天龍寺門前から長辻通を南下して、渡月橋に至りました。橋の前で左折して、桂川の流れをしばらく眺めました。
この渡月橋は、中世期には現在位置より約100メートルほど東に架けられていたことが、古絵図などから知られます。そして現在の橋の位置には、古代より「大井津」と呼ばれた川港がありました。嵯峨嵐山は今は観光地ですが、もともとは平安京へ運ぶ材木を川から荷揚げする材木集積地であり、その「大井津」の施設や付帯街区が中世戦国期の都市の骨格のもとになったとされています。
現在の福田美術館の前あたり、上図の位置が中世戦国期の橋の位置です。その向こうの桂川の水面上に「葛野大堰」とよばれる堰が見えますが、その下に古代の大堰の段差が残っています。古代の葛野地方における秦氏集団によって築かれたとされています。桂川の呼称の一つであった「大堰川」の名もそこから来ています。
かつての橋の位置から渡月橋を見ました。古代から中世戦国期に至るまで「大井津」と呼ばれた川港があった場所です。
「延喜式」の第34木工寮には「車載」として材木を平安京に運送する際の費用が記載されます。それに関連する運送ルート上には「山城国」では「前瀧津」と「大井津」とが記されます。「前瀧津」は宇治川流域ですが、位置が特定出来ていません。そして「大井津」は上図の渡月橋の位置にありました。材木の供給地であった丹波国の瀧額津(現在の亀岡市保津)から大堰川を筏流しして、「大井津」で荷揚げし牛車などで平安京の木工寮まで運んだことが分かっています。
この材木供給ルートを開発したのが、古代の葛野地方における秦氏集団であろうとされています。天暦十年(956)8月16日の「山城国山田郷長解」によれば、「大井津」の下流にあったもう一つの川港「梅津」(現在の右京区梅津地区)にて秦阿古吉なる人物が「修理職梅津木屋預」として活動した事が知られます。秦氏は葛野川流域の開発を行ない、その水上交通も担っていたわけです。木屋とは今でいう材木集積所にあたりますので、「梅津」もまた「大井津」と同じく平安京への材木運送ルートであったわけです。
ちなみに、「大井津」からの材木運送ルートは、中世戦国期においては現在の丸太町通にほぼ近いコースであったようです。これは平安京の春日小路および中御門大路に相当するルートですが、従来はこの通り沿いの西堀川に材木商が多かったため、丸太町通の名がついたとする説が知られています。
ですが、古代の「大井津」からの材木運送ルートにほぼ重なっていたのであれば、丸太町通の語源もそれに因んだものと解釈するほうが自然ではないかな、と思います。丸太を運んだ平安京内の道だから丸太町通、そのまんまです。
なので、かつての橋の北詰にあった墳丘というのも、「大井津」の秦氏に関連する遺跡か、もしくは「大井津」に関係した何らかの遺跡であったのかもしれません。いつのころからか、その墳丘が高倉天皇の寵姫であった小督の墓であるとか縁の地であるとか言われて、石標まで建てられています。小督は平清盛によって追われ、一時期この嵯峨に隠棲したとされますが、確証はありません。
墳丘自体は既に開発工事で消滅していますから、今は上図の石標のみが道路脇に移されているだけです。古墳であったのならば、秦氏との関連を考えるのが自然なように思います。
すぐ近くには二つの石標が並びます。ひとつは建長七年(1255)10月に後嵯峨天皇が造立した「亀山殿」つまり亀山離宮のそれです。亀山離宮は後に寺とされて天龍寺となりますが、本来の規模や施設の様子はほとんど分かっていません。
ですが、これまでの嵯峨地区での発掘調査の成果により、現在の嵯峨嵐山文華館の位置に当時の庭園遺構が確認され、またその東側でも大型建物の基礎地業が検出されています。これらは現在の天龍寺境内地より南側、大堰川寄りに位置していますので、亀山離宮の主要部は現在の天龍寺境内地とは重なっていないのかもしれません。
そういえば、「仙洞御移徙部類記」の「京槐記」では亀山殿に関して「御所眺望最も殊勝、亀山大井河の契機は崑崙に類するもの也」とあります。つまりは大堰川を見渡せる場所に離宮があったわけですが、発掘調査の成果とも矛盾しないのが興味深いです。
もう一つの石標は、上図の道昌顕彰の標です。秦氏の出身である道昌(798~875)が秦氏の建設した葛野大堰を修復し,大堰近くに創立された葛井寺を整備して法輪寺とした経緯を示しています。この石標はもとは道昌が造った大堰の跡の近くに建てられていましたが、川岸道路の再整備により現在地に移されています。
ちなみに法輪寺は現在も「嵯峨の虚空蔵さん」と呼ばれるように、本尊を虚空蔵菩薩とします。この尊像は密教では鉱物および鉱脈の神格化ともされ、実際に鉱脈がある地に祀られることが多いので、嵐山の法輪寺ももともとは秦氏が鉱脈を把握して採掘を行ない、その安全と成功を祈念して信仰の地とした経緯によって成立したのだろうと思います。
かつて、前の会社にて平成10年から13年まで葛野四条の事業所に勤務していた頃、同僚に西京区樫原在住の鉱石マニアの方が居て、休日に二度ほど誘われて嵐山の岩田山へ鉱石採集に連れて行って貰った事があります。場所的には法輪寺の裏山にあたりますが、そこに希少な鉱物の鉱脈が露呈している場所が数ヶ所あって、色々な珍しい鉱石を崖面などに見つけることが出来ました。近くに辰砂(しんしゃ)の鉱脈もあったのですが、辰砂は古代では「丹(に)」と呼ばれて寺院や宮殿の朱柱の顔料の原料とされた鉱物でした。
秦氏はそうした鉱物の採掘も行なっていましたから、いまの法輪寺ももとは有力な鉱脈の所在地であったのだろう、ということは前述の体験からも実感出来ます。
いまでは単なる観光行楽地として知られる嵯峨、桂川沿いの公園地区ですが、古代からの長くて奥行きの深い歴史があちこちに横たわり、眠っています。それらを知っておくと、単なる散策も知的冒険の色彩を加えてより味わい深いものとなるでしょう。 (続く)