『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

勉強のできる子を育てるには⑤

2016年12月10日 | 学ぶ

子どもたちは、どのように成長するか?
 その子によって多少の時期のずれはありますが、3年生くらいから団で学び始めた子どもたちは、5年生の半ばを過ぎる頃になると掃除や飼育などの「作業」もきちんとできる(あまり注意をしなくてよい)ようになります
 「きちんとできる」という意味は、「『すすめている作業』や『任されている仕事』に対して自分の役割を自覚し責任をもてるようになる」ということです。また、経験を重ねるごとに、作業のすすめ方や次にやるべき「行程!」がイメージできるようになり、効率よく進められるようになります。当然時間も早くなります。こういう子どもたちの行動の変化が学習にも大きく反映します。

 学習というと、「教室で」または「座ってノートと鉛筆をもって」と想像されてしまうことが多いと思います。しかし、「一見学習とは関係がないように見える行動面の成長」を学習(学力の伸長)とまったく切り離して考えてしまうことは正しくありません
 「説明を聞きながら自らのイメージを膨らませ、作業を進める、問題を解決していく」頭のはたらきは、「授業での問題解決・学習内容の理解のしくみ」とも重なります。作業を通じた頭の使い方と指導は「一般に考えられているように無駄や邪魔になるというより、逆に学習にも大いに役立つ」ものです。
 たとえば、「米作り」にしろ、「生物の飼育」にしろ、さまざまな作業を通じて、「目的をかなえ、結果を手にするための努力」という経験を積みます。「当初は意に沿わない作業やお手伝い」を我慢してやりつづけるからこそ、出てきた結果が「満足感」と「自信」に変わります。そのとき子どもたちは、「努力することや作業を頑張ってやりとげることの意味」を手にします
 逆に、頑張ってやらなければ、成果は上がらず満足感や自信は生まれません。学習のすすみ方もそっくりだとは思いませんか? 「苦労や努力がムダにならないという体験」を繰り返すことによって、意識は「当初の苦労・しんどいから次第に苦労ではなくなる」という経過をたどります。

 お手伝いや作業の行程のなかでは、当然「叱られる」という体験をたくさんします。しかし、作業に慣れてきて次第に成長する彼らを見ていると、心から褒めたくなります。次に「頼りがいを身につけた」彼らに、役割や自信をさらに鼓舞する、という指導もおこないます。「一歩まちがえば『裸の王様』を育ててしまう、褒めるだけの指導」とのちがいです。
 入団当初の子どもたちのようすを見ていると、現在の子どもの指導方法には「見直さなければならないところ」がたくさんあります。「部屋で勉強していなさい」とか、「もう宿題した」とか、勉強の部分では家庭でもそれなりに注意されますが、それ以外のたいせつなことは見逃されてしまっていることが多いのではないか。特に受験生の場合は。

 「部屋や机に座っていることが勉強」「勉強がいちばん大事」等という従来の「固定観念?」から脱却し、「生まれてきた子どもにとってほんとうにたいせつなものは何か」「成長して社会に出るには」という「成長の先を見通す視点」・「『頭(脳)の発達』に対しても、もっと広範で柔軟性をもった視点」からの教育や指導が必要とされる時代になったのではないか
 「お手伝い」や「作業」という、「『いつもの学習とはちょっとちがう脳の使い方』をすれば、広がりをもつことができれば、より脳が発達するであろう」ことは、認知をつかさどる「スキーマ」の形成やその役割から考えても想像に難くありません。その「広がり」が「次の考える枠組みを規定する」わけですから。

 「『学習の幅を広げること』が、『学習のマイナスになる』ようなおかしなこと」は初期の特例を除き、ふつうなら考えられません。それより、子どもの場合、「決まりきった机上のトレーニングだけに終始する方が脳の(頭のはたらきの)柔軟性や創造性のバランスの良い発達を阻害することが多い」のではないでしょうか。
 いずれにせよ、米作り・カブトムシやスッポンの飼育・土筆やミカンやカキの収穫・・・という「一連の課外学習や立体授業の数年」を通じて、「叱られながら覚えてきたこと」が、5年生後半以降になると、次第に身についてきます。単に「知識の埋め込み」ではないので、成長には回数と時間がかかりますが、その代わり一度身につけば、決して忘れません。そして、その気持ちのありようが「学体力」(関連ブログ頁をお読みください)の礎となります。
 5・6年生の現団員諸君たちも今までのOB教室生と同じように、能力が高く、よく気がつき、周囲や後輩にやさしい青年に育ってくれることでしょう。スッポンやカブトムシの世話を「さまざまなことに気づかいながらおこなう」という「気配り」や「心がけ」は、当然後輩や周囲の人に対する「やさしさの土台」になるはずだからです。

 よく聞く「虫(スッポン!?)が気持ち悪い!」という子どもじみた発想(感想)では、こういう考え方や指導方法を手にする(に目を向ける)ことはできません。子どものまわりにある、すべての「環境」が子どもに対して与える影響を考えずして、バランスのよい成長を手にすることができるでしょうか? 「虫には限りませんが、机上の受験勉強や学習以外の、子どもにかかわる成長の広がりにも、もっと目を向けること」が「勉強ができる子」を育てる秘訣。だとぼくは考えています。

日々の課題(宿題)の意味
 団の宿題は他受験塾に比べれば、おそらく「半分にも満たない量」で、ダラダラじゃなく、きちんと進めることを繰り返していれば、6年生の量でも一時間前後でできます。また、中学受験にもそれで十分だと考えています。要は毎日時間を決めて、きちんとできるかです。

 「宿題を課す理由」は四つあって、まず一つ目は日々の学習習慣をつけることのたいせつさ、です。やらなければならない時には、きちんと机に座って(学習机に限りません)学習できる、という習慣です。
 それが定着しないと、大学合格までの学力の見通しは立ちません。また、子どもたちを指導しているとよくわかりますが、アルゴリズムや、知識をはじめとする学習内容は、彼らの頭の中で形成途中で、まだきちんと「定着」していません。身についていません。
 少し学習をさぼって、考えること・繰り返すことがおろそかになると、数か月を待たず成績が下降します。早ければ、数週間の「サボり」で結果にあらわれます。団で毎月学力コンクールを実施しているのは、それらの傾向を早急に判断できる、という理由もあります。それらの失敗を最小限に留めるためです。

 二つ目は早期の漢字習得
 漢字はやはり「繰り返し」をしないと覚えることができません。また、特別に漢字の時間を設けて指導するのは時間的にもむずかしく、家庭学習に依存しなければなりません。
 特に漢字の繰り返し演習のようなルーチンワークは学年が上がるほど嫌がります(手抜きをするようになります)。したがって学年配当にかかわらず、ドンドン先取りを意識して、「漢字のストレスなく問題文を読めるような状況」を早くつくることがたいせつです。
 江戸時代の「素読」をみてもわかるように、未だ物心がつかない頃から漢籍を読ませるような時代もありました。湯川秀樹博士も自著で、その素読による漢字の早い時期の習得がずいぶん役に立ったと述べています。なお、ドリルの注意として、漢字単一ではなく、漢字のことばが熟語として文中で使われているものを利用します。それをしないと、同音異字(音合わせ)のまちがいが減りません。またことばの使い方にも慣れることができません。

 三つめは「計算技能」の習熟です。これはみなさんも振り返るとわかるように、計算をする機会が減ると、極端にスピードが遅くなり、まちがいが増えます。「文章題の理解はできるが、計算まちがいが多い」では意味がありません。漢字と同じく計算も、「考える」ための障害にならないように、「計算することに頭を使う」という状況から早く脱出しなければなりません。「早く」といいましたが、その時期は3年生、遅くとも4年生の間に習熟すれば、それほど問題は発生しません。
 最後の四つ目。これが特にたいせつだと、ぼくは考えているのですが、「『未』学習範囲の先取り学習」をできるように育てておくこと
 宿題は多くの場合、習ったことをドリルで復習・演習するというのが一般的です。もちろん、そうした学習もたいせつです。しかし、もっとたいせつなことは、「まだ習っていない範囲を、解説等を読みながら内容理解し問題に答えていく」という学習(姿勢)です。
 小・中・高と学年が進むにつれ、指導する先生は、「生徒がわかっているということ」を前提として授業を進めていきます。特に難関進学校の場合は、選抜された諸君ゆえ、そういう傾向が高いのではないでしょうか。また、それまでの学習経験で、受験問題の暗記や解法を「受け身」ばかりで学習した子たちのなかには、そのスピードや授業内容にも戸惑い、ついていけなくなる子が多くなる可能性が高くなります。
 可能性を広げる、本来の(目指すべき)学習は、研究者の姿勢を考えてみればわかるように、「みずから参考書(参考文献)を読み、考えや発想を進めていく」という姿勢です。それによって自己の能力を高め、仕事や人生の可能性の幅を広げる、という経緯をたどります。「自学」です。そういう能力を身につけることによって、難関大学受験も可能になる、ぼくはそう考えています。

 写真例示の本は、ぼくが使ったものも含め、いずれも古いものですが、定評があった(ある)難関大学受験参考書です。「こういう難度の参考書を自学できること」で合格が可能(容易)になります。「自ら読み通せること」が可能にならなければなりません。予備校で、懇切丁寧に指導を受けて合格しても、「内からの駆動力」を基にする学力がついているかどうかは甚だ疑問です。
 自ら率先して進められる力、長い目で見通して、そういう力を身につけられることを理想とするのが、団の指導です。「学体力」の大きなポイントです。いつもこれらの意味を念頭において宿題を課しています。

クリント・イーストウッド讃
 最初は「アイアンマン」。肩の凝らない映画です。取りあげるべきかどうか迷ったのですが、「背景やシナリオも含めて」、「いかにもハリウッド映画」というポイントが決め手でした。

 ふたつめは「狼の死刑宣告」。愛する息子を殺された会社勤めのサラリーマンと街のならず者との壮絶な復讐劇。

 次は「陪審員」。デミ・ムーアが子どもを守るために弱い女から強い女に成長する物語。「(ひとりの)人間の成長(変身)を表現する」のは映画ストーリーの常道ですが、シナリオもそれなりにまとまっています。ちなみに、先の「狼の死刑宣告」も、ふつうのサラリーマンが「復讐の鬼」に変わりました。

 それにしても、この頃のデミ・ムーアより、年を重ねて「鋭さと強さ」を増した「G・Iジェーン」のようなデミ・ムーアの方がはるかに「色気」がありますね。映画女優としては、よいステップを踏んできているということでしょう。

 「恋に落ちて」。ロバート・デ・ニーロとメリル・ストリープの(不倫)純愛(?)物語。
 おたがいに、「それなりに幸せな夫婦生活」を送っている二人の、ふとした出会いから・・・「それはあかんやろ!(笑い)」という作品です。でも、「そういうことが実はよくある」ということが不思議でもなんでもないと思えるように、ぼくも年をとりました。いいのかな?

 「マルコムX」。デンゼル・ワシントンがやはり「いい味」です。組織、あらゆる組織は必ずダークな面をもっている。組織が大きくなれば、ダーティな面をもたざるを得なくなる、というのが社会経験からのぼくの結論です。かつての黒人解放運動の一面が垣間見えます。
 最後は「ミリオンダラー・ベイビー」。不幸な環境で育った女の子の自分探しと、家庭に恵まれない初老のボクシングトレーナーの物語です。
 2004年、なんとイーストウッドが74歳の時の作品です。そして、この作品で二度目のアカデミー賞受賞。74歳を過ぎてのちも、創作意欲が衰えず作品を作り続けているパワーには敬服します。

 次々にアイデアや企画が脳裏に浮かび、それらを表現・実現したいという意欲、つくり出す喜びと、おそらく苦悩。人生で「何かを生み出す力(彼の場合は映画俳優から映画製作)」を手に入れ、それが評価されること・期待されることが、逆に「生きる力・生きていく力」を鼓舞する、というしくみになっているのでしょう。素晴らしい「生きるしくみ」です。しかし当然それには、しかるべき能力や知力が要求されます
 日本は高齢社会になり、あちこちで孤独死や自殺のニュースが流れることが多くなりましたが、「何かをつくり出す、生み出す」という生き方が、「年をとってからいきなり身につく」ということは、ほとんど考えられません。小さいころ(若いころ)から、いろいろな体験を繰り返し、好奇心を養い、自らのやりたいこと・伝えたいことを探すという「魂の彷徨」があって初めて可能になることだと思います。子どもたちに伝えておきたいことが、また一つ増えました。


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