けいおん!」の聖地のひとつなので、上図の景色はファンならば知っている筈です。
 ですが、中世戦国期の嵯峨地域へ通じる街路の一つであり、かつては宝幢寺以下十余りの寺院が山門を向けていた、いわゆる寺内町の大路であった道です。

 

 道沿いには幾つかの古民家が見られますが、さすがに藁葺きの古民家はここ嵯峨でも珍しくなっています。おそらく、鳥居本の街並みのそれを除けば、嵯峨地域に現存する唯一の藁葺き古民家かもしれません。他で同じような藁葺き古民家を見かけた記憶が無いからです。  (続く)

 

 鹿王院の地図です。その南に曇華院が隣接します。

 


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聖グロリアーナ女学院ガイ・フォークス ハリー・ホプキンス軽戦車 作ります!! その5

2021年02月02日 | ガルパン模型制作記

 車体がおおかた出来たので、左右のフェンダーの前部の組み立てに移りました。作中車は上図の実車と同じ角型のフェンダーですので、参考にしてプラ板をカットしてパーツを作りました。

 

 形状が複雑な部分ですので、パーツは型紙より大きめにカットしておいて、組み立ててから余分なはみ出し部分をカットする、という手順で進めました。接着後はマスキングテープで固定して乾燥させ、ズレや歪みが無いかチェックしました。

 

 車体天板前端の三角形の跳弾板とペリスコープのカバーをプラ材で取り付けました。

 

 左右のフェンダーの整形後の状態です。後部のフェンダーは塗装後に車輪と履帯を組み付けた後に組み立てますので、ここではパーツのみカットして揃えておきました。

 

 続いて前面装甲のリベットを配置し、左右の乗降用ハッチをプラ板で追加しました。

 

 砲塔の製作に進みました。御覧の通りの複雑な形状ですが、1/35スケールの図面からの型紙を使ってプラ板をやや大き目にカットし、前から順に貼って繋ぐことにしました。

 

 レストア中の実車の画像も参考にして作業を進めました。現存する車輌の車体色は殆どが英軍戦車の一般的なカーキグリーンであるそうで、つまりはアニメ版でのダージリンの搭乗車チャーチルのカラーと同じです。
 なので、塗装時のカラーは、ミスターカラーのガルパン塗料の03番の聖グロリアーナカーキグリーンを使用する予定です。

 

 そして砲塔のベースになるパーツはテトラークのそれを使用します。搭載砲もテトラークと同じオードナンス QF 2ポンド砲ですので、テトラークのパーツがそのまま転用出来ます。砲防盾部分は独特の形状をしていますので、形がよく似ているタミヤのマチルダⅡの不要パーツを流用し改造して使います。  (続く)

 


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継続高校チームのT-26軽戦車の適応キット

2021年02月01日 | ガルパン模型制作記

 最終章第3話の本予告に登場した継続高校チームのT26軽戦車です。このチームが第2回戦を勝ち抜けて、大洗女子学園チームも同様に進んだ場合、両者が第3回戦にて会いまみえることになりますが、ファンの間でも既にそのストーリーが期待されているようです。

 この継続高校チームは、公式設定資料類においても、コミック版「フェイズエリカ」の描写においてもT26軽戦車だけでなくT34/76、T34/85、KV-1、BT-5、BT-7、Ⅲ号突撃砲G型などの多彩な車輌群を保有して試合に参加させていることが明らかになっており、これらの車輌も出てくるとなれば、新登場のオンパレードとなります。当然ながら模型的にも一挙に多くの公式または適応キットの需要が湧き上がってくることと思われます。

 ですが、T34/76、T34/85は公式キットや適応キットが豊富に出ています。KV-1、BT-7、Ⅲ号突撃砲G型はタミヤやドラゴンなどから適応キットが沢山出ています。BT-5もズベズダの製品が市場にかなり出回っていて、これらの車輌群のキットの確保は比較的容易なのではないかと思われます。

 しかし、T26軽戦車はそうはいきません。ここで挙げた車輌のなかでは最もキットの選定が難しいうえに、キットそのものが製品によっては入手困難であったりします。そのためか、既に争奪戦が始まっているようで、1月24日の時点で京都や大阪の大型量販店系の模型コーナーからT26軽戦車の製品群が一気に消えていました。
 個人経営の模型店ではまだ在庫があるところも見られましたが、これらも売切れて無くなるのは時間の問題でしょう。第2話の公開後のように、公式キットまたは適応キットの新規販売を展開していただきたいところですが、現時点では何の情報も得られていません。

 今回は、そのT26軽戦車の適応キットを参考までに1/72スケールで1点、1/35スケールで3点紹介してゆきましょう。

 

 まず、適応キットの絞り込みの前提となる、劇中車の型式について再度おさらいしておきましょう。以前に述べたように、劇中車の車体は上図の3種類の車体のうちのT26Cにあたります。

 

 そして砲塔については、上図の1938年型および1939年型、つまりはM38、M39、そしてOT133が劇中車のそれに該当します。要するに1938年型以降であればいずれでもあてはまります。MシリーズとOTシリーズの違いは砲身だけなので、砲塔本体は共通です。

 以上をふまえると、劇中車はT26Cの車体に1938年型以降の砲塔をもち、かつ砲は45ミリである、ということになります。そしてモデルとなっているフィンランド・パロラ博物館の展示車「Ps.164-7号車」の特徴を忠実に示しているようです。すなわち砲塔は右側にオフセット、車体前面左側に五角形の機銃マウントを有する、等です。
 ですが、本予告編のシーンでは見えない部分も多いため、実際の形状がどうなっているかは、3月26日の公開上映開始を待たなければならないのですが、基本的には「Ps.164-7号車」なのであろう、と推測されます。

 

 以上の見地をふまえて、劇中車に最も近い適応キットを挙げるならば、上掲のミラージュホビーの1/72スケールのT26C 1939年型が唯一です。フィンランド軍の純正T26Cタイプをキット化しており、車体も砲塔も五角形の機銃マウントもほぼズバリです。ただ砲塔が左側にオフセットされていますので、これを右側に移すというのが改造の要となるでしょう。

 

 1/35スケールにおいては、まず上図のホビーボスの製品が挙げられます。砲塔が1938年型なので、劇中車の砲塔と同じです。ただしこれはM38の砲塔なので、劇中車のOT133砲塔とは砲防盾の段差の有無という違いがあります。車体は劇中車とは異なるT26Bタイプですので、ここは改造が必須となります。

 T26軽戦車の適応キットはホビーボスの他にイタレリやズベズダからも出ていて数種類が知られますが、1938年型の砲塔を備えている製品は上図の品が唯一です。

 

 続いて、上図のCAMsの製品は、T-26と車体および足回りがほぼ共通しているヴィッカース6トン車のフィンランド軍仕様を再現しています。いわゆるT26Eに近いタイプで、全体的な形状は砲塔も含めてよく似ています。最近に発売されたばかりの新製品であり、ヴィッカース6トン車系列としては初のフルインテリアキットである点がウリです。エンジンもバッチリ入っています。必要な改造を施せば、劇中車の再現をインテリア付きで楽しめます。

 なお、CAMsは中国の新興メーカーですが、製品はホビーボス並みのクオリティを呈しており、ヴイッカース6トンの系列を次々と意欲的にリリースしています。パーツ割りなどを見ると、おそらく今後はT26軽戦車や7TP軽戦車も出してくるのではないかと思われるほど、それらしい構成内容になっています。しかもインテリアキットが今後も出てくるようなので、色々と期待出来そうです。

 

 そして1/35スケールにおいて劇中車に最も近い適応キットを挙げるならば、上掲のミラージュホビーのOT134/T26Cの新版が唯一となります。T26Cタイプであり、OT133と外観が共通するOT134の要素もフォローしているので、劇中車への再現製作が最も容易であるかに思われます。

 ですが、実際には7TPとパーツが共通になっているため、車体に関してはT26Bのタイプになっています。車体パーツをカットしての改造、が組み立て指示に明記してあるぐらいなので、組み立てにおいては相当の労苦を伴います。砲塔はほぼズバリですが、砲防盾の段差が無く、右側へのオフセットではないので、これらも改造が必要です。
 つまり、これもそう簡単には劇中車再現が出来ないのであり、他のキットよりは幾らかマシである、というレベルです。古い時期の製品なので、ホビーボスやCAMsの製品に比べたらモールドも甘く精度は落ちます。長所といえば、パーツが少なくて組み立て易いこと、ぐらいでしょうか。

 

 以上、T26軽戦車の適応キットを4点紹介しました。上図は私の手元にあるキットで、これは先に紹介したミラージュホビーのOT134/T26Cのキットの旧版です。新版と中身は同じですので、劇中車への再現製作もそう簡単には出来ませんが、他の適応キットを使うよりは手間が省けるでしょう。

 ですが、正直なところ、継続高校のT26軽戦車の再現製作に関しては、上映公開後にもう少し詳細が把握出来てから考えたいと思います。アハトゥンク等の公式設定情報が出てくるまで待つことになるだろう、と思います。その頃にはキットのほうで何か動きがあるかもしれませんし、むしろそれを期待したいところです。

 


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