『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く28

2018年09月01日 | 学ぶ

子どもたちは、知らないものを学んでいる
 これまで子どもたちの学習指導を進める前に、こどもたちの「環覚」を養うこと、「周囲(環境)のさまざまな対象に興味や関心をもてるように指導すること」を強調してきました。今のままだと、子どもたちは、エジソンの言葉にあった「見たこともないもの・知らないものばかり」を学ぶことになるからです。
 エジソンのいう、「見たこともないもの・知らないこと」は、前にも考えたように計算演習や書き取り演習などのくり返しや、教科書に出てくる抽象思考のエッセンスだと思いますが、幸運なことに、エジソンの場合はそういう「つまらないこと」ことを学ばなければならない一方で、理解のあるお母さんのもと、外遊びで自然の諸相を知り、既にそのおもしろさやそこにある不思議や謎を知っていました

 つまり「学習に対するモチベーション」は既に心の中に芽生えていました。野外で自然環境に触れ、そのおもしろさを知っていたことで後日、学ぶことに対する好奇心や研究したいという欲求が、彼の中で爆発しました
 現在の学習環境・受験環境にある子どもたちは、そういう経験のある子が居ますか? 一方的な抽象指導の押し付け以外の余裕やモチベーションはありません。しかし『環覚』を養えば、子どもたちの学習内容に対する興味や関心が大きく変わり、彼らの学習観・学習姿勢が激変する可能性があります。

 ダーウィンに「比類なき観察者」と呼ばれたファーブルのコメントがあります。
 
 「なんでそんな名を授かるほどのことがあるのかこの私には未だに理解できないのだ。自分のまわりにうようよしているものに興味を持つというのは、どうも極く当たり前のことではあるまいか。誰にもできることだし、それに面白くはあるのだから。」
 (「完訳ファーブル昆虫記」山田吉彦・林達夫訳 岩波文庫 第6巻 p43)
 
 下線部を読んで、「自分のまわりにうようよしているもの、そんなものに興味を持つやつがいるのか」というのが、たいていのおとなの感想でしょう? それは、虫に限らず、面白いものに気づく「環覚」が芽生えていないからです。おもしろさに気づかなかったからです。 これらはよく見たり、浸ったりしないと気づきません

 ファーブルには当然だった「誰にもできることだし、おもしろくあるもの」を、まったく知らないまま育ってしまった。目を向けることを教えてもらえなかった。だから、いつのまにか周囲が、「目を向けることもない『路傍の石』」ばかりになってしまったのです
 「環覚」を育てられなかった、育たなかった。好奇心の幅が狭い、好奇心の少ない、つまり考えることが少ない、情報量が少ない、さらに考えることが制限されてしまう。「環覚」が育たないと、そういう結果になることがあります
 このように学習行動が受験オンリーになれば、積極的な学習姿勢を望むことがむずかしくなります。受験以外の目標や目的が見えなくなるからです。

 現在は、環境の様相も大きく変わりました。自然物が人工物に変わり、その人工物はすべて『自己主張』が強くて、けばけばしく、うるさく、コマーシャリズムに先導されて、さまざまな欲望を刺激してやまない。周囲をゆっくり観察することなど、指導者や環境に恵まれた人たちにしかできない。環境のおもしろさがわかる以前の問題です。
 また学習指導は、実際にある学習対象物の受験に関係のあるエッセンスの伝達です。使っている教科書はそれら学習対象が現実に持っている不思議なところや興味深いところ・自然の色や形・日々の推移や変容など、興味を引き出す要素を全部削り取って裸にし、なお「試験に出る骨組み」だけをX写真にして残しているようなものです。

  「環覚を育てなければならない」理由は、今のままでは、「おもしろいものもおもしろさがわからないまま」勉強しなければならないからです。学習対象や学習内容に興味をもったり、おもしろさを感じる機会が生まれません
 環境に気づく目、「環覚」を育てれば、学習対象や学習内容と教科書記述内容とのあいだで実感をもとにした相互交流や自問自答がはかれる、学習していることに親近感が湧き、考えるきっかけや必要が生まれる。こういう習慣が、「学びつづける学体力」や「学んでいくモチベーション」を育てます

 こういう考え方を提示すると、やれ自然体験だ、それいけ野外へ、というような反応になりがちですが、一時的な取り組みであれば、何の意味もありません。自然環境を含む環境に対する『環覚』が、子どもたちの中に根を下ろし、日ごろの気づきに反映されなければ意味がありません。「自然に環境に目が留まる育て方」が望まれる方向です。
 
 教える側にも問題がある。理科の先生は、生命現象を物質的基礎に結びつける分析的、還元論的分野の生物学の知識は豊かにもっているようだが、周囲に生えている草木の名も知らないことが多い。(「学問の冒険」河合雅雄著 岩波書店 p241~242より)
 

 ここに引用した「周囲に生えている草木の名も知らないことが多い」という表現から、植物図鑑を持って野山を歩き回り、名前を覚えることがたいせつだと誤解されるといけないので、指導の参考になるファインマンのお父さんのようすをもう一度紹介しておきます。ファインマンのお父さんの「環覚の育て方」です。
 個々の事象のおもしろさはもちろん、さらに自然のしくみと成り立ちの奥深さを総合的にとらえさせ、考えさせようとする意図がありました。

 ファインマン一家が、よく訪れていた避暑地のキャッツキル山地でのようすです。いつも家族連れの大賑わいで、お父さんたちは、ウィークデイは勤めに戻り、週末にまた家族と合流するというパターンのようでした。

 親父はやってくると、ぼくを森での散歩に連れだし、森で起こるさまざまな興味深いできごとを教えてくれるんだ。それを見ていた他の母親連中は、もちろんすばらしいことだと思うわけだ。だから父親たちに子どもたちを散歩に連れ出すよう働きかけるのだが、最初はどうもうまくいかない。なので、ぼくの親父にみんなを一緒に連れて行ってくれるように頼みにきたんだ。
(The Pleasure of Finding Things Out  by Richard P. Feynman PENGUIN BOOKS  p4  拙訳)

 しかし、ファインマンのお父さんはOKしません。なぜか?

 だけど、親父はぼくと特別な関係を続けたかったので、ウンと言わない。ぼくと親父の個人的なやりとりがあったからね。(前掲書p4  拙訳)

 ファインマンのお父さんに断られた母親たちは、結局父親たちを説得して子どもたちを連れ出させます。そして翌月曜日、子どもたちみんなが野原で遊んでいると、その中のひとりが、見つけた鳥を指さしファインマンに、「何という鳥か答えてみろ」とたずねます(このあたりはファインマンのお父さんに断られた「やりとり」の「しがらみ」が感じられておもしろいところです)。
 名前は既に知っていたファインマンですが、とぼけて「いやまったくわからない」と答えます。すると、彼は「茶首ツグミだ」とか何とかいいながら、「何だよ、お前の親父は何にも教えてないんだな」と毒づきました。

 だけど、実際はまったく逆だったんだよ。ぼくの親父はちゃんと教えてくれていた
                                 (前掲書p13)

 何が「逆!」だったのか? どう教えていたのか? 
 ファインマンのお父さんは鳥を見て、あの鳥は「スペンサー虫食い」(ここでファインマンは、親父は実際の名前を知らなかったのだろうが、とコメントしています)っていうんだ、まぁイタリア語で何とか、ポルトガル語で、中国語で、そして何と日本語まで持ち出して「でたらめの名前」を並べて、ファインマンにこういいます。

 これで、あの鳥の名前は世界中のことばでわかったわけだ。だけどそれが済んだからといって、お前はまだあの鳥について何にも知っちゃいない。ただあちこちに人がいて、あの鳥のことを何て呼んでいるかがわかっただけだろう。だから、まずよく見ようや、奴が何をしているのかを見よう。たいせつなことは、そのことなんだよ。(前掲書p14)

 ファインマンはいいます。「こうして、ぼくはずいぶん早くから、何かの名前を知っていることと、何かを(ほんとうに)知っていることのちがいを学んだのさ」
 つまり、先ほどの生意気な、そして「不幸な」少年の例に代表されるように、ふつう教えがちなのは「名前」や受験事項だけなのです。「ただの抽象や知識」からは何も始まらない、おもしろいことは何も生まれない、大切なことはわからない。まず、自分の目で「そのものがどんなものかを見ること、そして考えること」。ファインマンのお父さんが心がけ、ファインマンが強調するのは、そういうことなのです。
 そしてぼくが伝えたいことも同じです。まず目を向けなさい。周りをよく見て、何があるのか、どうなっているか、何が起こっているか、何が起こったかを見なさい。
 それでは外国の方に読んでいただきたい「環覚」のつづきです。
  
To teachers all over the world 8
There seems to be very few children having such experiences. The living things that show different characteristics and appear in different forms are grouped into the insects on TV such as the cockroaches, and plants that are grouped into dull trees and trivial weeds only.
 Anyway we are losing our feeling of living with animals and plants all together. The roadside trees that make us feel relaxed, are only seen as trouble makers scattering unwanted leaves.
 The living trees teach us intimately, through the turning of leaves in the four seasons, how to live well. Everyone feels obliged to clear and clean up, the fallen leaves as taught to us as daily habits.
Ashes made from fallen leaves in open-air fires are effective for the growth of plants and small cinders teach children how to make charcoals. Those experiences lead them to imagine learning matters in textbooks more easily and deeply.

 Roasted sweet potatoes in open-air fires are so delicious for children after helping their parents clean up fallen leaves. They cannot get such sweats at fast food shops.
 Even if we cannot see open-air fires and roasted sweet potatoes, we should teach about living things in their true colors and live lives with them in harmony just as the turnings of the four seasons. We should do this everlastingly for our children.
In only the urban landscapes of cities that pass by quickly, kids never get a chance to raise their antennas to look at things of surrounding and think about them more carefully. They lose their opportunities to discover things and will not be able to get a sense of their surroundings at all.

 For those children that find an unknown flower beside a path, will be able to appreciate the joy of learning and studying. And after that they will continue to have many experiences such as this. If they don’t care and
aren’t interested in things around them, it will be near impossible for them to get 環覚KANKAKU,(the sense about the things of their surroundings), and kinship with learning matters, and much of the joy of studying.
Children usually used to learn and study by textbooks written in letters and simple drawings and pictures, and imagine the outlines of learning matters. It would be increasingly more difficult for them to study such matters, as fewer and fewer had they experiences to observe life around them. It is boring for children to not understand very well or deeply.

 The best ways for children to learn and study while getting the joy of learning is to watch carefully and interact by touching friendly and thinking about these experiences deeply. To distinguish differences of things one to another is the door to kinship.
Do you think of walking around in your surroundings with your children? If you are interested in things around you, your children would also internalize this interest.


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