『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く⑳

2018年07月07日 | 学ぶ

「抽象学習」の愚かしさ
 こどもたちの現在の学習のようすを、ぼくは、よく『抽象学習』と呼びます。「学習なんて、全部『抽象』学習ではないか」という人がいると困る(おそらく、たくさんいるでしょうが)ので、わかりやすいように、その意味について少し考えます。次は「脳は出会いで育つ「脳科学と教育」入門」(小泉 英明著 青灯社)の一節です。

 私たちは外界の世界を見ているとき、意識下の世界まで入れると、かなりたくさんの信号を処理している。情報全部がそこにあるわけではないが、最初に入ってくる生の情報はそのまま入るから意識下をふくめて多くの神経が活動したことに変わりはない。そのあたりが、抽象化された情報、スクリーン上や文字・話を聞いた場合と実体験との大きな差が出るところではないかと思う。実体験とそれ以外では、脳のはたらき自身が本質的にちがうということになる。そういう意味から最初に実体験するということが極めて大切で、実体験をしておけば、かなりな情報量を取り込んでいるので、抽象化されたものが再提示されたときには内部世界で肉付けして本物が再構築されやすい。しかし、実体験がなかったら再構築できない。  (前記書p150~151 要約 下線・文責/南淵)

 わたしたちは「もの」を見るとき、あるいは「なにか」に出遭うとき、視覚や聴覚など、わたしたちの「五感すべて」でその情報の全容(「意識の有無」は別として、ほぼ本来の姿)を受けとり、情報はすべて脳内にインプットされる。ところが、文字化あるいは映像化された情報、端的に言えば、たとえば画面や教科書からの情報は、対象本来のすべての感覚器官による情報が、そこに反映されているわけではない。
 分かりやすいところで云えば、実在のものを、文字化もしくは映像化された何かで見たとき、「それを見ている雨に濡れている自分がいる」とか、「見ているものの後ろに雲がのんびりと浮かんでいた」とか、「聞こえた虫の声」とかは再現されていない。経由する媒体によって表現できる以上の、「実在」が発した本来の五感で受けとれるすべての情報が表現されているわけではない、ということです。

 要素の多寡により、情報によってそれほど影響を受けない対象も中にはあるかも知れませんが、そんな対象に関わる情報でも、「実際に体験する」のと「媒体を通じて」とでは、その積み重ねによって、「次の情報をとらえるときのスキーマの量や質に考えられないほど大きな差ができる」ということは想定できるでしょう(想定してください)。その差は拡大しこそすれ、縮まることはありません。
 そういう実体験を経て積みあげられたスキーマをもつ子どもと、たとえば、ただ文字化された教科書だけを通した感覚による、対象の再構成(つまり初見の脳内イメージ)を比べてみたとき、当初の理解力にも、その後の発達にも、どれだけ大きな差が生まれるかは、容易に想像できるのではないでしょうか。小さな子どもたち、つまり学習初心者や、未学習児童の、対象に対する親近感や認知度が、こうした経験の積み重ねを繰り返す成長の相違によって、計り知れない差になってくるだろうことは明らかです。

 ところが、現在、小さな子たちが学校で指導される学習内容や学習対象は、都市化など学習環境の激変によって、「あまり見たことのないもの・知っていると思っているもの」がますます増大しています。ところが、学習スタイルは百年一律で現在も変わらず、どこでも日々「ほとんど教科書だけによる学習」の連続です子どもたちが、「そのものをよく知っているか、よく観察したことがあるか」という、学習するためのたいせつな前提は、指導者の意識の外です

 今の学習システムや学習指導方法は、数百年以上にわたって、子どもたちにその「理解困難」という「しわ寄せ」を押しつけつづけているのではないでしょうか。多くの人々はその指導の、子どもたちにとっての「えげつなさ」に気づかず、また反省もなく、問題を軽視しすぎです。エジソンが、エングル先生の指導に反抗的になって、『知らないものを何時間も勉強させられた』と文句を言ったのは、そういう意味だったと理解できます(してください)。
 そんな彼のことを「バカな質問をする」子だ、多動症だとか、低脳児という判断を下す人がいたら、その人たちは小さな子どもたちの教育や指導にかかわらないほうがよいと思います。さらに、それらの学習姿勢に対して何ら対策を立てようとしないのなら、その人は先生とは言えません。

  「イメージができない」。わかりやすく言えば、子どもたちは、依然として「見たこともないものをわかりなさい、おぼえなさい」と言われ続けているわけです。そのうえ、そんなものを『勉強する意味さえわからないまま』なのです。自己主張が強いエジソンのような子どもだから反抗しましたが、素直な子たちの多くは、今も、これからもやる気をなくすか、ふてくされるか、あるいは勉強そのものが嫌になってしまう子が増えていくことでしょう
 この現実を、指導する側はきちんと心に落として日々指導しないと大きな成果を手にすることができず、学習環境の抜本的改革は永遠にできません。この本質的な問題に対する、反省や改善策を何ら成されないまま続いているのが、現状の多くの学習指導です。

 こうした学習指導の原因となる問題点は、小さいころから自然にどっぷり浸かり、野外での遊びや体験をくさるほど重ねている(いた)人でないと、よくわからないでしょう。「自分自身も学習事項や学習対象をよく知らないまま、馴染みがないところから出発した(せざるを得なかった)」からです。そうした指導しか知らないわけですから、それこそ「ほとんどイメージの及ばないところ」なのです。『イメージの及ばない人』が「イメージの及ばない子どもたちにイメージの及ぶ指導をすること」はできません。

 現在のように、よく見たこともなく、触れたこともなく、「知らない」のに、「名前は知っている・なんか見たことある」と、その対象がこどもたちの「知っている!」の範疇に入っている限り、また本来貴重である「自然体験」が、誤解された取り組みと指導のまま、ただの遠足やキャンプで終わっている限り、この大問題は解決できません。解決の糸口さえ見つかりません
 みんな同じ大きさのプラスチックケースに入れられ、工場から運ばれてきたゴム粘土と、鳥がさえずり、虫が飛び、魚がはねる川岸や山際で掘り出した、到底自然のものとは思えない驚くほどきれいな青色や白色の粘土でつくった、それぞれの粘土細工によるこどもたちの経験値の差が、小泉氏の言う「イメージの再構築の差になるのだ」と考えてみれば、その本質をさらによく理解できるでしょう。

 「抽象的学習指導」の愚かしさは、ほんとうに子どもたちのことを考えようとする機関・組織や個人がその気になれば、いくらでも改善でき、すぐ解決する問題であると、ぼくは考えます。「こどもたちの学習の元になる」スキーマは、ぼくが伝えようとしている「環覚」養成の指導、日ごろ実践している立体授業によって広く、大きく発達し、すばらしく成長を遂げる子どもたちが生まれます。ぼくが25年以上の子どもたちへの指導でしっかり確認済みです。

偉人や天才が生まれる秘密
 さらに、子どもたちが現在学習する内容の多くは、歴史上の発明や発見や研究・調査の、単に結果や結論であり、まとめです。しかし、その成果を獲得したのは、その時々に生きていた感情や悩みをもっているぼくたちと同じ人間であり、その彼らが生活していた日常の中からです

 ですから、その成長の過程、また偉業達成までの間には、いつも困惑や挫折や大きな感動や感激もともなっていたはずです。いずれにしろ、忘れようとしても忘れられない胸躍る体験の連続だったでしょう
 つまり、今文字や歴史を覚えなければならない子どもたちのように、意識して暗記しようとしなくても覚えられるものばかりだったことでしょう。ぼくたち指導者は、この仕組みを、現在の子どもたちの学習過程にできるだけたくさん導入を図るべきなのです
 ところが現状、子どもたちは、喜びも感激もほとんどなく、「テストの点数をアップするための理解と暗記の努力を続ける日々」ばかりです。手に入るのは「点数アップ」という一瞬の小さな心の動きだけです。それだけでは、学習過程において本来手に入れ、生きていく糧とすべき大きな成長や生きていく自信という、「感動」や「感激」を手に入れることはほとんど期待できません。
 
 人類が獲得してきた知識や技術が抽象化され、学習内容に昇華するまでの長い歴史は、一方で、困ったことを解決し、不思議なことに気づき、おもしろいことに出遭った感動の歴史です。いずれも自然・環境の変化と自分たち人間の絶えざるハプニングにおどろき、問題に困惑し、生きていくためにやむを得ず、あるいはそのおもしろさに嬉々として、その研究や追究によって問題や困難を克服し、歓喜した歴史のはずです。すべて、生きることとともにあったのです。「なぜ」や「何」という疑問や原因や理由を解明する必要が生まれ、研究を重ね、克服と解決を重ねてきたものです。それによって、生きていく自信が生まれ、前に進む意欲が生まれます。生きていく力が身につきます。
 そういう子どもたちにとっての学習本来のもつ意味や人間の教育・学習過程の現実が、現在はとてもわかりにくくなってしまっています。成績の向上目的だけでは、「生きていく力」の獲得という、しっかりした手応えは感じられません。職人の技量の向上による手応えなら、少し話は別ですが・・・。

 子どもたちは、ものを触り、ものをつくり、ものを壊し、成長する人種です。文字を読み、文字を書くだけの「サル」ではありません。現実的にその必要が感じられない、意味がわからない中で、「見たことがないもの(!)」の抽象学習だけを進めるようになってしまっているわけです。それが、学校教育の現状です。そんな中にいて「学ぶおもしろさ」を感じられる子がたくさん出てくる方が不思議です。ぼくたちは、この現実を何とかしなければなりません。
 たとえば、子どもたちが日ごろつくるものは「『できあいのセットされた』商品」ではなく、自ら自然のなかで見つけた木やタケを自ら切り出し、削ってつくったおもちゃであってほしい。その方が、こどもたちの成長にとってはるかに貴重で、かけがえのない体験になると思います。

 この方法は団の『立体授業』の大きなテーマのひとつでもあります。弓や吹き矢、釣り竿、竹とんぼなどを、団では子どもたちと一緒につくります。そして完成すれば、子どもたちがみんなとの競技に使う、自分の道具でもあるのです
 これらの作業は、こどもたちの『環覚』を身につけるのにも、とても役立ちます。良い材料を探すこと、自ら製作することによって周囲の自然や自らの環境に対する「注意深い目」が育つのです
 自らがつくった弓矢で的当てを競い、自らが切った竹竿で川魚を釣り、竹とんぼを空高く飛ばします。こうした行動を通じて、彼らの『環覚』は大きく育っていくのです。

 自然体験が乏しくイメージがともなわないので理解がむずかしい学習、さらに「感動する過程」がなくなってしまった「知識」という「抜け殻」を暗記させられるだけの学習であれば、子どもたちにとって、つまらないのは当然です。彼らが覚えるべきは、学習がほんとうは身近なことを学んでいくものだということ、それらは自らの日々の生活にも大きく関わっていることがわかること。それらを子どもたちに少しずつでも知らせなければなりません。それによって、学習することや学習過程が身近になります
 大きくは、地球から始まり、周辺環境と自らの学習内容が、いかに身近で切り離せないものであるかを「さまざまな体験」を通じて伝え、それに自ら気づけるように指導する積み重ねです。さらに身近になった環境との「交流」を通じて・おもしろいことや不思議なことを見つけられれば、子どもたちは、自らもっと先を知りたくなります。それが偉人たちの経験した成長過程です。

 そのためには、まずさまざまな活動を通じて、こどもたちが「自然環境のようす」に気づき、「彼らの」声を聞き、「会話」ができるようになること、そうです、『友だち』にならなければなりません。そうした経験によって、環境の切なる願いを聞くことができるようになった人がレイチェル・カーソンであり、ゴア副大統領なのです。こうした経験が、こどもたちの学習や成長の大きな礎になるだろうことは、もうおわかりでしょう。
 ここで、少し、逆の学習過程を経た子どもはどうなるかを考えてみましょう。ゲームや情報機器に翻弄され、文字媒体による学習しか知らない子です。
 自然や周囲に対する彼らの「環覚」は上手く育たず、おもしろさにあふれた自然も、気づく環境・機会がほとんどなければ、成長とともに、ただの草やしょうもない樹の集まりであり、気持ち悪い虫や変な鳥の集合でしかありません。現実感のない断片的知識のストックは、仮に入学試験には役だつことがあっても、多くの場合、結局すべて「絵に描いたもち」で、使うことも、役立つことも、それによって心が躍ることもありません。

 「入口の狭い環覚」しかなければ、入ってくる情報も少なく、次第に変化のないマンネリ化した日々を送るようになってしまうことになります。環覚が育たずネットワークの小さいスキーマしか成立しなければ、興味や好奇心をもつ範囲も限られてしまいます。大抵の大人はそうではないでしょうか? 
 「環覚」が大きく育つことによってこそ、周辺情報に対する気づきがはじまり、気づきが始まることによって、周囲のサムシングに対する不思議や問いが生まれます。ほんとうの学びが進むのはそこからです。それによって、こどもたちの学びの『正のサイクル』がはじまり、やがて、偉人や天才もその中から誕生します。

子どもたちが「夢の教科書」を手に入れる指導法―学びの正のサイクル
 さて、それでは偉人の親たちの指導法からわかる、子どもたちが「夢の教科書」と「学びの正のサイクルを手に入れる方法をまとめてみましょう。ぼくが団で追求し、これからもずっと追求したい指導法です。

①  「えっ? これはなに?」

バランスのよい「環覚」の育成。まず自然や環境に気づく目を育てること

 ファインマンがファインマンに、エジソンがエジソンになれたのは、まず彼らの周囲の自然や環境のおもしろいもの、不思議なことに気づく目―「環覚」を育ててもらったことでしょう。この「環覚」がなければ、勉強は、ただ教室内の特別なもの、試験にパスするためだけのもので、自分が生きていること、また生きていくこととは関係のないもので終わってしまいます。自分に関係がなければ積極的に学ぼうという気は起きません。
 「学習が『ただ受験や試験の点数にだけ関わりあるもの』という感覚に終わってしまわないように育てること」がたいせつです。自らの環境や生活の中で「おもしろさやおもしろいものを見つける目」ができ、その不思議や謎を知りたいという欲求が生まれる状況をつくることです。それがすべてのきっかけになります。
  

②  「ああ、そうやったんか!」

そして、なりたちやしくみ・因果関係を考えさせ、世界を解釈できることのたいせつさ、あるいは解明することのおもしろさに気づかせること

 環境や周囲のものなりたちやしくみのおもしろさ・不思議さに気づき、その合理性・有意性・意外性などがわかるようになったとき、学ぶおもしろさがはじまります。学ぶことでそれらが解明できる、勉強することには、実はそのおもしろさも含まれているということがわかることがたいせつです。
 ファインマンは気づいた謎や不思議を自らが解明する、あるいは発見するおもしろさを知ったことで、「学びの正のサイクル」―その後の人生を通じて科学のあらゆる分野に興味を持ち、研究を続けることになった―を手に入れました。学体力の定着です

③   「本はおもしろい!」

自らが見つけた不思議や謎を調べるべく、定評ある本に親しませること(一緒に読んであげること)
 
 調べれば、謎がすっきり解明できる、あるいは本を読めば、たくさんおもしろいことが見つかるというきっかけを用意すること。
 子どもに本を読んであげる場合も、「おもしろいものだという感じを抱かせる」くふうをすること。たとえば、ファインマンの場合は、小さいころ、お父さんに知らない・見たことがないものにも現実感をもてるように、それがイメージできるような読み方をしてもらっていました。それによって頭の中でイメージが明確になり、本の内容の再構成が容易になり、本がおもしろく、身近な存在になったということです
 この本のおもしろさに目を向ける、ということは、とても大切なことなので、過去のぼくのブログで、そのことについて詳しく展開しているところを、もう一度紹介します(「ファインマンの父とエジソンの母に学ぶ」7)。

 我が家にはブリタニカがあってね。まだぼくが小さいころ親父が膝にすわらせて、よく読み聞かせてくれたんだ。たとえば恐竜の項目なんかだと、プロントザウルスか、あるいはティラノザウルスだったかもわからんが、こんなふうにね。
 「これは全長25フィートで、頭の幅は6フィートある・・・」てな具合の記事だと、一端そこで読むのをやめ。こういうんだ。
 「これがどういう意味か、ちょっと考えてみようや。もし、こいつが我が家の前庭にいたら、背の高さは(窓まで)十分だが、首をつっこもうとしてもうまくいかない。頭の幅がちょっとばかり広すぎて、窓をこわさないと近寄れない
(The Pleasure of Finding Things Out  by Richard P. Feynman PENGUIN BOOKS  p3  拙訳 下線は南淵)

 このファインマンの回想をていねいに読めば、子どもに関わるべく心を砕くお父さんに役立つ大きなヒントが見つかります。
 まず一つめ。「子どもを膝にすわらせて」ということですから、おそらく3~4才のころでしょう。その頃に「本格的な一流の事典」である『ブリタニカ』に既に触れ、馴染ませ、その存在の意義やたいせつさ・使い方を伝え、「知の探索」への導入を図っているということです。小さな子どもだからといって、「適当な返事」や「いい加減な答え」でごまかしていません。一流の百科事典で、その正確な知識を伝えるようにした。ふだんからこうした習慣(すぐ調べる。いっしょに調べられる習慣)がつづいていったことになります。
 二つめ。その本格的で難しい内容を、まだ経験の浅い子どもが十分想像力の枝葉をのばし理解できるように読み解いていった賢明さです。ファインマンにとっては、本格的で難解な知識も現実感をともない、イメージが豊かに飛翔し、おもしろくて仕方がなかったことでしょう。こう振り返っています。

 どんなものを読んだときも、できるだけ現実感をもてるように言いかえられたんだ。ぼくはこうして、どんなものを読んでも「実際はどういう意味か、本当はどういうことを言おうとしているか」を、言いかえたりしながらね、究めていくことを教えられたのさ。(笑い)小さいころブリタニカをよく読んだがそれは言いかえてもらってね。でも、おもしろくてワクワクしたよ。そんなにでっかい生きものがいたんだからね。
 (The Pleasure of Finding Things Out  by Richard P. Feynman PENGUIN BOOKS  p3  拙訳)

 ファインマンが「周囲の物理的事象に対しても、イメージ豊かにとらえることができた」大きなきっかけをここに見ることができます。こうした経験を積み重ねれば、ブリタニカという「知を切り開くブルドーザー」を自由に動かせるようになるのも時間の問題です。それによって、以前にもふれましたが、子どもたちが小さいころの「なぜ・何攻撃」をたいせつにし、解決するべく準備も十分整っていたことです。
 子どもたちが疑問に思い、不思議に感じることを、好奇心の冷めないうちに、あるいはあきらめないうちに、忘れてしまわないうちに、さらにどんどん増幅させる環境がありました。それらを速やかに解決していけるということ。それによって『知ること・考えることのおもしろさのビッグバン』が始まったことでしょう。学ぶべきは「恐竜が庭にいる」です。


  
④  「きっといいことがある!」

がまんをすれば、最後にすばらしいことが待っている・すてきなものが手に入る・発見できるということを数多く経験させること

 我慢して努力すればおもしろいことやすばらしい結果が待っているという経験を重ねること。
 これは日頃の習慣やしつけにも関係してくることです。よく見られるゲームソフトやお小遣いを、ご褒美にあげるようなことでは、決してありません。
 子どもたち自らが、周囲の環境に対し興味をもち不思議やなぞに気づき、その解明に向かうようになること、それらを解決する経験は積み重ねれば積み重ねるほど、この世界で生きていくことができる糧、自信になります。それが、この場合の「素晴らしいもの」・「すてきなこと」です
 自ら、このしくみがわかったとき、子どもたちは、たとえば積極的にブリタニカや広辞苑を開き、自らで自らの謎を解明するという姿勢がはじまります。それが、子どもたちにとっての「夢の教科書」と「学びの正のサイクルの獲得」です。


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