上画像の本は、ネコ・パブリッシングさんが「RMライブラリー」の第63冊目に出版した「茨城交通水浜線」です。初版が2004年11月、第2刷が2006年8月ですのでそんなに古い本ではありませんが、現時点では完売してしまっているようで、版元にも在庫が無いと聞いています。
表題の通り、かつて大洗町内を走っていた茨城交通の水浜線に関する記録や写真などを収録しており、大洗の歴史の一端をうかがうに足る貴重な本です。地元では「水濱電車」「水浜線」「水濱鉄道」など様々な呼ばれ方をしていますが、ここでは、上記の本にしたがって「茨城交通水浜線」または「水浜線」の呼称を採りたいと思います。
この本を初めて読んだのは、去る2014年6月に大洗の「さかなや隠居」に泊まった際でした。店主の大里さん夫婦は、大洗の歴史や近辺の地誌や関連小説類に関心があるようで、そういった本を館内ロビーの書棚に並べておられます。そのなかに「茨城交通水浜線」も含まれています。宿泊客は誰でも自由に読むことが出来るので、私も色々手に取っては、大洗の歴史の一齣一齣にあたらめて触れたりして楽しんでおりました。
そうしたひとときに、店主さん夫婦に色々と昔の大洗の物語などを聞かせていただくことも多かったのですが、「茨城交通水浜線」の場合はとくに思い出話が盛り上がりました。水浜線そのものは昭和41年に廃止されているのですが、女将さんは、つい最近までのことのように電車の姿、乗った時の状況、宿のすぐ近くにあった曲松駅の様子などを語ってくれるのでした。
それで、その廃線跡がいまどうなっているのか、その遺物などは残されているのか、という点をお聞きしたところ、「全然分からないわねえ、もうみんな無くなってしまったのと違うかねえ」との答えが返ってきました。
そうですか、と応じたものの、全てが消滅してしまったわけではないかもしれない、と心の中で思いました。奈良に住んでいた頃に歴史散策の一環として廃線跡の探査を何度が楽しんだ経験があり、「大仏鉄道」や「天理軽便鉄道」や「吉野軽便鉄道」などの遺跡のウォーキングイベントにも参加したことがあります。それぞれの廃線跡の遺構や遺物が、たとえ大昔に無くなった鉄道のものであっても、必ず幾つかは残されて今に至っていることに驚かされた記憶があります。鉄道は、その敷設にあたって大規模な土木工事を必要とし、地形の改変もともなう場合が少なくないので、線路が消滅しても地形に痕跡が残されていることがある、ということを学びました。
そうした経緯があるので、大洗の水浜線についても、廃線跡の遺物および痕跡はどこかに必ずあるだろう、と思っていました。
水浜線の事は、江口又進堂の歴女マダム江口文子さんにも色々と教えていただきました。上図の古地図も見せていただいたのですが、それには水浜線の軌道も見えてどこをどう走っていたかが分かります。駅の名前も位置も、江口さんに地図で具体的に示していただいたので、廃線跡のおおよそのルートや位置は、これまでの大洗巡りのなかで少しずつ現地に確かめていました。
そうして自分なりの「路線図」が脳内に次第に出来上がってくるので、そのルートを可能な限り探査してみようか、といった思いにかられても不思議ではありませんでした。そんな折に、江口さんに「今度の10月13日に水浜電車の廃線跡を歩く催しがあるんだけど、参加しない?」と誘われたのでした。でも10月の大洗行きはそれよりも早いタイミングで予定していたので、一足先に廃線跡の大部分を探査してみますよ、という旨のことを話しておきました。「何か見つけたら必ず教えてね」と応じた江口さんでした。
この廃線跡への関心を高めたのは、上掲の写真でした。冒頭に紹介した本には掲載されていないので、別の書物からの引用と見られるのですが、これが水浜線関係の画像としてネット上に紹介されていたのです。大貫停車場の風景ですが、車輌がいわゆる路面電車タイプであるのと、周囲の風景が現在とまるで違うのが興味深く思われました。
大貫停車場は、いまは駐車場となり、道をはさんで「お好み焼き道」が位置しています。電車が走っていた頃は「お好み焼き道」は「日の出屋」の屋号で雑貨店を営んでいたと聞きました。その看板は現在も残っているのですが、それとは別に、上画像の路面電車タイプの車輌の右側奥に小さく写っている三角屋根にも見覚えがありました。これは今も現存している建物のそれでした。さらに、左端にみえる塀も、いま駐車場の北側にあるそれではないか、と思いました。
つまり、水浜線の景色の全てが失われてしまっているのではない、ということです。遺物がどのくろい残っているかは分かりませんが、かつての風景の一部も僅かながら残っているかもしれない、と感じました。それらを探すというのも面白そうだと考えました。秋ぐらいにやろうかと考えたのですが、9月には頼まれ事があって大洗における缶バッジの調査をしましたから、廃線跡探索が可能なのは10月以降となりました。よし10月にやろう、と思い立ちました。
かくして10月は休暇を利用して四泊五日の予定を組み、1日から出かけました。水戸から大洗に向かう鹿島臨海鉄道の車窓から見えた田んぼアートの「みとちゃん」は既に刈取りを終えて痕跡のみを地表にとどめていました。来年もこの形で田植えをやるんだろうか、次は違うデザインで演出してくるんだろうか、などと考えました。
大洗駅のインフォメーションには、既に「不肖秋山優花里の大洗ガイド大作戦」のスタンプラリー用紙があり、別に大貫商店会の歴史探訪スタンプラリーの用紙もあったのですが、自身の目的が定まっているので、これらのスタンプラリーを楽しむわけにはいきませんでした。廃線跡の探索を進めていって、時間的余裕が出来たら、改めて考えよう、と思いまして、用紙だけを貰いました。
大洗駅です。お約束の写真です。
水浜線のルートは、大洗駅より北にありましたので、まずは駅の駐輪場から北への道に進みました。
次の角で左折して鹿島臨海鉄道のガード下をくぐりました。振り返ると、上の待機線に駐機していた車輌はガルパンラッピング車輌の1号車でした。
涸沼川のほとりの道に出ました。川面には数艘の船がいて、漁をしていました。網を広げて投下していたので、シジミ漁だったのかもしれません。
船をまっすぐに進めるのではなく、横方向へと並行移動し、それによって広げた網を大きく引っ張っているようでした。
水浜線の鉄橋が掛かっていた地点に着きました。その辺りの岸壁には船着き場がありました。
対岸には、線路跡の道路の位置が白いガードレールによって見えました。その下にボートが揚げられていました。あの辺りからこちらに向かって鉄橋が掛けられていたわけです。江口さんの話では、向こう側にもコンクリートの残骸がある、ということでしたので、双眼鏡でボートの辺りを観察しました。それらしい古いコンクリートの塊のようなものが視認出来ました。
右手には県道2号線の涸沼橋が見えます。かつての鉄橋は涸沼橋と並んで架かっていたそうです。
振り返って、大洗町域の軌道跡を見ました。大部分は住宅地内の車道に転じていますが、車道は軌道の倍ぐらいの幅になっているので、どちらか片側の車線部分が軌道の規模に近いものと推定されます。
改めて河岸の鉄橋部分の位置を見ました。コンクリート護岸の下に古いコンクリート片が固めてあり、これらが鉄橋の架台などのコンクリート部分の残骸なのかな、と思いました。その箇所は暗渠の水路口になっていて、線路の下に水路が通っていた形であったのかもしれませんが、線路の正確な位置が分からないので、暗渠との位置関係も不明でした。
川にあった橋脚も完全に撤去されているようです。涸沼川は漁場にもなっていて船の行き来も多いので、橋脚を残すと言う選択肢は有り得なかったのかもしれません。海門橋の方は旧橋の橋脚の台が残されているのですが・・・。
冒頭で紹介した「茨城交通水浜線」には、当時の涸沼川鉄橋の写真も掲載されています。向こうに見える県道2号線の涸沼橋が真新しく見えますが、昭和17年の完成なので、かなり古い橋です。そのまま現在に至っているので、水浜線が通っていた時期も経てきているわけです。戦争中に架けられた橋としては、幅もあって立派な方に属するのではないかと思われます。
この段階までの探索成果を地図上にまとめてみました。廃線跡のルートを赤線で示し、遺構や遺物またはそれらしきものの位置を黒点で記しました。この形で、以後の探索レポートにそれぞれの地図を付けてゆくことにします。 (続く)