源氏物語の「宇治十帖」の古跡のうち、確実なのは「橋姫」の橋姫神社ですが、それに次ぐ名所を挙げるならば、上図の彼方(おちかた)神社となるでしょうか。源氏物語の執筆以前から当地に存在していた、延喜式式内社のひとつです。
宇治橋東詰より府道7号線を三室戸方面に50メートルほど進んで左側に、上図のような小さな境内地があります。京阪宇治線の宇治駅に二番目に近い古跡であるため、源氏物語の聖地巡礼ルートの第2スポットになっています。
現在は上図の小さな社殿のみであり、由緒も祭神も今では分からなくなっていますが、境内にある享保十八年(1733)建立の石灯籠に「諏訪大明神」とあるので、かつては諏訪神社であったか、もしくは諏訪神を合祀していた時期があったようです。それ以上に重要なのは、境内の奥に磐座が祀られていることで、古代の自然崇拝の拠点であったことが伺えます。
ですが、江戸期の元禄十一年(1698)の当地大鳳寺村の届書には源氏物語の名所として「浮舟社、手習森、かげろふの石」の三ヶ所が挙げられるのみで、彼方神社の名はありません。
現在では、彼方神社は「宇治十帖」の「椎本」の古跡に比定されていて、上図の案内板も立っています。かつては境内地に椎の老木が2本あったといい、それと「椎本」が結び付けられているのかもしれませんが、作中では匂宮が八宮に贈った和歌にある「遠方(おちかた)の白波」、「をちこちの汀」等の言葉があり、彼方神社の名前に通じます。
古来、宇治川の東岸は「をちの里」と呼ばれ、それに対する西岸を「こち」と呼んで対比させたとの説もあり、宇治川の流れる方向を指す「落ち方」の言葉に因んでいるとの説もあります。いずれにせよ、現在の府道7号線のルーツである平安期以来の「宇治大路」が彼方神社の前を通りますので、宇治が藤原氏の別業都市として造られ始めた際には既に古社の一つとして認識されていたようです。
作中では、八宮は第四十五帖の「橋姫」にて登場し、第四十六帖の「椎本」にて没します。その舞台となった山荘を一般的には「離宮」と呼ばれた宇治上神社辺りにあてているようです。しかし、作者紫式部の認識ではもっと大まかであったのかもしれません。「おちかた」や「おちこち」の和歌にも込めているように、「をちの里」に八宮の山荘をイメージしていた、と捉えるのが良さそうです。
なお、上図の案内板に書かれる、八宮が亡くなった「阿闍梨の山寺」はおそらく実在の恵心院がモデルで、「阿闍梨」も恵心僧都源信がモデルなのでしょうが、その恵心寺もかつては「おちの山寺」と呼ばれていました。つまりは「をちの里」に含まれていたからでしょう。
なので、現在の彼方神社は宇治川東岸の「をちの里」の北限あたりに位置していることになります。磐座が、中世期には結界石としての役目も果たした様相を顧みれば、磐座が祀られる彼方神社というのは、当地「をちの里」の北の境界線にあたっていたのではないかな、と推測しています。
彼方神社の地図です。