龍門橋から造路を西へ進みました。かつての天龍寺門前への主参道であり、嵯峨街区の東西主軸路でありました。その道沿いには天龍寺および臨川寺の塔頭が甍を並べていましたが、いまは室町期はおろか江戸期の景観すらも失われています。
造路に面した塔頭のうち、室町期の「山城国嵯峨諸寺応永釣命絵図」や江戸期の嘉永三年(1850)の「天龍寺境内惣支配所六ヶ村麁絵図」等に記載がある寺院は、上図の金剛院のみです。が、位置はやや移動しているようで、かつての金剛院は門を造路にではなく、南北路の朱雀大路(現在の長辻通)に向けていました。
金剛院の門前より西、天龍寺方向を見ました。いまでは道の南側に土産物屋や民家が立ち並びますが、鎌倉末期の元応二年(1320)以降に作成されたとされる「山城国亀山殿近辺屋敷地指図」をみると、北側の金剛院も含めて造路の両側のほとんどの区域が武家の屋敷地になっています。金剛院の位置には「武家人 左衛門大夫」とあります。
この「左衛門大夫」は現在のところ誰に該当するか分かっていないようですが、その屋敷地の東に「山城国亀山殿近辺屋敷地指図」では「寮家領 長井掃部入道給云々」の記載があるのがヒントになります。「長井掃部入道」とは大江長井氏の関東御家人長井掃部宗秀を指し、「給云々」とあるので長井掃部宗秀にあてられた宿所であったことが分かります。
その一族に「左衛門大夫」に該当する人物を探せば、宗秀の大叔父にあたる長井左衛門大夫泰重しか居ません。長井左衛門大夫泰重は六波羅評定衆の一人で、つまりは京都に常駐していた有力御家人です。
長井氏は嫡流の宗秀らが関東に住し、庶流の泰重の系列は大江広元以来の本貫地である京都に住してともに幕府を支えた重鎮の一統でありました。京都在住の庶流の「武家人 左衛門大夫」こと泰重の隣に関東の嫡流の宗秀の宿所があってもおかしくはありません。
金剛院門前より東、龍門橋の方向を見ました。この右側(南側)の区域もほとんど幕府御家人の秋庭(あきば)氏の「宿所」となっていました。「山城国亀山殿近辺屋敷地指図」には「武家人 秋庭三郎入道」以下の面々の給地が並びます。
秋庭三郎といえば、いわゆる新補地頭の一人で備中国有漢郷の地頭職に補せられた三浦氏庶流の一統が有名ですが、中世期における京都での活躍は、足利氏に組みしてからの事績が主で、南北朝期以前までの動向はあまり分かっていません。
ですが、鎌倉末期の段階で嵯峨地区に屋敷地があるということは、少なくとも京都には住していたことになります。秋庭氏は本来は大仏(おさらぎ)流北条氏の家人ですが、主家の北条維貞は正和四年(1315)に六波羅探題南方に任じられて京都に進出しており、これにともなって秋庭氏も京都入りした可能性が考えられます。
同じ六波羅評定衆の「武家人 左衛門大夫」と造路をはさんで向かい合っていますから、「武家人 秋庭三郎入道」もまた六波羅評定衆に連なっていたのではないかと推察します。
金剛院の境内地の西側には、北朝初代の光厳天皇の遺髪をおさめた髪塔があります。在位期間が鎌倉末期にあたったため、北朝の最初の天皇は弟の光明天皇となっています。それで北朝初代という位置づけになっており、光明天皇および次の崇光天皇の在位期間15年間の間は、上皇として北朝の治天(皇室の長)の座にあって院政を行ったとされています。その陵墓は常照皇寺内にある山国陵(やまくにのみささぎ)です。
造路の西の終点は、南北を通る長辻通との交差点となり、天龍寺山門前に繋がります。長辻通は平安期には朱雀大路と呼ばれて当時の嵯峨街区のメインストリートとなっていましたが、中世戦国期にもその役割は引き継がれ、北の嵯峨釈迦堂清凉寺への参詣道でもあるため、中世からの呼称は「出釈迦大路」のほうが多くなっています。
上図は、交差点より北、清凉寺方面を見たところです。平安期の朱雀大路からのルートがほぼそのまま維持されており、中世都市嵯峨の南北主軸路としての面影もよくしのばれます。
交差点より南、渡月橋の方向を見ました。現在はまっすぐに南下して渡月橋を渡りますが、中世戦国期には約100メートルほど東に橋が架けられていて、いったん川岸で右に折れ、道がクランク状に東へ寄っていました。
なので、「出釈迦大路」の南端は、大堰川の河原にあたって古代以来の「大井津」つまり川港になっていました。これについてはまた後で述べます。
造路の終点にあたる天龍寺山門です。観光客の多くはこの境内にも入ってゆきますが、私自身の今回の目的は嵯峨の中世からの歴史風景を復原しながらイメージを楽しんで散策することでしたので、天龍寺拝観は次の楽しみにとっておくことにしました。 (続く)