『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

勉強のできる子を育てるには22

2017年04月08日 | 学ぶ

春に思う
 土筆ハイクを終え、団の軒下にそれぞれ巣箱を取り付けました。
 11月から2月までは受験指導への対応もあり室内での指導が多くなるので、子どもたちもストレスが溜まっていたのでしょう。約半年間の「冬眠?」を経て、楽しみにしていた土筆ハイク・デッカイ筍掘り・でっかい鯰釣り…と一連の課外学習のスタートです。毎年、この時期になると、子どもたちの目がキラキラ輝きはじめます。

 里山・小川・森・渓谷・・・。エアコン・照明・ゲーム・テレビという、人工的な環境とはまったく異なる開放感・空気感・光と生命に満ちあふれた世界がそこにはあります。輝く緑のバリエーション・ノソノソと動き始める小さな虫たち・咲き始めたタンポポやスミレを探す蝶、木漏れ日に鳥の鳴き声、あらゆるものが生きて、そして動いている中で子どもたちの感覚器官も鋭く立ちあがります。
 生きることを学び、食べ物を手に入れる喜びを味わってきた歴史、祖先の遠い記憶が自然との交流で蘇ってくるのかもしれません。生きていくための手段・手がかりを求めるべく感覚器官がはりきって活動を始めるのでしょう。 

 子どもたちとの自然体験は、視覚・聴覚・触覚・嗅覚、あらゆる感覚へのコンタクトをともないながら進んでいきます。先日の土筆ハイクの土筆やいちご狩り、次回の筍掘りや秋のお米やミカンの収穫まで、味覚を含んで五感全部が刺激されます。「感覚器官のすべてで受け取る環境」は深く心に残ります。刻々と入る全身の感覚器官からの情報を受けとることで、それ以降の日々の生活での感覚器官のはたらき方も大きく変わってくるだろう。それも期待しています
 学習は机上の勉強ではなく、身近なものと深いつながりがあると確認できるには、こうした日々の行動による裏付けがなくてはなりません。そしてそれが「抽象学習」の「手ごたえの無さ」を補完します。おもしろさへの「てがかり」になっていきます

 お父さんからさまざまな問いかけやレクチャーを受け、自然の成り立ちやしくみのおもしろさに気づいたことでファインマンは天才としての一歩がはじまりました。エジソンを天才に導いたのも、残念ながら学校ではなく、周囲の自然の不思議さとそれを解明していくおもしろさでした。子ども時代は自然を見るだけでも心が高鳴り、興味をひかれます。

 二人だけではありません。類似の自然体験によって数々の天才が生まれました・・・ニュートン・ファーブル・マクスウェル・・・自然の不思議さに気づくこと、そのなりたちとしくみを究めるおもしろさが彼らの偉業の大きなきっかけになりました
 ニュートンは、再婚した母と離れたさびしさを自然の動植物や月や太陽の光の移動の観察で補いました。その不思議さと驚きや疑問から学問を進めるたいせつさに目覚めたようです。

 ファーブルの伝記からも、彼が最初から虫だけに興味をもっていたのではなく、近くの小川で、貧しい家計の足しになるとの思いから、金のように光る雲母やダイヤモンドのようにかがやく石英をいっぱい集めたほほえましい経験があったこと。魚や小鳥・キノコ・・・とあらゆる自然のものを相手に遊び、観察を進め、育っていったことがわかります。幼いマクスウェルは自然物を持ち帰り、お父さんがくわしく解説してくれることを何より楽しみにしていたようです。

 かつて、「田植えより勉強を・・・」というお母さんや、「校庭に田んぼがあるから…」という先生の認識不足を話題にしましたが、ぼくがいちばん気になるのは、こうした誤解に基づく自然体験の「中身」です。子どもたちの自然体験は、おとなの「紅葉ツアー」や「視察旅行」・「温泉めぐり」などという、感覚とは全く異なる視点がなければなりません。それは先述の科学者たちの自然体験を考察すればわかります。
 自然に浸り、ものに感じ、ものに触れ、そしてその謎や不思議に目覚める・気づくというステージが必要なのです。指導するお父さんやお母さん・先生方が自然に興味をもち、おもしろがる、という前提があって初めて、子どもたちの興味や好奇心が立ちあがります。そしてそれは何も理科や生物に対する関心だけではなく、もっと広く感性の陶冶であり、勉強(学習)に対する興味の喚起になるという視点がたいせつです

「夢の教科書づくり」は道すがら
 出会いで決まる「今日のテーマ」。理科や生物だけに限りません。

 田舎を歩いていると、さまざまなテーマが見つかります。流れの一例です。
 木・年輪・細胞・組織・形成層・死んでいるけど生きている・洞・校倉造・木肌・葉・呼吸・太陽と生長・光合成・養分・タンパク質・デンプン・脂肪・陽樹・陰樹・樹液と昆虫・樹液の意味・成分・広葉樹・針葉樹・温度・落葉樹・常緑樹・空気浄化・オゾン層・防火・地震・千年もつ木造建築・材木の切り方、作り方の相違による耐用年数のちがい・のみ・のこぎり・宮大工・法隆寺・柿・さるかに合戦・木登り・折れやすい柿の木・イラガ・昆虫・被子植物・裸子植物・種子・世代交代の方法・ユズリハ・竹と木・地崩れ・山崩れ・噴火・溶岩・遷移・植物の上陸と進化・コケ・シダ植物・・・。

 なお、これらの項目のすべてを一度の課外学習で話すわけではありません。また、テーマはここに紹介したものに限らず、目的地・出遇うものやコースが変われば大きく変わります。流れの前後やテーマ同士のつながりがまったく変わってしまうこともあります。自然は季節の中で常に変化しているし、自らと子どもたちの経験やタイミングで話したい内容が変わることも大いにあるからです。年間の課外学習総体で話すボリュームはもっと大きくなります。
 これらの学習はよく知っている道筋・見慣れた景色の中で指導を展開することで、より効果を生みます。年間を通して変化していく自然のようすもわかり、環境と生命の営みを総合的・立体的に捉えられるようになります

 こうしてくり返す子どもたちとの共通体験と観察は、ふだんの教室での指導にも力強いパートナー・バックグラウンドになってくれます。学習対象や学習内容のイメージがはっきりすることで理解が深くなり、印象は強くなります。実体験という裏付けとそれによるイメージのふくらみは、子どもたちの学習に近しさと自信をもたらし、学習姿勢や学習態度もより積極的に変えてもくれます。つまり前段の「田植えより勉強」というお母さんや、「校庭に田んぼをつくったから、それでよい」という先生は大きなまちがいをおかしていることが、これでわかると思います。そんな時々隙間から覗くような自然体験ではない自然体験が子どもを育てます。
 

例えば、秋のミカン狩り。ミカン栽培は、「植物の育ち方」についての格好の体験学習です。ミカンづくりの作業に触れ、体験内容に応じて学習知識や周辺知識をタイミングよくフォローすれば、植物の学習すべてに波及させることができます。

 ミカンはポピュラーな果物ですが、みんなが知っているのは八百屋や果物屋でワゴンに並んでいる姿です。実際は「ポピュラー」ではありません。おそらく学校で植物の学習が終わっても、「ミカンはあいかわらずミカンのまま」でしかありません。このようにポピュラーなものほど、ポピュラーではないのです。「お店で見るミカン」が学習内容とともに興味深く立ち上がってくることはないでしょう。子どもたちの現行の学習の問題点がそこにあります。「日常生活また何気ない環境の中で、『学習内容』が思い起こされる」印象的な勉強になっていないのです
 教科書や参考書の学習がきっかけとなって、通りかかったお店のミカンやいつも通っている道端の樹木が存在を主張しはじめると、学びは次の段階に進みます。よく見たり、観察するきっかけができます。それによって学ぶ面白さが生まれることも大いに期待できます。しかし、「生きている日々と関連のとれない学びは、結局暗記に終わる」しかありません

 ファインマンやエジソンなどをはじめとする多くの科学者たちは、子ども時代の環境の中でおもしろさや不思議を見いだしていました。もちろん、現在より自然が豊富で、好奇心が行き場を誤ることも少なかったでしょう。
 であるならば、問題は受け手と環境です。つまり「気づく」あるいは「見つける」ためには自然環境に触れあう機会が多くあり、「受け手が周囲にはおもしろいことがたくさんあることがわかる」ようになっていなければなりません。それによって学習に対する興味をとりもどせるはずです。そのためには、日ごろから子どもたちのアンテナが、ゲームやテレビの方向ばかりではなく、周囲の自然環境にも向くような指導を実行しなければなりません

 たいせつなことは何気ない日々の生活の中で、学習内容が思い起こされるような機会がたくさんつくれること、目標はそういう指導です。それによって学ぶことが身近になり、不思議なことに気づき、おもしろいことを見つける眼が育ちます。「環覚」の育成です。
 「勉強という心の中にあるバリア」がいつのまにかなくなってしまっていること。受験や成績・評価の対象としてだけの勉強ではなく、学ぶことそのものが興味深く、意識しないうちに学んだり調べたりできるようになってくれること、究極の目標はそこにあります

心の中にテーマパークを
 キャンプや遠足・社会見学など、総合学習は、ふつう目的地での指導や展開しか考えられていません。目的地での行動だけが目的であれば、週末に遊園地やテーマパークに行く発想とあまり変わりません。それは、いわば「ハレの日」、特別な場所で、ふだんとは異なるシチュエーション、特別なことを学ぶという感覚での学習です。

 エジソンやファインマンやファーブルはテーマパークや遊園地にいって天才を発揮したのではありません。ふだんの遊びや何気ない生活の中で興味を引く対象を見つけていきました。ファインマンがおもちゃの荷車に乗せたボールの動きを見て不思議に思ったり、エジソンがさまざまな自然現象に興味を広げていったのは、ごく平凡な日常生活でのできごとです。日々の生活の中で不思議なものに気づき、おもしろさを見つけ、それに夢中になり、考え、調べ始めました。

 「遊びに行く」遊園地は何度も通えばたいてい飽きるし、興味をかきたてるイベントは「あなた任せ」です。しかし、毎日「自分だけの新しいイベント」に巡り会うことができれば、こんな楽しいことはありません。科学者たちはディズニーランドやUSJを、自らの心の中につくりあげたのです。「おもしろさを求めにいったのではなく、おもしろさを発見できるようになった」のです。学ぶことがおもしろくなるためには、心の中にそれぞれのテーマパークや遊園地ができなければなりません

 これらの例から振り返れば、おもしろくて仕方がない「勉強」が始まることは決して「偶然!」ではありません。ふだんの生活シーン・街中でも自然の面白さや興味深い出来事はかくれています。それに目が留まり、わかるようになれば、あたりは夢の教科書に変わります
 自然と一体感がもてる高揚感のある野外で、子どもたちの感覚も鋭く立ちあがり、強く印象に残ります。気持ちにゆとりがある郊外では、道を歩いているときでもおもしろいものに目が留まり、不思議なことに気づくきっかけづくりをすることができます。おもしろさを見つける環覚を育てるには、このように、一緒に目的地へ向かう「道程」こそ重要な役割を果たすのです


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