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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の2 「山名寺の山名氏墓所」

2016年10月23日 | 倉吉巡礼記

 定光寺を出て、天神川の北堤防上の県道312号線を進み、三明寺の街区にて左の脇道にそれ、標識にしたがって左折して山名寺に行きました。徒歩で訪ねれば上図の石段を山門へと登りますが、車で行くと右側の車道を経て境内の鐘楼の横の駐車場まで入れます。


 山名寺の本堂です。この寺の前身寺院の創建は延文四年(1359)、当時の伯耆国守護職山名時氏が自らの菩提寺として開きました。開基の南海宝州は新田氏出身の禅僧でした。時氏は応安四年(1371)に没し、法名を「光孝寺殿鎮国道静居士」とされましたが、それに因んで菩提寺の寺号を光孝寺と定めました。
 現在の山名寺は光孝寺の後身にあたるとされていますが、同じ位置にあったかどうかは確証が無く、むしろ室町期に入ってからの山名氏が新たに整備した菩提寺であったと考えるのが良いかもしれません。

 個人的には、山名時氏が伯耆国守護職に任ぜられた時の、平時の屋敷があった場所だったのではないかと思います。守護所を置いた田内城とは指呼の間にあり、その屋敷地を後に寺としたのがいまの山名寺にあたるのではないか、と思いましたが、山名寺そのものに関する詳しい資料がまだ見つからないので、とりあえずの仮説としておきます。


 山名寺にとっては特別の意味をもったらしいハナショウブを、「花かつみ」として紹介しています。Kさんは「花のことよりも、山名寺の由来や光孝寺との具体的な関係が知りたいね」と呟いていましたが、私も同感でした。


 本堂には、山名氏の家紋がかけられています。現在は山名氏ゆかりの寺としては唯一の存在のようになっていますが、もともとこの寺だけだった、ということはないと思います。もとは六分の一殿と呼ばれて諸国に系譜を広げた山名氏なので、他地域にも似たような寺院があるはずなのでが、勉強不足のために詳細をいまだに知りません。

 山名氏の嫡流は、戦国期には但馬国守護職および因幡国守護職にあり、伯耆国守護職は最終的に尼子氏に代わっているので、山名氏は伯耆からほぼ撤退しています。その際の混乱が、史料の散逸なども招いて、余計に史実がはっきりしなくなっている部分も大きいようです。


 なので、境内地にまつられる山名氏関連の墓塔群も、誰の墓なのかは詳らかでなく、かつては境内のあちこちにあったのを集めたものといいますから、原所在すら分からなくなっているわけです。現存墓塔の多くは室町期の一石五輪塔や宝篋印塔で、一部に逆修塔も見られますが、山名時氏の時期にさかのぼる古い遺品は見当たりません。
 しかも、大きな墓石は無く、本当にここが伯耆国守護職山名氏の墓域だったのかと疑問にすら思います。山名氏関係者たちの墓地、という表現のほうがしっくりきます。それでも現状がこのようなので、戦国期の動乱期には山名氏の衰退とともに寺も墓地も荒れ果てた時期があったのだろう、と想像されます。


 境内地の背後の高所に続く参道です。奥に山名時氏墓所と三明寺古墳があります。


 現在の山名時氏墓所です。全盛期には六十六州の六分の一にあたる十一の守護職を受けた山名氏の、実質上の始祖にあたります。ですが、以後の伯耆山名氏は内紛が続いて惣領が但馬山名氏に転じたため、分流もしくは庶流に転落して、在地勢力南条氏以下の台頭を招くことになります。


 礼拝後に、Kさんが墓石の各所を観察しつつ「この墓塔はなんか寄せ集めみたいやな、基礎はどうみても新しく見えるな」と呟きました。
「因幡侍従、その見解は正しい」
「やっぱりそうか、墓石そのものも山名時氏のものではないか・・・」
「いや、墓石の本体は間違いなく南北朝期の特徴があるので、時氏のものと見てもええよ。でも基礎の石組は最近のものやな。昭和17年に山陰本線の改修にあたって山田から移して改葬しているから、その時のものやろうな」
「ちょっと待て。山田ってな・・・、北栄の山田別宮のことか?たしか八幡宮があったと思うが」
「同じ久米郷になるんで、大体はその辺りやろうな」
「この墓は、もとはそこにあったわけか?山陰本線の改修にあたって改葬、ってことは、昔は線路の近くにあったってことか?」
「資料をまだ得てないんで詳しくは知らんのやが、たぶんそうやろう、とは思う」
「すると、光孝寺っつうのもその辺にあったわけかね?こことは全然場所が違うぞ。直線距離でも4キロぐらいは離れとるね」
「せやからな、光孝寺についてのちゃんとした資料を見たくて探してるの。倉吉の図書館には無かったんで、湯梨浜か北栄のほうでいずれ探してみる積り。どう考えても、ここ山名寺がそのまま光孝寺の場所であるようには思えないんでな・・・」
「それは僕も同感やね・・・。伯耆守の仮説通り、山名時氏の屋敷跡、とみたほうがええんじゃないかと思う。守護所田内城に近いしね・・・」


 山名時氏の墓塔は、宝篋印塔の形式ですが、上図のように塔身および基礎の風蝕が激しく、反花座部分は完全に別石に換えられているようです。どうみてもまともな状態で祀られてきたとは考えにくく、かつては荒廃していた期間が長かったのではないかと想像されます。

 室町幕府伯耆国守護職の初代は足利氏一門の石橋和義が初代でしたが、伯耆国に赴任した形跡が無いようなので、二代目の山名時氏が実質的には初代の伯耆国守護でありました。その墓石がこんな無残な姿である事自体、いかに室町期以降の伯耆国の政治が安定していなかったか、いかに山名氏が内紛と衰退を重ねて国内を不安定にしてきたか、を如実に示しています。
 このように、文化財は、歴史の実情を鮮明に物語るのです。 (続く)

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