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中世嵯峨を歩く その6 野宮神社界隈

2021年02月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大堰川河畔の散策路を亀山殿跡よりぐるりと北へ回り、天龍寺境内地の外側の園地の中を進むと、大河内山荘の手前の交差点に出ました。そこで右折すると、上図の有名な「竹林の小径」に至ります。この道も中世戦国期には既に存在した、小路のひとつであったようです。

 

 現在は天龍寺北門付近の竹林で、その美観および景色が海外にも知られて人気スポットの一つになっていますが、かつては平安期から存在した寺院のひとつ舎那院への連絡路であったようです。

 中世の古絵図を見ますと、例えば「山城国亀山殿近辺屋敷地指図」では浄金剛院の関連施設が並んでいた区域にあたり、道の北端には「大湯屋跡」や「六僧坊」などが位置しています。「山城国臨川寺領大井郷界畔絵図」ではもう少し詳しく描写されていて、「野宮」の南から西へと延びる小道となっています。この小道の西には「臨川寺延寿堂 遮那院」とあって、平安期に存在した寺院のひとつ舎那院の区域が存在したようです。

 ですが、舎那院の敷地を描いた鎌倉期の「山城国嵯峨舎那院御領絵図」には前述の小道は描かれていません。鎌倉期にはまだ小道が存在しなかったのでしょうか。

 

 「竹林の小径」を東へ降りていって、野宮神社に着きました。平安期から鎮座が知られ、「山城国臨川寺領大井郷界畔絵図」でも「野宮」と記されて位置も現在地と変わりません。

 野宮とは、皇女および女王から選ばれて天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王が、伊勢への出立前に身を清める祭祀地です。当時は黒木鳥居と小柴垣に囲まれた聖地であり、その様子は源氏物語の「賢木」においても描写されています。

 

 鳥居脇に立つ案内板です。斎王の制度は北朝時代、つまり南北朝期に廃絶したとありますが、野宮そのものは神社として室町期に再興されており、狩野永徳筆の「洛外名所遊楽図屏風」にも野宮社が描かれます。

 いまも神社の前を通る南北路は、中世戦国期の「野宮大路」にあたり、「山城国亀山殿近辺屋敷地指図」や「山城国臨川寺領大井郷界畔絵図」にも描写があります。嵯峨エリアの寺院群への連絡路の一つとして機能したようです。

 

 その「野宮大路」の南端の分岐の角に、上図の古い石標が建てられています。亀山公園道の道標の一つです。

 

 下に「此附近」と続けて「檀林寺の旧址」および「前中書王の遺跡」と刻まれています。檀林寺は、嵯峨天皇皇后の橘嘉智子が承和年間(834~848)に建立し、唐の禅僧義空を招聘して開山とし、日本最初の禅学道場として設けた寺です。その後延長六年(928)に焼失して程なく廃絶したため、いまでは正確な位置すら分かっていません。
 ですが、付近の発掘調査で平安前期の遺構群が検出され、九世紀の土器や瓦が出土しています。瓦のなかには「大井寺」銘の軒平瓦が多く含まれており、同様の瓦が天龍寺境内地の発掘調査でも見つかっています。「大井寺」と「檀林寺」の関係は不明ですが、位置的にはほぼ同じ範囲にあるようなので、両者は同一の寺院である可能性も否定出来ません。

 前中書王は、醍醐天皇の皇子兼明親王の別称です。源姓を賜って左大臣に達した高級官僚でしたが、関白藤原兼通の計略により親王に復されて閑職の中務卿に補任されたため、嵯峨野の山荘「雄蔵殿」に隠棲しています。その住まいの跡がこの辺りにあったのでしょうが、これも正確な位置は分かっていません。
 ですが、野宮神社を含めた嵯峨北部の地域には、「山城国嵯峨舎那院御領絵図」でも描写されるように、摂関家および院近臣の所領が幾つかあった事が知られます。九世紀初頭の時点で桓武天皇の皇子伊予親王の「大井荘」があったことが知られるように、皇室の所領もかなり存在していたようです。前中書王こと兼明親王が隠棲した「雄蔵殿」もそうした事例の一つであったのでしょう。

 

 野宮神社の辻から朱雀大路つまり長辻通への道を歩きました。一度振り返って野宮神社の方向を撮影したのが上図です。この辺りには中世戦国期には左手に浄金剛院、右手に西禅寺が甍を競っていましたが、いまでは全てが廃絶して竹林が広がっています。

 多くの観光客は、「竹林の小径」エリアは昔からずっと竹林だったと思っているようです。実際にはこの辺りも寺院や民家が立ち並ぶ中世都市嵯峨の一角でありましたから、その全てが失われた廃墟のうえに、竹林が広がって行った結果がいまの景観であるわけです。  (続く)

 


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