気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の4 「城跡から街中へ」

2016年10月27日 | 倉吉巡礼記

 田内城跡は、倉吉の旧市街地のほぼ北に位置して小鴨川流域を一望出来る要所に位置しています。南には打吹山もよく見え、その秀麗な山容が抜きんでていることが分かります。
 地域支配を危機管理の観点から突き詰めた場合、もっとも要害性に優れた打吹山に拠点を移そうという発想は、山名時氏や山名師義でなくとも抱いたことでしょうが、当時は最大の集落が見日千軒であり、最重要な交通路が小鴨川の水運と川沿いの因幡街道であったため、山名氏はこれらを眼下に掌握するための拠点として仏石山に着目、最初の守護所をこれに置いたのでしょう。


 ですが、いまの田内城跡の本丸は、守護所の居館施設を置くには狭すぎます。平均的な四間四面の殿舎すら建てられません。守護所の格式をもたせるならば、塀や門も構える必要がありますが、それらも地形に合わせると建設そのものが無理です。

 なので、Kさんがもらした感想は、当を得ていたと思います。
「ほんとに守護所がここにあったの?もっと広い敷地を見日千軒の近くに幾らでも確保出来たんと違うかね?いまのこんな広さやったら、建物一つだけで窮屈になるね」

 他の国の守護所は、多くが平野部に広壮な方形居館を構えていますから、伯耆国守護職山名氏も、出来ればそうしたかったのかもしれませんが、しかし当時の小鴨川は暴れ川と呼ばれ、毎年氾濫を起こすことで有名でした。流域の人々はつねに水害に悩まされ、田畑は幾度も被災して結果的には凶作も少なくありませんでした。見日千軒が川に接して水運の要所になっていたため、守護所もそれに近接していれば政務が取りやすくなりますが、しかし氾濫で守護所がやられると、伯耆国の政治はそこでストップしていまいます。

 ですが、室町幕府の政治体制における守護の任務の第一は、任地における政治的空白を生じさせないことでした。これは南朝残存勢力への対策でもあり、足利将軍家の直臣として幕府の威令をあまねく全土にゆきわたらせ、守護の権限をもって国土の支配と安泰を確立することが重要でした。
 しかも初代守護の石橋和義は任地に赴いた形跡がなく、その代官の政務すら機能していたかも不明ですから、実質的には山名時氏が、戦乱で荒廃し生産力も低下していた伯耆国の立て直しをはからざるを得なかったものと思われます。

 なので、守護所もとりあえずは急造仮設の施設とし、小鴨川の氾濫水害に巻き込まれないように高所におき、もって見日千軒と交通路を掌握、次の段階で守護所を本格的に整備する、という流れでの政務活動をとったものと推測されます。そのイメージで考えるならば、仏石山の上に仮の簡素な建物をしつらえてとりあえず守護所とする、という状態だったとしても良いかもしれません。

 ですが、嫡男の山名師義は打吹山への移転を期したと伝わります。史実かどうかはともかく、田内城の規模と位置では、政務を執るにも色々と不便だったであろうことは想像に難くありません。後の時期には山名氏の居館が現在の大岳院境内地にあったとされていますが、それは居館というよりは守護所であったと考えた方が自然です。
 大岳院の館跡は、一般的には山名小三郎氏豊の館、ということになっていますが、遺物の年代観は十五世紀なので時代が合いません。一世紀ぐらいはずれています。そのあたりもふまえて、山名氏とその守護所の位置について再検討してみることが、これからの歴史観においては必要になってくるでしょう。その考察の起点が、この田内城跡であり、その現存遺構が完全に戦国期十六世紀の様相を示している点にもっと留意すべきでしょう。


 城跡からは、模擬櫓の横の急な九十九折の散策路をたどって下山しました。散策路、というには細くて急坂なので、登るにはきつく、降りるにも注意が必要でした。
 しかし、眺望はよく、打吹山方面は視界が開けていました。周囲の樹木が高く伸びていなければ、見晴らしはもっと利いたことでしょう。


 麓の裾を巡る道に戻りました。丘の北側に広がる墓地への参詣道としても使われていますが、その道を尾根筋まで上がると城跡への散策路に繋がります。ゆるやかな登りなので、城跡見学の際の往路には適していると思います。


 降りてきたばかりの急な九十九折の坂道の入口が上図の場所です。標識は外れて下に置いてありました。


 車道に戻って岩壁の岩阿弥陀を拝みました。例の大水害で見日千軒が壊滅した時、当時の守護所はまだこの仏石山上に在ったのでしょうか。それとも、大岳院の位置などに移されていたのでしょうか。現時点では、それすらも分かっていません。
 倉吉エリアでは、古代や近世以降の歴史は割合にいろいろと明らかになっているようですが、中世戦国期のそれはさっぱり分かっていないことが多いです。


 昼近くになったので、倉吉の町並みに向かいました。途中で思いついて、和菓子店の「まんばや」に立ち寄りました。


 なにか土産を買うのかね、とKさんに聞かれ、ひなビタのパネルの一つを見たいので、と答えました。


 東雲心菜です。今まで唯一、定位置を確認していなかったパネルです。Kさんはアニメやゲームに全く縁が無いため、ひなビタというコンテンツにも余り関心が無いようでした。妙なものを店に置くんやねえ、と話していましたが、これが世間一般の普通の反応であるのでしょう。


 「そう言えば、お前が一番好きだというキャラクターのパネルもあるんか?」と聞かれ、近くの鉄道記念館へ連れて行って芽兎めうのパネルを指差しました。これがそうか、と感心したような、呆れたような表情のKさんでした。


 Kさんの思惑をよそに、芽兎めうは今日も元気でした。めうー。


 鉄道記念館の北側の、国鉄倉吉線跡です。一部が公園化されて御覧のようになっています。Kさんは子供の頃に何度か乗って、ここにあった打吹駅で降りたことがあるそうですが、その時の事はあんまり記憶に無いなあ、と言いました。 (続く)

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