<鼻歌で散歩>

くも膜下出血で受け死にかけました。鼻歌を歌って散歩しながら体力つけて100まで生きるつもりです。

そういえば、よく迷子になりました

2005-02-24 08:59:58 | ガルマルの鼻歌で散歩
子供の頃はよく迷子になりました。ふらふらしてるんですよ。いつも。そのくせ、意気地無しだから、母親の姿が見えなくなると泣き出すんですよ。だから、私の迷子になった記事も今ごろ泣いているはずなんです。

一回なんか、母親と買い物に行って、家に帰るバスに乗るはずが、行き先が全然違うバスに乗ってしまった事があります。もう一人の友人と二人でちゃんと確かめもせずにバスに乗ってしまいました。乗ってから周りを見ても二人の母親達がいなかったので、迷子になったらしいという事は、バスが出発してからわかりました。もちろん、お金なんかないからバス代も払う事ができないはずです。どうやって、バスを降りたのか、今でもわかりません。何しろ、小学校に入る前ですから。

不安な気持ちでバスの終着駅まで行きました。二人で泣きながら歩いていると、一人のおじさんが助けてくれました。そのおじさんは私たちと一緒のバス停留所で降りたようでした。あまりに二人の様子がおかしいので、親切にも声を掛けてくれたのです。二人が迷子になった事を知ったおじさんは、親に電話をかけるために自分の職場に連れていってくれました。

職場は病院でした。二人は名前を聞かれて、私も自分のを紙に書きました。すると、一緒に迷子になった友人は私が自分の名前を「ガルマル」と書いたのを見て、「おまえの名前はガルマロだろう」というのです。彼は私が自分の名前を間違って書いているというのです。私もそれほど馬鹿ではないので自分の名前を間違えるはずがないのですが、彼は私の名前が間違っているとおじさん(今考えると病院のお医者さんですね)に主張します。私も、段々、自信がなくなってガルマロだったかなあという気持ちになります。だから、それ以降、そのお医者さんの前では、自分の事をガルマロと呼ぶことになってしまいました。

そんなことで、その病院の先生は私たちに家の電話番号を聞きました。しかし、二人とも家に電話がありませんでした。今では、電話のない家なんて考えられないですけれど、その当時は普通でした。クラス50人のうち、電話を持っているのが5、6
人程度です。だから、連絡網も、先生が、電話を持っている子の家に電話で連絡して、それから、各自、歩いて次の子に連絡事項を伝えていったものでした。当時の連絡網は、家の近い子をうまく配置するように工夫が必要でした。

そんなことはともかく、もう一人の子の父親が新聞社に勤めている事がわかったので、お医者さんは、その新聞社に電話をかけてくれました。しばらくして、その子の父親が新聞社の車で来てくれて私たちは無事家に帰る事ができました。母親は私がいなくなった事に気もつかずに、遅かったわねといってくれたと思います。同じバスに乗っているはずの自分の子供がいなくなったのに、のんきな時代でした。

何年かたって、その病院は精神病院だという事を知らされました。

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