『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く23

2018年07月28日 | 学ぶ

息子がJRに就職できました!
 自転車で所用の途中、向こうの方からニコニコ笑って挨拶をしてくれる女性がいます。年の頃から生徒の保護者の誰かだと思ったのですが、サングラスで表情がわからず、どなただったかなと考えていると、元気よく「Kです」。ああ、そうだったのか!「覚えていらっしゃいますか?」。
 もちろん覚えています。お父さんも、よく立体授業にも同行されていました。10年くらい前になりますが、みんなで行った「餅鉄探し」の吉野川で、同行されていたお父さんがでっかいウグイを釣りあげられたことも、よく覚えています。
 「・・・お見かけしたら、ぜひお礼を申しあげなければ、と思っていました。その節は・・・。息子は22歳になり、おかげさまでJRに就職できました。ありがとうございました」。

 こうして古くからの団員のお母さんにお会いすると、たいてい心から笑ってお話しできます。いっしょうけんめい大切に子どもを育てられている保護者との、開設以来の関係です。人と人との思いやり、人間関係は、やはりこうでなくてはいけませんね。
 大阪市の「教職員」でありながら、子どもの「ちゃちな窃盗」をごまかすための、何とも手の込んだ盗聴の捏造テープと陰謀をめぐらし、社会でもっともたいせつな人間関係を根底から「破壊する」悪人も、今は身近で出てきました。何ともはや・・・。
 人を人とも思わない卑劣な犯行は、やはり教育委員会に問題提起するのが最善の方法かも知れません。今後の大阪の教育界や、彼らに接するこどもたちの成長を考えれば。いずれにしろ「野放しの犯罪教師」は、今回の二人で終わって欲しいものです。

「環覚」を育てるために
 さて、子どもの『環覚』を育てるための提言です。
 こどもたちの指導について、たとえば、ぼくが四六時中こどもたちの傍にいて、彼らの見るもの聞くものすべてについて、その対象に対する好奇心や関心を掘り起こす指導ができればいちばんよいのですが、現実問題として、今の受験体制と教育環境の抜本的改革がなされなければ、それは不可能です。
 また、一方で受験という目的をもつ子どもたちがいる以上、本意ではなくとも、それにも沿うように指導をしなければならないという縛りがあります。二律背反に近い状況ですが、彼らが勉強を進める意味やたいせつさは、どんな状況にあっても、まず伝えなければと、いつも考えています。

 そうでないと、彼らの人生において、もっともたいせつな行動の一つであるはずの、『学習』や『学習すること』が、人生ではあまり意味をもたないという、まちがった認識を身につけてしまいます。今もそんな子がたくさんいるでしょう
 コメ作りやクワガタ探し・渓流教室等で田舎の自然に触れた時、遊びの対象としてテーマに夢中になるのはもちろんですが、それぞれの活動のなかで、日ごろの生活と切り離すことができない、生活の一部になっているsomething(もちろん、対象はあらゆるジャンル、あらゆるものです)に気づくこと、そうした日々の生活や行動の背景には、春があり、夏があり、秋があり、冬があること。そしてそこでは、たとえば生物の生死があり弱肉強食があり、かれらとぼくたちの関係があり、さらにぼくたちのさまざまな生業があること。それらをはじめとする、環境の成り立ちとしくみは、ぜひ目を留め、考えるようになってほしい、そう思っています

 生活や人生は、テレビのバラエティやニュースに目を奪われるなかにはありません。そうしている間にも、ぼくたちが生きている状態は続き、雲の流れに目を留め、風の音を聞き、雨や雪や飛ぶ鳥にも想いが広がる一人の人間がいるはずです。
 植え込みには、けなげに咲く露草の数輪、あじさいの葉に伏すアマガエル、水たまりに飛翔するアオスジアゲハ、そんなシーンに目を留められるようになることが、こどもたちの「環覚」の定着のスタートです。そうした習慣のなかで見つかる小さな不思議や謎が、「学ぶおもしろさ」への大きなきっかけになります。
 こどもたちの生活と人生のなかで、団の一連の課外学習のそれぞれが、その一部として組みあがり、こどもたちの『環覚』が整っていきます。これは当然のことで、僕たちの日常生活そのもの、生きている環境そのものが、すべてつながりの中に存在するからです

 できるだけこうした「つながり感」「総合的視点(つまり環境・対象の成り立ちとしくみへの視点)」を育てていきたいと意図しながら立体授業の内容・指導方法の検討を続けています。毎年、課外学習などの指導により、子どもたちがそれらの体験を一つ一つ積みあげていくことで、学習の裏づけが取れ、学習対象・学習内容に「カン」が働くようになり、科目間の関連にも目覚めます
 これらの細かい指導(方法)の重要性に周辺の理解がともなわないことに切歯扼腕する日々も多いのですが、「団の子どもたちの成長」に目を留め、指導方法を披露していけばきっと同調し参考にしてくれる方もたくさんあらわれるだろうという期待とともに、ぼくの指導が続いてきました。
 「受験合格のための勉強は、本来『生きるための学習』のごく一部」であり、単に手段であり、それ以上では決してないこと」に気づいて指導の検討と改善を重ねていく人が、一人でも増えることを願ってやみません。

 後日展開しますが、学習は『生きることと決して切り離せない行動』であり、そのなかに学ぶおもしろさも存在します。つまり学習は、『受験学習』とイコールではないのです。時代とともに、文字「学習(?)」の浸透によって、文字情報やそれらの知識に対して比重の偏重がおこり、テストによる評価基準が固定化するようになった。それに応じて、対象の情報過剰から、既視感・既知感がぼくたちのなかに蔓延するようになった。そうした環境が、子どもたち(ぼくたち)の本来の学習や学習に対するモチベーション駆動、能力の発揮に対して大きな障害になってしまっている・・・

 そこで忘れられている、たいせつな「戒め」は、古くはソクラテスの『無知の知』が有名ですが、論語の為政篇にも「子曰、由誨汝知之乎、知之為す知之、不知為不知、之知為」とあります。これは、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思いますが、孔子が弟子にソクラテスと同じような意を伝えようとしたものです。「知らないということを悟りなさい」。いずれも、自らを振り返り、その無知あるいは認識不足から、その「学習」をはじめること、あるいは進めることを諭しました。すべてそこから始まります。
 先に紹介した、窃盗した我が子に、その成長を見込んだしっかりした教育を施さないで、学校の指導も片手間に「窃盗の隠蔽」と「責任逃れ」のために、陰謀と盗聴テープの編集・捏造に半年間も明け暮れる教師。中学校の国語の教員であれば、まず、自らこういうことから勉強して、考察を深め、指導能力を高め、未来ある子どもに向かうべきではありませんか? 
 孔子の教えは、わが国よりあなたの母国のほうにしっかり根付いていると去年まで考えていたのですが、あなた方だけに関しては誤解だったようです。しっかり勉強しなさいよ、T先生、孔子の教えも。大阪市の教育委員会の先生方。指導者に人倫を指導する時間を増やさなければならない事態が、現場で頻繁に起こっていることがわかっていますか? そんなことは我関せずでしょうか?  

 閑話休題。そういう認識の元で、ファインマンのお父さんの質問例にあるように、周辺の対象に対する観察を進めるとともに、こどもたちの学習や学習内容に対する関心・おもしろさの発掘に向かい、質問や謎への問いかけ方の研究・技術を研究しなければならない。それが心ある先生の、今起きている学習問題を解決しようとする最善の姿勢です。その姿勢によって「環覚」が掘り起こされ、こどもたちの学習に対する脳の機能が大きく変化します。立体授業がもっている意味は、まず、こどもたちの周辺の事物に対する興味や好奇心を掘り起こすことにあります。
 「そのものの存在」、特にふだん見馴れている『身近な存在』が、ぼくたちの生活にもっている意味や歴史的なつながり、関係のあり方を伝え、あるいは、対象に対する謎をあぶり出し、こどもたちの考察のきっかけが生まれます。子どもたちは意外性とハプニングが大好きです。「天才を超えた天才」ファインマンと、一般の科学者も含めた一般の人との視点や考察の大きな相違は、次の、花の美しさに対するファインマンと画家との比較でも明らかです。
 

 ぼくには画家の友人がいるんだが、時々納得しがたい見方をするんだ。たとえば、花を一輪手に持って、「見ろよ、なんてきれいなんだ」、ぼくもそう思うから、同意しようとする。すると、奴は、ぼくは絵描きだからこの花がどんなに美しいかわかるが、君は科学者だから、この花をばらばらにして、てんでつまらんものにしちまうんだろうな」。
 聞いてる僕は、こいつ頭がおかしいんじゃないだろうか、と思うわけだ。まず、みんなにわかる美しさなんてものは、ぼくだってわかるはずだ。彼のように芸術的に洗練されてはいないかもわからんが、花の美しさくらい鑑賞できるさ。それより、同時にぼくは彼の見る以上の花の美しさを見ているのさ。
 ( “THE PLEASURE OF FINDING THINGS OUT” RICHRD P. FEYNMAN BASIC BOOKS p2 拙訳)
 
 ファインマンはこの後、ぼくにはみんなが見るふつうの大きさでわかる美だけではなく、もっと微細な花の細胞やその内側の複雑な動きだってわかるし、そこにも美がある・・・というふうに反論します。ぼくは画家には見えない美しさがわかるのさというわけです。
 

 こうした視点やイメージのひろがり、これらの発想・考察の視点の深さのちがい、「見かけ」のみに終わらず深く探る想像力は、幼少時からのさまざまな謎や問いかけに対する、数知れない考察のくりかえしによって身についたものなのでしょう
 子どもの環覚の育成、あるいはそれによる学ぶおもしろさの獲得を願うのであれば、まずふだん頭の中にある受験参考書や受験知識のことから離れて、指導内容・指導方法を考えましょう。その指導によって『受験』のことは心配しなくとも、子どもたちはやがて自分で、自らの学ぶべきこと・知りたいこと・考えたいことを見つけて、その後ひとつの「必要悪」として、あるいは自分の『やりたいこと』をやる『場』を確保したいために、周囲が驚くほどのモチベーションを身につけ、受験合格に向かうことでしょう
 「受験の先に目標がある」というスタイルではなくて、「『彼らが決めた、あるいは憧れた目標』をかなえるには、受験もクリアしなければ」というのが、子どもが大きく育っていくための視点であり、正しい成長過程だと考えます。
 その学習内容や指導方法を企画したり考えたりする際に参考になる資料の一つが、偉人たちの回想からの提言や、子ども時代のエピソードです。偉人たちの伝記や回想はたくさんあると思いますが、そういう視点をまじえてよく読めば、子どもを指導するためのすばらしい手がかりが、たくさん見つかるでしょう。
 

 それでは、10年以上前、ぼくが『環覚』と『学体力』というアイデアに目覚めたときのノート、英文の先週の続きです。

To teacers all over the wolld3

 I’m sure, you understand, that the strong motivation to study about our surroundings creates a need for scientists and specialists. We can understand easily,that not only by abstract learning with text books but by exploring interesting things around us. This way, children become scientists and specialists.
 I would imagine that Thomas Edison or Albert Einstein or Masukawa Tosihide was probably not very interested in traditional textbook teaching of that day. The traditional teaching system was not reasonable for the many profound advances and inventions throughout history.
That’s such a pity and we must not overlook that.
All of those parents are earnest about the progress that their children make in schools so they continue to focus on entrance examinations to stay in business.
 

We,as teachers,usually spend much labor and many hours, not worrying about the joy of studying and strong motivation but to teach the process and technical methods for passing entrance examinations. I doubt this problem will be overcome any time so on.
 There may be some teachers who say “We teach the most advanced science and space engineering in our school”, but such teachers must carefully read Dr. Masukawa’s words.
 Some science schools show attractive experiments, but they are not useful for children, it is done only to gain attention. They must lead them to find out the phenomena of nature for themselves. It’s not magic but science.(“Masukawa Hakase No Roman Ahureru Tokubetsu Zyugyo; Dr. Masukawa’s special class of so many dreams” written by Masukawa Tosihide The Asahi Gakusei Shinbun  translated by Minamibuti)
 
 He says that it is useless for children to be taken to attractive learning events such as magic shows, doesn’t he?  If we hope sincerely that the children’s learning environments get improve and their view of studying is continuously enhanced, his advice will guide us as we think about these problems.
These problems are found among children who cannot find anything of interest in their surroundings, further more, their only concept of study is to pass the entrance examinations, and this leaves them with the question: Why must we study?
 
 

They have to do focus on abstract study for examinations by textbook, as cram schools take great pride in the number of students that qualify for elite schools and universities.
 The residue left by this system answers why there are so few children with that twinkle in their eyes for more interesting and advanced study that fulfils their many dreams. Few schools have the aim of bringing up such lovely children. We have to look over our methods and the contents of children’s learning and studying once again, and we must achieve our goals of education in the best way.


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