前回の記事にて、現存している六波羅探題の北方と南方の御門のうちの北方御門の遺構と伝わる建仁寺勅使門を紹介しましたので、今回は南方御門の遺構と言い伝えられる東福寺六波羅門を紹介します。門の名称がそのまま六波羅になっていますので、東福寺では移築当初から六波羅の門であったという認識が明確になされていたもののようです。
上図は東福寺境内地の南側で、中央奥に見えるのが伽藍正門たる三門です。その左手前にあって、いまは参拝客通用門として使われているのが六波羅門です。右端は勅使門で、常に閉ざされています。
六波羅門の建立年代は鎌倉前期とされ、先に紹介した建仁寺勅使門より古い遺構です。いまの東福寺においては最古の建築遺構とされ、京都御所からの移築である月下門と共に国の重要文化財に指定されています。六波羅探題の遺構というのが明確なうえ、当初の構造材が割合によく残されている点も考慮されたのでしょう。
そのためか、観光ガイド等においては「六波羅探題唯一の遺構」と紹介されているケースが多いです。ですが、門の構造に関して「四脚門」と述べられるのには違和感を覚えます。
この門の造りは、内側から見ると分かるのですが、「棟門」と呼ばれる二脚の構造です。国重要文化財の指定書にも「棟門」と記されます。四脚のように見える外側の角柱は控柱ではなく、後世の補強用の追加材であろうと思います。後に屋根が大きく造り替えられて現在に至っていますから、その屋根を支えるべく、補強の角柱を前後に追加したものかと考えられます。
屋根が大きく造り替えられていることは、上図の軸部や屋根の構成をみれば一目瞭然です。メインの棟柱と横貫と蟇股は当初からの材のようですが、それ以外は後世の修理や改変で追加されたような新しさが感じられます。補強の角柱を前後に追加した状況も明白で、メインの横貫と蟇股の間にはさんで、高さも上げています。こうすることで軒の出を深くとれますから、屋根を大きくして立派に見せることが出来ます。
なので、当初の門の構造はもっとシンプルであることが推測出来ます。御覧のように太い横貫が本来の横木として冠木のようにも見えますが、その上に垂直に渡された屋根の構造材がしっかりはまっていなくて浮いています。だからこれらの構造材も後世の追加であると分かります。したがって、屋根ももとは内側の疎垂木の範囲ぐらいであったことが推測されますが、蟇股の上に渡す棟木が見えませんので、当初の棟木は外されてしまったものかと思われます。
この六波羅門は昭和40年代頃の台風で半壊して大幅に修理を行っていますから、いまの屋根組みはその際に新しく取り替えているようです。扉も同じように新らしいので、同じように取り替えているのでしょう。なので、矢傷などは扉板には全く見当たらず、棟柱や横貫にのみ散見されます。
これらをふまえて当初の部材だけを骨格とみなして建立当初の姿をイメージしますと、まず屋根が今の半分ぐらいになって幅も縮まりますから瓦葺きよりは杮葺きであった可能性が感じられます。その棟門形式ですから全体としては質素で、武家の政庁の通用口としては一般的な姿になります。いかにも六波羅探題の門だ、と納得してしまうのは私だけでしょうか。
東福寺六波羅門の地図です。