前回の記事にて、現存している六波羅探題の北方と南方の御門について触れましたが、今回は北方の御門の遺構とされる上図の建仁寺勅使門を紹介します。
御覧のように、建仁寺伽藍の南に位置して南門の格を担いますが、勅使門の名の通り、勅使のみが通る門であったようです。住持および寺僧や参詣者は西門または北門から出入りするのが常であったようで、いまでも建仁寺一山の総門は大和大路に面した西門が担っています。
柱や扉に矢の跡がある事から、俗に「矢の根門」と呼ばれます。建立年代は鎌倉後期とされますが、実際には鎌倉末期とみたほうが良いぐらい、細部や構造には特徴が幾つか見られます。後世の修理による改変もあります。
伝承では、平家一門の六波羅邸の館門を移したといい、別伝では六波羅探題の北方の御門を応仁の乱後に移築したものというが、いずれも確証はありません。建物の実年代をふまえるならば、六波羅探題の北方の御門を応仁の乱後に移築したとする伝承のほうが可能性が高そうに思われます。
建物自体は四脚門ですが、内部の構造がちょっと変わっています。棟の直下まで棟柱を建てて控柱とを虹梁で繋ぐ方式ですが、一般的には吹き放ちとする貫の上部が白壁で区画されています。寺院の門には珍しく、類例としては古代の官庁の門建築の構造が挙げられます。
つまりは政庁クラスの門の形式に近いのですが、この場合、六波羅探題の北方御門の移築という伝承は見逃せません。六波羅探題は鎌倉幕府の出先機関であり、京都における政庁としての機能を有していましたから、その門だったのであれば、寺院に似つかわしい形式であるのも頷けます。
ただ、門そのものは修理や改変を経ているようなので、今述べた構造が建立当時からの状態であるかは分かりません。ただ、建仁寺も鎌倉幕府によって創建された寺なので、同じ由緒をもつ六波羅探題の門が移築されてもおかしくはありませんが、移築に至った事情は不明です。
柱には矢傷が幾つか残ります。どういうわけか、門の内側に多数が見られますので、外から攻められたのではなく、寺の伽藍内で合戦があったようなイメージがわいてまいります。
しかし、戦闘伝承がつきまとう建築にはよくあることですが、矢傷や死傷者の血痕などが残ると、供養の意味でその部材を付け替えたり、向きを変えたりします。その類ではないかと推察します。
仮にも寺の勅使門ですから、正面にあまり矢傷が目立つのもどうかと思われます。たぶん、移築の際に柱を付け直して矢傷などは目立たぬように内側に向けたのではないかと考えます。
いずれにしても、禅刹の南門にしては背が高くて立派過ぎる建物です。かと言って平家一門の六波羅邸の館門と推定しても立派過ぎますから、鎌倉幕府の京都政庁であった六波羅探題の門とみるほうが良さそうな気がします。
屋根は現在は銅板葺きになっていますが、かつては杮葺きでした。寺院の門は一般的には瓦葺きであり、武家の邸宅の門はたいてい板葺きの棟門の姿で絵巻物にも描かれますので、城郭や公的施設に多く見られた杮葺きの門というのは、やっぱり六波羅探題との関連を考えるべきだろう、と思います。確証はありませんが、そう思っておいたほうがロマンもあると思います。
建仁寺勅使門の地図です。