『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

勉強のできる子を育てるには21

2017年04月01日 | 学ぶ

自ら学ぶことでわかること
 以前、西大和学園から京大に進んだOBのY君の大学受験に際して、ぼく自身が英語を読むための再学習を始めて原書が何とか読めるようになった話をしました。ぼくの場合、こうした「同時進行」の自らの試みや経験が子どもたちを指導するのにも、とても役に立っています。「新しく学習する方法」や「わかる」ということの意味の再検討です。

 年齢を重ねるとともに、自ら何か新しく学習をはじめるという経験は少なくなります。受験以来ご無沙汰という人もいるのではないでしょうか。小さい頃の勉強のようすや「わかった」、あるいは「わからなかった」経緯や体験をしっかり覚えている人は少ないと思います。特に「わからなかった経験」は思い出したくもないもので、いやな思いが残っているだけでしょう。
 なかには頭が良くて「すべて分かった」人もいるかもしれませんが、簡単にわかったがゆえに、「わからないことがわからない」というジレンマがあります。その経緯やしくみを追求すればよいのですが、自分はわかるのに、忙しい時間を割いてわざわざわからないところをわかりやすく考える必要性はないし、既に他の人がわからないところがそもそもわからなくなっていることも多いでしょう。

 身近で誰に教わることもなく、ひとりで学習(シナリオの手習い)を進めていると、はじめて学習する人の気持ちや状況に改めて目が向きます。そしてY君との英語学習の時もそうだったのですが、「わからないということがよくわかる」ようになりました。
 おとなになると、わからないことを考えるのが面倒になってあきらめたり、見て見ぬふりをして通り過ごしてしまうことがほとんどです。つまり、わからないこと・むずかしいことを、強いて考えないようになる。考える機会がない。考えないことが「当たり前」になる
 しかし、子どもたちはそういうわけにはいきません。「学習の真っただ中」です。すべてを学習し(どれが、何が役に立つかさえ分からない)、何とか理解し、生きていくためのスキルを身につけようとしている存在です。周囲や環境の成り立ちとしくみに出会い、それらを理解したり、研究したり、利用したり、発明したりすることが将来生きていくことです。「なんとなく(!?)でも、生きていくことができるようになった」ぼくたち(おとな)とはあるべき姿が大きく異なります。
 「できない」「わからない」では済まされない。もしかすると、そのひとつひとつが子どもたちの将来の可能性の消失につながっているかもしれません。「自ら学習すること」に限らず(!)、「成長し続けてきた間に消失し続けてきた」可能性が、現在子どもたちにはまだほとんど残っていることさえ忘れてしまっている(きちんと目を向けていないことが多い)。そして、それを追ったり、とりもどそうとする姿勢も思うようにならない環境に身を置かざるを得ない。ぼくは大阪の片隅の学習背景・子育て環境に目を向けながら、日々そう感じています。

 こうした自らの反省や振り返りをしっかり伝えることで、子どもたちが少しずつ日々のふるまいや習慣・時間のたいせつさに目を向けるようになっていきます。気の遠くなるような指導ですが、家庭の協力があれば、その子なりに着実に身につけていきます。

鉛筆が一本
シナリオの関係から「創作」にかかわる本を芋づる式に読んでいて、こんな一節に行き当たりました。(引用は「久美沙織の新人賞の獲り方おしえます」徳間書店 p14)

 ちなみに、それまでの一週間の「芋蔓」は、「3年でプロになれる脚本術」(尾崎将也著 河出書房新社)→「SAVE THE CATの法則」(ブレイク・スナイダー著 フィルムアート社)→「シナリオ作法四十八章」(舟橋和郎 映人社)→「ストラクチャーから書く小説再入門 K.M. ワイランド著 フィルムアート社」→「荒木飛呂彦の漫画術」(荒木飛呂彦著 集英社新書)→「小説と科学」(瀬名秀明著 岩波書店)→「久美沙織の新人賞の獲り方おしえます」(徳間書店)。
 「作文」の指導講義風景を再現しながら、
 
 まだ何にもかいていないひとは、とにかく最初に、なんでもいいですから、かきはじめちゃってくださいね。最初の一文字をかきださないと、絶対にかき終われませんよ。(「久美沙織の新人賞の獲り方おしえます」徳間書店 p14)
 
 ぼくが子どもたちに「書くこと」、「『鉛筆が一本』指導」をするときや、記述式の解答を求める問題に「何も浮かばなくても、まず『アイウエオ』でもいいから書け」と言っているスタイルを思い出しました。
 文字に表現するとき、あるいは「自由に書きなさい」と言われたとき、好きなことを書けたり、升目を埋められるのは、「既に書くことができる子」なのです。自由作文で「好きなことを書いていいよ」と云われても、最初は、「その好きなことが考えられないし、好きなことがわからない」。それが子どもです

 幼稚園の頃、田舎に住んでいたぼくは、「お絵かき」の時間に「好きなものを描きなさい」と言われると、いつも「クジラ」しか描かないので、「ちょっと問題がある」と担任の先生から母に連絡がきたようですが、幼稚園の園長をしていた母は、先生の云うことを全く相手にしなかったと云います。おそらく母が園から持ち帰った「絵本のクジラ」に強烈な印象を受け、ずっと頭から離れなかったのでしょう。この記憶に「自由に書きなさい」という、作文やお絵かき指導の無責任さがはっきり表れているような気がします。

 写真を齧った経験からすれば、「自由に書きなさい」という前に伝えなければならないことがあります。教えておかなければならないものがあります。「ここにこんなきれいなものがあるね」「あの雲の形おもしろいじゃない」「あの葉っぱとこっちの葉っぱ、色や形がちがうね」・・・。
 そうした指導を重ね、感じる、よく見る、よく聞く経験があって初めて、好きなものを書けるようになるわけです。自由に書くものを選べるようになって後、ひらめきやヒント・アイデアも生まれます
 周囲に対する「環覚」、それらを教えないで、ただ「自由に書きなさい」、「好きなものを描きなさい」だけでは、無責任も甚だしい。子どもの指導はそこからスタートすべきだと思います。それによって、自分のモチーフやテーマが生まれてくるのでしょう。「何を書いていいのか」、「自分の好きなものは何か」が未だわからない段階・状態で子どもたちに責任や判断を押しつけるのは「責任放棄!」以外の何物でもありません。

 ぼくの「『鉛筆が一本』指導」は、「まず鉛筆をよく見なさい」から始まります。色・長さ・形・削り方・芯の減り具合・傷や塗料のはがれ・噛み痕・印字・・・。鉛筆ひとつの中に、「思い」を掘り起こせる「きっかけ」がいくらでも見つかります
 テスト中、芯が折れてしまったことやおじいちゃんにもらったお祝いのものであったり、友だちと交換したものであったり、転がして遊んだり・・・と、鉛筆にかかわる想い出や感想をたどっていくと、次第に「話が掘り起こせる」ようになります。書くというのはそういうことです。それらを書いていくことで、「考えながら書く」「考えていることを書く」という『書くしくみ』が頭の中で養われていきます
 もちろん、この「考える対象」は鉛筆に限らず、手近な身の回りのものであれば何でもよいわけです。肝心なのは、その対象について、観察する・思いを巡らすという「書く前提が養われるものでなければならない」ということです。


 何も書けないところからスタートしても、こういうトレーニングと『アイウエオでもいいから書くこと(見る前に跳べ?!)』を続けていくと、書くことが苦ではなくなります。小さい子たちの表現力を養うには、こうした方法が大きな効果を発揮します。
 指導するほうも、書くことに悩み、描くことに苦労して、その悩みに真剣に向かうことで子どもたちに対する指導(法)も見えてきます。ぼくは英語やシナリオの学習(自学)をすることで、「受け売り」でない方法を手に入れました。「指導書や教科書通り」では「平均値の有効性」です。「自ら個に戻ること」で有効な(指導)方法が明らかになります。


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