気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く11 その15 「大貫商店会歴史ギャラリーです!!」

2014年11月18日 | 大洗巡礼記

 曲松商店街に戻って最初に「江口又進堂」に行きました。二日間の水浜線跡探索の結果報告をするためでした。この廃線跡について最初に教えて下さったのが江口さんなので、御礼の意味もありました。


 店内にて缶バッジ群の展示を眺めていると、奥から江口さんが戻ってきて「廃線跡、みてこられました?」と訊ねてきました。もちろんです、と応じました。


 今回の探索結果は、持参した地図数枚のコピーに記入しておきました。それを見せながら経緯を報告しました。江口さんは「さっすが、細かく調べてるねえ、知らない杭もかなりあるね」と嬉しそうでした。
「この地図ですが、江口さんも必要でしょう」
「あっ、それは絶対に欲しい。コピーさせてね」
 そう言って奥のコピー機に向かってゆく江口さんでした。 上画像は、店内に展示してあるピットロードのあんこうチームⅣ号戦車EDバージョンと左衛門佐フィギュアです。いずれもファンの方からの寄贈品だそうです。


「やっぱりねえ、13日のウォークにも参加してくれない?」
「いえ、前にも申し上げましたが、その時期には仕事で出張ですので・・・」
「そうなの?案内人を本田さんがやって下さるんだけどさ、星野さんとなら絶対に話が合うと思う」
「以前に一度お会いして話したんですけど、お察しの通り、奈良の廃線跡のことで一時間ばかり盛り上がってました」
「でしょうねえ、水浜電車の廃線跡だってここまで探索して調べてくれたんだから、そういうのを13日に本田さんと色々話したら面白いのにねえ」
 とにかく残念そうにつぶやく江口さんでした。廃線跡探索の成果はいずれブログでレポートさせていただきますので、と言いました。それに続けるようにして、新たな情報を教えて貰いました。

「そういえばさ、いま教育委員会が発掘調査をやってるんだけど、中世の堀切が出たって聞いたよ」
「堀切ですか、城郭遺構の範囲を調査してるんですか。場所はどこです?」
 江口さんがゼンリンの大洗町の地図を広げてページをあちこちめくり、該当のページを開いて「ここで道路を通す計画があって工事してるらしいんだけど、発掘調査やってるのはこのへんだ」と指し示してくれました。
 その場所は、大洗高校の南約900メートルに広がる低丘陵地域にありました。現地へは以前に一度立ち寄ったことがあるので、あの辺か、と思い出すことが出来ました。大洗町域において最も中世期の遺跡が集中することで知られている範囲です。城館関連の遺跡だけでも、龍貝館、飛城遺跡、登城館、字後新古屋などの四ヶ所が、すでに複数の城郭研究者やマニアによって探査され報告されています。
 江口さんが地図で教えてくれた道路計画線は、どうやら登城館の東側の外郭ラインを通るようで、その範囲には以前から竪堀らしき遺構が報告されています。竪堀が実際に配置されていたのであれば、付近にも相当規模の堀が埋没している可能性があります。発掘調査で検出されたという堀切は、そのいずれかに繋がるものかもしれません。だから、出るべくして出てきた堀切だなあ、と感じました。

 それよりも、問題は、茨城県下においても稀な集中度を示す中世遺跡群がまたもや開発工事の波にさらされて破壊消滅の危機に直面していることです。現地は以前に「県住宅供給公社」によって買収され宅地開発が企図されたのですが、経営悪化や破産事件によって計画は頓挫、事前発掘調査が行われたのみで終わりました。現地はそのままの状態で放置されていたそうです。
 そして、2010年には同地域が大洗町および企業による買取り範囲に含まれ、改めての開発がされることになったようです。その手始めに道路を新規に通す工事を進めており、一部は既に完成していて地図にも見えます。その延長上に、前述の登城館をはじめとする中世遺跡群が広がっています。一帯は大貫台地と呼ばれますが、それを含めた低丘陵地域の南端の涸沼側には、大洗町を代表する戦国期城郭遺構とされる「大館館」および「小館館」が位置し、北端の大貫地区側には以前にレポートした「ウツギ崎砦跡」があります。
 そうした遺跡分布をふまえますと、いまの道路計画線の延長上には、未知の遺跡がまだ埋もれている可能性を否定出来ません。それらも含めて今回の開発工事で破壊消滅の危機に瀕することになるわけです。この点に、大洗町当局の歴史認識の浅さが浮き彫りになりますが、それもふくめて文化的行政の実態が所詮はこの程度か、と情けなくなります。


 そこで、大洗町役場へ移動して、現地の状況と開発工事の概要、ならびに教育委員会による発掘調査の位置などを問い合わせてきました。通り一遍の応対ではありましたが、最低限必要な情報は得られたので良し、でした。


 役場から出て考えましたが、これからの時間をどうやり繰りしても、この日のうちに問題の発掘現場へ立ち寄る余裕は無さそうに思えました。堀切が出たのは想定内のことなので、無理して見に行かなくても良いか、と思い直しました。

 奈良に住んでいた25年間に、大和国の中世戦国期の歴史に興味を持ち、奈良県下の中世戦国期の城郭遺跡300ヶ所余りを探査してきた私の観点からすると、重要なのは堀切ではなく、龍貝館、飛城遺跡、登城館、字後新古屋などの遺跡群の全体像と遺構分布の具体的な規模の把握、という問題です。それを一見してみるのも楽しいかもしれませんが、おそらく大貫台地の全域を回るには最低でも三日ぐらいが必要でしょう。それも草葉が枯れて山林内の見通しが良い冬場の時期に、です。
 要するに、12月ぐらいから3月ぐらいまでの時期に、最低でも二度、三日以上をかけて現地を探査しないと、とても当該エリアの中世遺跡群の概要すら把握出来ないでしょう。しかも道路工事はいま進行中なので、現地へ行く機会を得る前に工事が進んでしまうケースの方が、可能性としては高いです。もう、これは運命まかせだろうなあ、と思いました。

 それよりも、気になったのは、大貫台地を含めた低丘陵地域の遺跡分布において、北端に位置する「ウツギ崎砦」と同じ側の東寄りにある浅間神社の位置でした。地形的には要地で、地形が険しければ要害としての条件が満たされます。この浅間神社が、どういうわけか、大貫商店会歴史探訪イベントスタンプ設置場所の一つに含まれているのでした。何か謂れのある古い神社ですか、と役場でも訊いたのですが、「さあ、よく知りませんねえ」の返事のみでした。
 要するに、由緒や縁起類が残されて大洗町史にも記述されるような性格の神社ではないのだろう、と思いました。浅間信仰の拠点とかいうような重々しいものでなく、近世期に村の鎮守を適当に勧請してきた流れの一例であったのかもしれません。端的に言うならば、そこにはもともと神社は鎮座していなかった可能性が高いです。

 もし、私が中世戦国期の武士ならば、この場所に何らかの施設を築くことでしょう。そうでないと、有事の際に敵が攻め上がってきた場合、尾根続きの「ウツギ崎砦」と連携して対応出来ません。ここで突破されると、南側の龍貝館、飛城遺跡、登城館、字後新古屋などの四ヶ所に備えがあったとしても、周囲に回り込まれて一網打尽にされてしまいます。常陸佐竹氏の勢力圏に接して、常に流動的かつ不安定な支配状況に終始したのであれば、伝統ある大掾氏の流れとて末端の小勢力に過ぎず、いずれは上位勢力によって淘汰されるでしょう。

 だから、大洗町エリアというのは、中世戦国期の常陸国における境目または抗争地域の一つとして重視されるべきだ、というのが私の基本認識です。意外なほどに多くの中世遺跡や城館遺跡が集中的に分布している点も、もっと注目されてよいはずですが、これについては大洗町の歴史ファンでもあまり気づいていないように思われます。日本の歴史の中で、最も人気がないのが中世期だからでしょうか。

 私自身は、これまでの大洗行きのなかで色々と歴史散策を繰り返してきましたが、いまの大洗において本気で調べたら一番面白いのは中世戦国期だろう、と常々思っています。ですが、文化財的には江戸時代の水戸藩の時期のものが多いので、大洗で歴史散策をやると江戸時代にどうしても偏ってしまいます。
 しかし、遺跡分布でみると、中世戦国期のものが非常に多いです。大洗町の市街区とは別の、南部の低丘陵地域に集まっているので、アクセスの点では多少の難があるかもしれませんが、それをクリア出来れば、思ったよりも面白い歴史的空間と遺跡の数々に出会えるかもしれないのです。
 そうした認識がずっとありますので、これまでにも「ウツギ崎砦」を訪ねたり、水戸市エリアの「平戸館」まで遠出して調べたりしてきたわけです。今後は、大貫台地上の中世遺跡群にも探究の眼を向けてゆくことになるかもしれません。機会に巡り合えるかはまだ分かりませんが、楽しみなことです。


 昼食は、近くの蕎麦店「武山」にてとりました。


 ざる蕎麦をいただきました。定食ものもありますが、この店は蕎麦だけでもボリュームがありますから、ご飯とかがつくと満腹になってしまいます。


 何度見ても嬉しくなってしまう、「武山」のざる蕎麦の見事なボリュームです。味も素晴らしく、個人的には一番好きな大洗の蕎麦です。


 美味しい蕎麦をいただいて幸せな気分になり、リゾートアウトレットへと向かいました。その二階にオープンしたという「大貫商店会歴史ギャラリー」を見るのが目的でした。


 リゾートアウトレットについて二階に上がりました。


 施設の南棟へと移動しました。「大貫商店会歴史ギャラリー」の場所がどこにも掲示されていないので、「まいわい市場」で場所を教えて貰いました。


 「大貫商店会歴史ギャラリー」に着きました。


 大貫地区の戦前の古写真などが展示されていました。江口さんの話では、古い写真や文献類を一番たくさん所蔵しているのは「日の出屋商店」つまり現在の「お好み焼き 道」だろう、ということでした。


 その一枚が、上写真です。まさに「日の出屋商店」の店先から水浜線踏切の方向を撮影しています。踏切や遮断機、その左に大貫停車場の建物の一部が見えています。昭和30年代の写真とありましたが、現在の景観とはかなり違います。


 ギャラリー内には、お約束のようにカバさんチームのキャラクターパネルも置かれていました。カエサルとエルヴィンです。


 反対側にはおりょう、左衛門佐が居ました。関連グッズなども売っていて、歴史探訪スタンプラリーを終えたガルパンファンの方が次々にやってきて、ギャラリー内の最終スタンプを押し、景品の歴史探訪小冊子を貰っていました。

 私自身は、歴史探訪スタンプラリーをやる気はあまり無く、五ヵ所のスタンプ設置場所の一つである浅間神社のみに興味が向いていました。どう考えても、位置や地形からみて中世遺跡群の一端にあたるように思われたからです。 (続く)

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