計算技能の習熟と『未』学習範囲の先取り学習とは
前回、日々の課題(宿題)を課す意味についてお伝えしました。そして、漢字と計算(技能)については、「できるだけ早く覚える(慣れる)方がよい」というアドバイスをしました。
その際、「漢字と同じく計算も、『考える』ための障害にならないように、『計算することに頭を使う』という状況から早く脱出しなければなりません」とも述べました。この「アイデア」については、その後の学力伸長、ひいては「考えることを深めなければならない」大学受験にもかかわってくる大きなポイントなので、もう少し敷衍します。
小学校低学年での「計算技能主体」から、「受験を控えた中・高学年の算数」になると、「必要になるアタマのはたらきが」少し変わってきます。「条件を整理して論理的に考え、計算段階までに至る読解力の有無」が問われる算数、言いかえれば「計算するまでの『あれこれ』を読み解く力をつけなければならない」のです。
「(漢字と同じく)計算も、『考える』ための障害にならないように、『計算することに頭を使う』という状況から早く脱出しなければなりません」と、先週書いたのはその意です。問題文の意味を丁寧にたどらなくてはいけないときに、計算力がおぼつかなければ、思考をまとめることはできません。
たとえば、小学校4年生用の算数の問題集には次のような文章題が並びます(下記はいずれも「中学入試完成算数4年 教学研究社」より)。最初の「四則計算のルール」の単元ですが、「何をどう求めるか」をたどってみてください。ふつうのおとなでも、「どれだけ面倒か!」がよくわかるのではないでしょうか。
上記書p31(引用三問とも、一部ひらがなを漢字に直してあります)
① 60個のおはじきを、一人に9個ずつ分けたところ、まだ残りが多かったので、もう6個ずつ分けたところ、ちょうどなくなりました。
(1) 分ける人の数を□で表した式をかき、答えを求めなさい。
(2) もう一人増えたので、分けた中からいくつかずつ集めて、みんな同じ数にして分けました。いくつずつ集めましたか。
④ 5月の連休には、ある動物園ではたくさんの入園者がありました。1日目の入園料は2日 目より456000円多くありました。3日目は2日目より278000円少なくて、1754000円でした。この3日間の入場料の合計はいくらになりましたか。
⑤ 右の図のように、㋐から㋓まで、この順に飛行機の便があります。
(1) ㋐から㋑まで乗ると9500円で、㋐から㋒まで乗ると、25000円になります。このとき、㋐から㋑までと、㋑から㋒まで別々に乗るときより2500円安くなっています。では、㋑から㋒まで乗るときの値段はいくらになりますか。
(2) ㋑から㋓まで乗ると27000円で、これは㋑から㋒までと、㋒から㋓まで別々に乗るときより2500円安くなっています。では、㋒から㋓まで乗るときの値段はいくらになりますか。
(3) ㋐から㋓まで乗るとさらに安くなり、㋐から㋒までと、㋒から㋓まで別々に乗るときより、4500円安くなっています。では、㋐から㋓まで乗るときの値段はいくらになりますか。
「『これでもか』というほど厄介な設問」になっていることがよくわかると思います。こういう問題を読み解き、まず「何を求めなければならないのか?」を探らなければなりません。
そのためには「文中のどの条件(数値)が必要で、その計算(式)はどう組み立てるべきか?」「図や表をつかって、問題をどのように整理すべきか」等という「理解力・解釈力・応用力が備わっていること」が前提になります。計算をするのはそのあとです。計算力だけでは手に負えません。「読解力」がなければ計算をするところまでにも至らないのです。
ですから、初学者の「『計算式をただ計算する』という算数力」とは「まったく異なる世界」なのです。たとえば、計算力があっても、「めんどうくさがっては」ダメなのです。受験学年近くになって、「この子は算数が得意だったのに、どうして成績が悪くなったのですか」という状況が生まれるのは、こうした状況把握ができていないからです。
また、「国語が良くて(読解力があって)、算数が苦手な子は成績を飛躍的に上昇させることも稀ではない」が、「算数が得意で(だと思っていて)国語が苦手な子は、よりむずかしい」と、ぼくが保護者に伝えるのは、こうした背景があるからです。
まず、「面倒で、厄介な問題に『ひとりで』立ち向かえるようになること」、そして『〈条件が錯綜して読みにくい問題〉を丹念に読み解き、解答に至るまでの論理性や執着力をもち続けられること』、つまり『学体力』が必須です。
難関大学に進学したいと思えば、中学進学以降、さらにバージョンアップした、この力が要求されます。先週掲示した「自学するための受験参考書」の体裁をもう一度よくご覧いただくとよくわかるのではないでしょうか。生半可な学力では太刀打ちできず、必要なのは「学体力」です。
進学成績をご覧いただくとわかるように、団OB教室を経たOB生は、半数以上がその必要な力を身につけて育ってくれました。ふだん、ぼくが「未習単元の課題を課す」という、特異な(?!)方法を採るのは、その習慣がこうした力を引き出すスプリングボードになるからです。
また、「少しがまんしてやる」、「がんばってやる」、「あきらめない」という「心の構え」は立体授業や日ごろの指導で身につくもので、それらの総合が団の指導です。そして、いずれもが「学体力」の養成に集約しています。
ジュリア・ロバーツ讃―ほんとうの美しさとは?
まず、「アバウト・ア ボーイ」。ヒュー・グラントが、いかにも「はまり役」の、「遺産相続」小金持ちの「遊び人?!」を演じています。ひょんなことから、小生意気な少年と知り合いになり…という作品です。
二本目は「陰謀のセオリー」。メル・ギブソンとジュリア・ロバーツの「活劇!サスペンス」。
偶々、同時期に「一流の集中力」(豊田一成著 ソフトバンク新書)を読んでいました。たいせつな「からだのしくみ」や学習指導の参考になるように、集中力や自律神経・快感神経のはたらきなどについての本は、よく読みます。その中の一節です。
…私はサッカーのゴールキーパーを指導するときに、」ペナルティキックのときはキッカーの右目に視線を投げろ」とよく言います。人間の顔は左右で感情の表れ方が異なり、左半分は意識した表情をつくることが得意ですが、右半分には本音が表れるのです。極端な言い方をすれば、人間の弱みは顔の左側では隠せても、右側では隠せないのです。(同書p166、下線は南淵)
ぼくは今スポーツにはあまり関係がないのですが、この一節を読んで、写真の方に「おもしろい関係があること」に気づきました。右半分と左半分のエピソードです。
女性(女の子)のスナップ写真を撮ってきた経験からいうと、大半(おそらく8割以上)の女性は左半分側面から(モデルの。したがってカメラマン側からは右手側から狙って)撮った方が、格段にきれいに(魅力的に)撮れます。興味をもたれた方は、是非試してください。なお、(特に女性の)肖像画やポートレートは圧倒的に左側面からのポーズが多いはずです。
さて、「『左側きれい』の理由はなぜか」ということです。撮影経験からその事実は知っていたのですが、その理由は調べたこと(考えたこと)がありませんでした。どうも、左脳と右脳のはたらきのちがいを基に説明されているようです。左半分が右脳で、右半分は左脳に「表情変化のアドバンテージがある」というわけです。
左脳と右脳のはたらきのちがいは、一般的に右脳が感覚・感性をつかさどり、左脳が言語や論理的な思考を支配すると言われています。脳内の研究で感性と感覚にかかわるものですから、これは厳密な研究結果ではありません。大きなくくりではまちがいないでしょう。
それから考えると、「表情を変えるのに、論理的な思考をしていては間に合いません」から、写真を撮るようなときには、華やいだ雰囲気が多いだろうし、おしゃべりしているときや、カメラマンのサービストークに表情豊かになるのは、「やはり左半分」なのでしょう。
先ほどのキッカーとゴールキーパーの場合に「左半分は意識した表情がつくれる云々」とありました。「『一瞬で相手をごまかすための表情』が感覚で捕えないと間に合わない」ことを考えると、「引用」も納得できます。ちなみに、さっきの「キッカーの心理を読むために、相手の右目に視線を投げること」の意味を、著者は次のように書いています。
…右目に視線を投げろというのは、相手の正直な胸の内に訴えかけるということなのです。もしもキッカーが、「ペナルティキックをはずしてしまうんじゃないか?」という不安を抱いていれば、「その気持ちはお見通しだぞ」という心理的なゆさぶりをかけることができるわけです。(同書p167)
つまり、「感覚でその場をごまかそうとしても、本音は(論理的思考の)右目にあらわれている」ということなのです。
さて、ジュリア・ロバーツの「陰謀のセオリー」から遠く離れてしまったようですが、実はそうでもありません。「きれいに『なりたい』という世の流れ」に、ロバーツは次のように苦言を呈しています。「ほんとうの美しさとは何か」。拙訳で紹介します(下線は南淵)。
ジュリア・ロバーツが「すっぴん」の自撮りをインスタグラムに公開し、美容産業に「賢者の矢」を射ち込んだ。
ビヨンセのヒット曲「プリティハーツ」の歌詞を引用して、「完璧を求める病気にかかってるのよ、みんな」と書いているのだ。
「幾重にもメイクを塗り重ね、ボトックスを手に入れ、理想のサイズを手に入れるため断食だってするのよ」
彼女はこう続けている。「眼に見えるものばかり治したって、見えないものまで治すことはできないわ。「手入れ」が必要なのは心の持ち方なのよ。もう、いいかげん、そういう立場に立つべきよ。
自分のありのままを愛せない人が、誰かに愛してもらえるなんて思う? 自分自身でいられることに幸せを感じなくては。外見がどう見えるかなんて関係ないわ。たいせつなものはあくまで中身よ」。
「私は今日、すっぴんをどうしても投稿したかったの。しわがあることだってよくわかっているけど、今日はそんなことより、もっとわかってもらいたいことがあるの。私は現在の私を受けとめたいし、みんなにもありのままの自分と自分の生き方を受けとめてほしいの。等身大の自分を愛してほしいの」。
ロバーツの美しさは、もうサイコー。つきぬけてるわ。しわの有無なんて問題外よ。(修正する必要なんてまったくないわ)。
(Sophie Brown/Social Media Winter at The Huffington Post UK)
「きれいな人が好きな」ぼくも反省しなくてはいけませんが、右から見ようと左から見ようと、右脳がどうであろうと、左脳が何であろうと、たいせつなことは「美しいものを『心』に積みあげていくこと」、「美しい心をもち続けること」。それが、弾ける若さやきらめく美しさが影を潜め、年齢を重ねても、ますます美しくなれる最高の方法でしょう。そして「それによってナチュラルに形づくられる外見こそたいせつなもの」だと思います。女も男も。
美は、決してファンデーションでも、マスカラやシャドー・つけ睫毛でも、口紅との「共演(!)」でもありません。まして高価な装いでもありません。逆に、それらはすべて、「年齢とともに不自然になる取り合わせ」のはずです。
若いころから写真を撮りつづけていると、表情に現れる内面の美しさもよく見えてきます。みなさんも一度ぜひ振り返ってみてください。ちゃんと見えてくると思います。
観察眼が鋭く、頭のよいジュリア・ロバーツは「それらがわかっていることが、『隠すことができない』眼の表情や目の輝きに現れてくること」、それが「ほんとうの美しさと女性らしさであること」を伝えたかったのです。ロバーツ万歳。
なお、引用の最後の、取材記者の原文は、
We think Roberts looks uh-mazing, and we can’t spot a single wrinkle! ですが、この場合のspotは写真の用語で「スポッティング」という、「写真の小さな傷などを小さな筆先で修正する」という意味です。念のため。