気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

京都第十六師団の遺跡巡り その四 輜重兵営の門柱と歩哨舎

2020年07月13日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 軍人湯からさらに伏見街道を南下しますと、七瀬川に架かる上図の古い石橋を渡ります。欄干に「伏水街道第四橋」とあり、明治6年(1873)の竣工銘があります。街道に4つ架けられた橋の四番目にあたりますが、面白いのは伏見を「伏水」と書いてある点です。
 伏見は水どころとして知られて醸造メーカーが軒を並べる街であり、その水を他地域の水と区別して「伏水」と呼びましたが、それが地名称にもなっていて「伏見」「伏水」の二通りがありました。これを「伏見」に統一したのは明治12年(1879)のことでした。

 ですが、モケジョさん達への説明にて強調しておいたのは、この橋が京都はもとより全国でも類例が稀な真円アーチの石橋であることでした。南の川沿いの道に移動して横から見ないと分かりませんが、見事な真円アーチの石組みが驚くほどの美しさを保っています。石を真円に組み上げるのは今でも相当の技術を要しますので、明治6年にこうした石橋を築いていた事自体、驚嘆に値します。文化財指定の価値は充分にあると思います。
 事実、モケジョさん達も「スゴーイ」と感嘆していました。観光需要喚起のためにあえて写真は載せませんので、興味をお持ちの方は是非現地へ訪れてみて下さい。

 

 伏見街道をさらに南下して藤森神社の西を過ぎ、喫茶店のある辻で右折して西へ進み、京都教育大学深草寮の南側へ回って墨染通りから右折、京都教育大学深草寮南口を入りました。少しゆくと、左手に上図の遺跡案内板があります。
 上図のとおり、京都教育大学深草寮等の敷地一帯は、かつての第十六師団輜重部隊の兵営であったところです。

 ユキさんが「輜重部隊って何ですか」と訊ねてきたので、補給を任務とする部隊ですよ、と答えましたところ、横からミカさんが「太平洋戦争中に各地の日本軍が補給に苦しんだって聞きましたけど、こういう輜重部隊が足りなかったからですか?」と聞いてきました。
 足りないというより、陸軍としては太平洋の広大な戦域への部隊展開に輜重部門がうまく対応出来なかった面が大きかったようだ、太平洋の島々に部隊が分散してしまうから、輜重部隊もバラバラになってしまいがちで補給能力も低下する、海軍の補給支援も不十分だったらしい、と説明しておきました。

 

 案内板の奥の林の中に、輜重部隊兵営の門柱と歩哨舎が移築保存されています。もとは私たちが進んできた南口に置かれていたのですが、保存のため、敷地内の奥に移されたものです。

 

 歩哨舎の正面です。この戸口に歩哨が直立不動の姿勢にて警備についたわけです。私が歩哨兵の真似をして実際に立ってみせたら、モケジョさん達もノリノリになって3人が順番に同じ位置に立って歩哨兵になりきったりしていました。
 しかし、台詞は「不肖細見、警備に立ちます!」「細見殿、警備御苦労であります!」などと完全にガルパンの知波単学園のそれでありました。相変わらずでした。

 

 次に上図の門柱のところで、ミカさんが「第十六師団は太平洋戦争中はどこに居たんですか」と質問してきました。フィリピンですよ、フィリピン諸島の防衛を担当してマッカーサー率いる連合軍を迎え撃ったんです、と答えると、エリさんが「するとあれですか、ルソン防衛とかレイテ戦とかの悲惨な戦いのことですか」と思いついたように言いました。

 これらの戦闘で第十六師団は師団長牧野四郎中将以下約1万8千人が戦死して壊滅、生存者は僅かに580人であったことを説明すると、モケジョさん3人は一様に静かになり、エリさんは門柱に向き直ってそっと手を合わせていました。エリさんの実家は同じ伏見区で現地にも近いので、もしかすると親戚か知り合いに第十六師団関係者が居たのかもしれません。

 これで京都第十六師団の遺跡巡りは完了し、西の国道24号線まで歩いて市バスに乗って京都駅にて解散しました。今回は約2時間で主な遺構だけを見て回った形でしたので、見ていない遺構や建物もありますが、その全部を見て回ろうとすると、半日はかかると思います。  (了)


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